第29話
この場の空気が凍り付いていた。
……皆が唖然としていた。それはもちろん俺もだ。
「え? な、なんだあいつ……? なんであんな地味で冴えない男が……元女の女子生徒に声かけられているんだ?」
「……う、腕組んでるぞ……? ど、どうなってるんだ!?」
一番ぽかんとしていたのは北崎だった。
……とりあえず、この場から逃げたほうがいいだろう。
……明日から、いじめが悪化するんだろうな。
そんなことを考えながら、かわかうようにこちらを覗きこんできた二枝の腕を強く引っ張った。
「行くぞ」
「えっ? あっ……は、はい」
二枝が驚いたように頬を染める。
……俺は一刻も早くここから逃げたかったので、いつものように彼女に答えることはなかった。
二枝とともにひとまずその場から緊急離脱……。それから、俺は二枝の腕を外した。
「……おまえ、いきなり何しているんだ」
「いや、その……たまには一緒に帰りたいなーって思って、全力疾走しました」
「……そうか」
元女からここまで歩いて十五分程度。よっぽど授業が早く終わり、全力疾走しなければ待ちぼうけとなっていた可能性は高い。
「なら、連絡くらいしてからにしてくれないか?」
「だって、そうしたら絶対先輩逃げるじゃないですか」
「よくわかったな」
「いや、わかりますよ。……ただ、なんていうか、先輩って学校でも先輩らしいんですね」
「……バカにしているのか?」
「いえ、安心しました。……じゃあ、なんで八雲さんは先輩の力に気づいたんですかね? 妹ちゃんは、まあ普段から関わっていれば分かりますけど……」
俺の力? 俺が気づかぬうちに何か中二病的な力を手に入れ、発揮していたのだろうか?
「何が言いたいんだ?」
「先輩って八雲さんと学校外で何度か会ったことありますか?」
……何度か。
遊園地と、あとはカフェか? あとはランニングの時だな。
「まあ、一応はあるな」
「そのとき、眼鏡や髪はどうしてました?」
「……夜のランニングのときにあったからな、髪はともかく眼鏡は外してたな」
「え、夜のランニングの時は外してたんですか? でも今朝は普通にしてましたよね?」
「……今日はがっつり走るわけじゃなかったからな。学校では基本外さないな」
「あれ、先輩の学校ってプールとかないんですか?」
「ないな」
「そうなんですね。それじゃあ、夏休みは一緒に泳ぎに行きましょうか」
「え、なんで」
「たまに、泳ぎたくなりませんか?」
「……いやまったく」
泳ぐのはわりと得意なほうだが、プールとかはあまり好きじゃない。
その理由は簡単だ。
小学校の頃だ。
学校の授業で水泳があったのだが、俺はまったくそんなことしていないのに、女子たちに「尻を触られた」と言われてしまった。
そして、当時から周りとあまり馴染むのが得意ではなく、教室で一人でいることが多かった俺を家族以外は信じてくれず、痴漢野郎のあだ名がついたからだ。
「えー、いいじゃないですか。私の水着も見られますよ?」
「……」
水着、か。
少し疑問がわいて、二枝をちらと見る。彼女は頬を僅かに染めながら、照れ臭そうにしていた。
「き、気になるんですか?」
「いや……女性にこんなことを聞くのもあれだが、聞いてもいいか?」
「……え? なんですか?」
「いや、女性って下着見られるの嫌だろ?」
「いきなりセクハラですか?」
「違う……けど、ほぼほぼ下着同然の水着は気にしないよな? なんでなんだろうって思ってな」
「……私の水着の話からどうしてそんなことになってるんですか」
昔から疑問に思っていたが、中々聞けなかっただけだ。
まさか妹に聞くわけにもいかないし、母に聞くのもな。
彼女に聞けばいい? それこそ不可能な話だった。
「……いや、純粋に疑問に思っただけだ。悪かったな。家に帰るか」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
がしっと二枝が手を掴んできた。少し頬を赤らめていた彼女は、それからそっぽを向きながら言った。
「あくまで、私個人の意見ですけど……下着はそもそも、誰かに見せるものとしてじゃないじゃないですか? けど、水着ってそういうのじゃないですよね? 小さい頃からそういうものだって刷り込まれて育っているので、たぶんそう考えるんじゃないですかね?」
「……な、なるほど……中々、真面目な意見だな」
つまり、小さい頃から、下着が水着、水着が下着で育った家庭の子どもなら、きっと下着姿を見られることに抵抗はないのだろう。
似たような話を聞いたことがあるな。
親が嫌いなものを、子どもも嫌いになる傾向がある。例えば、親が「虫は汚い、触らないほうがいい」といって子どもに教育すると、子どもは虫が触れなくなる、というものだ。
だから、子どもを育てる場合は自分が苦手でも決してそれを表に出さないほうがいいと聞いたことがある。
「そ、そうですか? それで……その、ですけど。……下着姿は、特別なものじゃないですか?」
「ま、まあ……そうだな」
二枝がそう何度も下着姿というと、変に意識してしまう。彼女の短いスカートから視線をそらしながら、歩き続ける。
「特別な人に、特別なタイミングでしか見せないじゃないですか」
「そ、そうだな……」
「だ、だからですね……。…………まあ、その、先輩になら下着姿……見られても……別に大丈夫……といいますか……」
真っ赤な顔で二枝がそう言った。
そ、それって――。
――さっきまで意識してしまっていた俺がバカらしい。
……つまり、男として見られていないということだ。お前なんかに見られても別にどうとも感じませんが? と正面きって言われてしまった。
まあ、そりゃあ当然の話だな。別に二枝と何かあるとは一パーセントほどくらいしか期待していなかったが、今それが0パーセントになったというだけだ。
とりあえず、今まで以上に友人、として気楽に接することができる。
……そもそも友人でもない? ……だったら、人間不信に陥るかも。
二枝のこの態度からして、『おもちゃ』とかそのくらいにか認識されていないかもな……。
「そういうこと、あんまり言わないほうがいいぞ?」
「い、いいませんよ!」
……とりあえず、男としてはそう釘をさしておいた。
二枝はあまり男性慣れしていないと言っていたからな。だから、時々冗談の域を飛びぬけてしまうのだろう。
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