第7章「終焉災」1
そこでは深い闇が一面に広がっている。さながらそこは神話や様々な宗教に登場する冥界のようであり、あらゆる生命が死に絶えているようだった。
辛うじて真上に空いた穴から青白い月光が差し込み、中の様子はぼんやりと晒されている。
辺り一帯には瀑布が池に叩きつけられる音が響き渡っており、その飛沫が地面を濡らして月光を反射している。
そこは《境界神社》の地下、一〇年前の《終焉災》の際に生じた爆発事故によって作り出された巨大なクレーターの底だった。
四方の壁からは絶え間なく地下水が滝となって底に注ぎ込まれ、深く巨大な池を作り出している。透き通った水を大量に貯えた池からは東西南北に一本ずつ二〇メートルほどの巨大な円柱が屹立し、それらが太い注連縄で互いを結んで結界を成している。
そしてここは、とあるふたつの世界が交わる境界領域でもある。
「《此岸》と《彼岸》の狭間……」
神宮祀は顔を上げ、目の前に鎮座する「ソレ」をじっと見つめた。その四つの円柱の中央には一段と太い円柱があり、そのてっぺんには大社造の巨大な神殿が鎮座している。あれこそがこの《境界神社》の真の本殿だ。
そしてその本殿の中からは何やら青い光が灯っている。
祀は目の前に設けられた本殿へと続く階段を昇っていく。延々と続く階段は終わりが無いようで、一段一段昇っていくごとに祀の感情が削ぎ落とされていくようだった。絞首台へ向かう死刑囚もこんな気持ちになるのだろうか。
「……」
我に返るといつの間にか祀は本殿の前に到着しており、彼女は改めてその外観をじっと眺める。この先にずっと捜し続けていた「アレ」がある。中に足を踏み入れればもう後戻りできない。
でも、彼女の心はもう決まっていた。
「うっ……」
その時、身体がわずかにぐらつき、彼女は壁に寄り掛かることで転倒を抑えた。こめかみに鈍痛が走り、吐き気と怖気に襲われる。もう本格的に肉体の限界が近いようだ。
「……急がないと……」
溢れ出る冷や汗を拭い、ぎゅっと胸を押さえながら祀は固く閉ざされた扉をゆっくりと開く。
そこで待ち受けていたのはこの本殿に長きに渡って秘匿されてきた「御神体」だ。
祀は息を切らしながら真っ暗な本殿の中にゆっくりと足を踏み入れる。電気など通っているはずもなく、行灯などの照明の類は一切ない。しかし本殿の中は眩い光で満たされており、中を歩く彼女が何かに躓くといったことも無い。
本殿の中は非常に簡素で、神饌を供える三方や榊、燭台や神鏡といった儀礼的なものは一切見当たらない。
ただ中央に「ソレ」だけが静かに存在していた。
「……《核心》……」
祀はそっと「御神体」の名を唱える。
《核心》はガラスで作られたカプセルの中に浮かんでおり、煌々と青い輝きを放っている。《霊子》に似たその光はとても綺麗で、祀ははっと息を呑んだ。
それはさながら見た者の心を奪う魔性の宝石のようであり、自然と彼女の手もそこに伸びる。生半可な力ではヒビすら入らないようなとても分厚いガラスだが、《灰鬼》化した祀にとってそれを破壊するのは造作もない。
祀は目の前に佇むガラスの円柱を力任せに振るった拳で叩き割り、その中で浮かんでいる《核心》に手を伸ばす。しかし《核心》から放たれる青い光が突如その輝きを増して祀を襲った。
(《核心》が抵抗している……? やっぱり《灰鬼》として穢れきった私には触れることが許されないの……?)
青い光は祀の異形化した歪な手を容赦なく灼いていく。みるみるうちに皮膚が焼失し、肉が剥離し、骨が晒され壮絶な激痛が彼女を襲うが、それでも祀は歯を食いしばって《核心》に手を伸ばし続ける。
まるで見えない壁に阻まれているように彼女の指先は《核心》に触れるか否かという距離で止められるが、祀は決して手を引かない。この程度の抵抗で諦めるほど彼女の絶望は薄っぺらいものではない。
全身から冷や汗を流す祀は奥歯を噛み締め、あらん限りの力を右腕に込める。《核心》は相変わらず祀の手を聖なる輝きで炙っているが、次第に消し炭となった右手はその骨を、肉を、皮膚を再生させ、元の姿を取り戻していく。
祀の執念はどうやら《核心》の試練に打ち勝ったようだ。そのままの勢いで彼女は身体全体を《核心》に向かわせる。すると祀のボロボロの右手は遂に《核心》を掴み取った。
「やっと……届いた……!」
祀は右手の激痛も忘れて無邪気に顔を綻ばせた。彼女が手にしている《核心》はバレーボールよりやや小さいくらいのサイズで、水晶のように透き通った見た目をしており、中に灯った青い光が表面に走る幾何学的な複雑な文様をはっきりと浮かび上がらせている。材質はガラスのようで、肌触りはとても滑らかだが異様に軽く、ほとんど重さを感じない。
《核心》は祀を適合者と認めたのか、先程のように熱は持っておらず、氷のような冷たさが彼女の手に伝わる。
「これでやっと私は……」
この生を終えられる。
祀はそれを口にしようとした瞬間、背筋が凍りついた。
自分は最初から滅亡の危機に瀕したこの世界を自分の命を代償とすることで救うつもりだった。しかしいつの間にかこの身を犠牲にするという手段は目的へと変わっていた。
その欺瞞を自覚して、祀は何かおぞましいものを感じ、こみ上げてきた吐き気を必死に抑える。
「違う……! 私は……ッ!」
《核心》を両手で抱え、半ば狂乱したように叫ぶ祀の声は悲痛だった。これではまるで必死に自分の犯した罪から逃れようとしているようではないか。世界を救うために自分の命を犠牲にするという涙を誘う美談が実際のところは最も愚かで醜悪な逃避行為でしかなかったという真実を今になって突きつけられる。それに祀は耐えきれなかった。
「――接続を開始! 私の命を取り込みなさいッ!!」
あらん限りの声で叫んだ祀に呼応し、《核心》はその機能を発揮する。
表面に刻まれた幾何学的な文様を青い光がなぞってゆき、祀の抱えたソレは重力を無視して宙に浮く。
次第にその輝きは強くなり、ひとりでにゆっくりと祀の胸元に吸い寄せられるように近づいていき、祀も両腕を広げて《核心》を受け容れる。
そして《核心》は祀に接触するとそのまま彼女の胸に抵抗なくするりと入っていった。
「うっ……!」
祀は呻き、たまらず崩れ落ちる。
頭痛も吐き気も怖気も動悸も息苦しさも増していくばかりで、今にも意識が飛んでしまいそうだった。
まるで身体の内側から焼かれているかのような熱が奥底から湧き上がってくる。
視界はぼやけているが、床に着いた両手がどんどん異形に変貌していくのがはっきりとわかった。
「……え……?」
みるみるうちに《灰鬼》化が進行する祀は激しく脈打つ胸を抑えるが、その奥にある《核心》に変化が生じるのがはっきりとわかった。
祀の全身から発せられる《霊子》のオーラ。それは青色の正の《霊子》ではなく、赤い負の《霊子》に変貌している。
既に彼女の肉体は《灰鬼》に変貌してしまっているので色が青から赤になること自体はおかしいことではないが、その出力がおかしい。彼女の体内に残っていた《霊子》はとっくに枯渇しており、本来であれば汚染された《霊子》もほんの少量しか生まれないはずだった。
しかし今これだけの量の《霊子》が祀の中から溢れている。
(この負の《霊子》は全て《核心》から流れ込んでいる……!?)
祀の胸元に先程取り込んだ《核心》が浮かび上がる。
しかしその色は透き通るような青ではなく、どす黒く濁った赤に変貌していた。
(……つまり最初から《核心》は汚染されていた……?)
何故《此岸》と《彼岸》の境界が揺らいだのか。
何故《終焉災》なんてものが生じたのか。
何故《灰鬼》が大量に出現したのか。
簡単なことである。
とっくの昔に《核心》が狂っていたからだ。
(違う……それだけじゃない……)
冷や汗を全身から流す祀はぎゅっと片手で顔を抑える。
汚染された《霊子》というものは本来死体に残った正の《霊子》が肉体の腐敗と共に穢れて変化するものであり、この《此岸》においては自然と生じるものではない。自力で《霊子》を生成できない《灰鬼》は人間を殺し、その死体から《霊子》を取り込んで汚染することで負の《霊子》を獲得している。
そして負の《霊子》が自然に存在しているのは《彼岸》のみに限られる。
ならば答えはただひとつしかない。
「ま、さか……《核心》を通して《彼岸》から《此岸》に負の《霊子》が流れ込んでいる……?」
その答えに行き着いた祀は頭の中が真っ白になった。
全ての問題を解決する筈だった《核心》はとっくに壊れていてまともに機能せず、逆に暴走を始めている。
祀は何度も己の中にある《核心》に命令を下すが何も反応は無い。
八方塞がりだった。
祀は床にうずくまり、身体を丸めて苦しみに耐える。
しかしぼやけた視界の端、本殿の隅に何かがあるのに気付く。目を凝らして確認するとそれは先程祀が破壊した、《核心》を収めていたガラスのカプセルとまったく同じものだった。しかし中は空で、特に何も入っていない。
それを認識した祀は一瞬硬直した。
「どうして同じカプセルがふたつもあるの……?」
祀は胸に手を当てる。
彼女が把握している限りでは、《核心》は《此岸》と《彼岸》を隔てる霊界の門を自由に開閉できる鍵とのことだった。
しかし少なくとも彼女が取り込んだ《核心》は《彼岸》に満ちた負の《霊子》を《此岸》に流し込むばかりで、それらを堰き止め、逆流させるといったことはできない。
つまりそれが意味するのは……
「……まさか、《核心》はひとつだけではなかった……?」
祀はやっと事態を把握した。
何故《核心》が正常に動かないのか。
それは《此岸》から《彼岸》へ、死者の霊を弔い送る「除霊」の力を宿した《核心》がここに無いからだ。
つまり祀が取り込んだのは《彼岸》から《此岸》に霊を降ろす「降霊」の力を宿した《核心》。
理由は不明だが、本来二基必要なのに一基だけで《此岸》と《彼岸》の均衡を保たせていた「降霊」の《核心》はキャパシティを超えた稼働によって狂ってしまった。
「全部……失敗だったの……?」
祀は呆然とへたり込み、力なく項垂れる。
なんと滑稽で無様でつまらない末路だろうか。
自嘲に祀の口端が釣り上がるが、彼女の赤い瞳からは透明な雫が頬を伝って落ちた。
己の死すら希望として縋り付くしかなかった少女の心を真の絶望が飲み込む。
「……あ……」
すると彼女の周囲に黒い渦が生じ、その渦の中から真っ白な腕がいくつも伸びてきた。《灰鬼》のものとも違う、血の気のないやせ細った亡者の腕だ。
それらは血に塗れており、床に蹲る祀の全身に指先を這わせていく。
悪夢じみた光景だった。
白い腕は祀の髪を、頬を、首を、胴を、腕を、足を、くまなく撫で、掴み、引っ張り、握り、蹂躙していく。
身体だけではなく彼女の心も死臭で穢していく。
なんと冒涜的で、背徳的で、醜悪的で、退廃的で、破滅的な光景であろうか。
「……ああ……これもみんなが私に下す裁きなんだね……」
しかしどこか祀の表情は安らかだった。
出口の見えない暗闇の中でゴールに続く光明を見つけたかのように、彼女の顔は安堵に緩んでいる。
もしかしたら祀はずっとこの瞬間を待ち続けていたのかもしれない。
祀は自分の首を締め上げる白い腕をそっと撫で、ありのままに受け容れる。
全身を埋め尽くす白い腕の正体が誰なのか、彼女はわかっていた。
祀は静かに目を閉じる。
「……もう、終わりにしよう」
そして。
二度目の《終焉災》が始まった。




