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部外者

作者: 甘いぞ甘えび

 普段から運動不足だと口にしていたくらいだから、本当に自分でも情けないぐらい体力には自信がない。そんなコンディションでもいざとなれば走ることが出来るらしいが、それがそう長くは続かないのはご想像のとおりだ。

 嫌な言い方だけど、まさか自分がこんなに逃げ足の早い人間だとは思わなかった。本当に普段から通勤以外で外に出ることも少ないし、運動と呼べるものをした記憶は学生時代まで遡る。エレベータやらエスカレータをつい使う癖がついて、階段を登っただけで息が切れていたぐらいだ。

 だけど人間やれば出来るものらしい。さっきいた駅前からここで一度も足を止めずに走って来ることが出来た。信号も大量に無視してきたけど、道を行く車の姿も少なかったから特に問題にはならなかった。

 俺が慌てて駆け込んだのは、一、二回打ち合わせで来たことのある取引先のこじんまりとした自社ビルだ。あの駅から歩いていける範囲に知っている建物で知り合いのいるところがここしか思いつかなかった。この会社のコヅカさんとはよく一緒に現場に行く。

 ビル一階の入り口は半分がスモークになっているガラス戸で、まるでマンションのエントランスと言われても納得できる程度の造りをしている。裏から入って来られるような扉も窓もない。あるのは上階に行くエレベータと各階用の郵便ポスト、オフィスへの入り口、それと階段だ。確か階段には小さな窓がついていたような気がするけど、それらが開け放たれているのを見たことはなかった。

 ということはとりあえずこのビルは立て篭もるのに適した構造をしているということだ。外部からの侵入を防ぐにはエントランスの入り口一箇所を守れば済む。ドアがガラスということが若干の不安要素だけど、何かで補強すれば問題はないだろう。

 あとは上の階に誰が残っているのかを確認して、食料の有無も見ておかなければならないだろう。電話が使えるか試して、周囲の状況を把握しておく。あとはそれぞれ家族とか同僚の安否を確かめて、その後のことはそれから考えても遅くはないだろう。

 走ったせいで上がっている呼吸の合間でそこまで思考を巡らせていると、チンッと軽快な音を立ててエレベータのドアが開いた。まるでこっちを驚かすかのような絶妙なタイミングだったから、肩がビクッと震えた。

「あれ? ニシさん?」

 エレベータから出てきたのは、偶然にもコヅカさんだった。見知らぬ人だったら、この状況をどうやって説明したものかと不安になっていただけに、安心して思わずため息がこぼれた。コヅカさんだったら顔見知りで話しやすいし、信頼もされやすいだろう。

「よかった。無事ですか、コヅカさん」

 現実に現実感がなくなってからまだ十分と経っていなかった中で、こうして知り合いと会えたというだけのことが妙に安心した。もしかしたらこのまま知り合いには誰にも会えず終わることだって考えられたから。

 だけどコヅカさんは事情が分からないといった様子で、息を切らせている俺を見ていた。その反応はまだ当然だ。あと数十分もすれば日本中がこの異常に気が付くだろうが、今はまだ早い。だから俺は自分が見聞きしてきたことを伝えなきゃいけない。

「どうしたの?」

 地震や津波といった自然災害なら話は早かっただろう。近頃は日本中が地震対策だ何だと賑わっていたし、ちょっとの揺れでもケイタイやスマホの地震速報が鳴るようになっているから。だけど恐らく今回の件において言えば、いくらインターネットやモバイル網を介した情報伝達が早くなっているとは言っても、混乱は避けられないだろう。過去の事例で例えるなら、地震よりも原発のニュースに近い。分かっていない人々が、よく分からないけど危険だと叫んで、余計な混乱を招く。

 ということはつまり、直接見てきた俺と違ってコヅカさんにはなるべく混乱させないよう、気を遣わなくてはいけないということだ。又聞きというのは一番厄介で、誤解を与えやすいだけでなく、いらない混乱も招く。それだけは避けなければならない。

「これから外ですか?」

 何と言って説明したら、俺の言っていることを信じてもらえるのか、とか、誤解を与えず客観的に説明するにはどうしたらいいのか、とか頭の中が混乱してきた。見たままを話せばいいのだろうが、自分が見たものが一体何だったのかと聞かれたら答えに困る。俺だってそれが何だったのかなんて分からない。

「そう。ニシさんは? 今日打ち合わせなんかなかったよね?」

 俺は今日この駅で降りる予定なんかなかった。あと三駅先の取引先に資料を届けに行く途中だった。午前中に仕上げた資料を鞄に詰めて、会社を出たところまでは予定どおりだった。忘れ物もないし、調べておいた時間通りの電車に乗ることも出来た。余裕をもったスケジューリングで、十五分前には取引先に着くはずだった。

 予定が狂ったのは、予定どおりの電車に乗っている時だった。俺がここまで走ってきた出発点になった駅で、電車が緊急停車した。ドン、という衝撃が車体に走って、乗っていた俺を含むほぼ全員が何が起きたのか想像がついたことだろう。人身事故だ。

 やられたなと思った。周囲の他の電車じゃなくて、まさか自分の乗っている電車がそんなことになるなんて思いもしなかっただけに、絶望感は大きい。最低なことにその駅は他路線への接続もない孤立した駅だった。

 周りの人々が各々ケイタイやスマホを取り出したのとほぼ同じタイミングで俺も取引先に連絡を入れた。もしかしたら今日はもう辿りつけないかも知れないと踏んで、後日にしてもらう約束まで取り付けた。だから俺はすぐに電車を降りず、あいた椅子に座って電車が復旧するのを待った。例え線路に人が飛び込んだからといって、復旧しないわけがない。

 だけどやはり案の定、電車は中々動かなかった。人の噂によると、どうも飛び込んだ人は亡くなったらしく、その遺体の回収に時間がかかっているらしい。救急車も来て、大事になっている様子はヒマを持て余した人々の小型端末を通じてインターネットに垂れ流しされていた。

 興味がないと言えば嘘だったが、野次馬しに行くほどでもない。午後の予定はキャンセルしてしまったし、大人しく電車が動くのを待つだけだ。時々ケイタイで状況をみながらうつらうつらしていると、ワッと外がうるさくなった。

 電車はホームから少しだけ頭が飛び出た状態で停車していて、乗客は好き勝手ホームと車内とを出入り出来る状態になっていた。反対方面行きは多少遅れが生じただけで通常通り運行していたため、車内に残っている人は少なかった。

 騒がしくなったのはホームに出ていた人々で、車内にいた人々は一瞬だけ視線をホームに向けただけで特別何の反応もなかった。どうせようやく死体が回収されたとかそういうことだろうと思ったからだ。見えるようにして回収することはないだろうが、何かの拍子にちらりと見えてしまったのだろう。それよりも早く電車を動かしてくれよと思う気持ちのほうが上回り、視線はまた元に戻る。

 だけど何かがおかしいと気がついた。どうも外の喧騒が一向に静まらなかった。回収された遺体なんてさっさと救急車に運ばれただろうに、一体何を騒いでいるのかと不審に思うほどだった。同じように数人がホーム側の窓に目を向け、眉を顰めていた。

「近付くな! 逃げろ!」

 そう叫んで逃げていく男が俺の乗っていた車両の前を走って行った。さすがにそれはおかしい。車内に残っていた人々はこぞってドアや窓に近づいて外の様子を見た。一体何から逃れようとしたのか、それが気になった。

 ホームには数人の駅員らしき姿と、作業員らしい作業服の人々、それとスーツ姿や私服の野次馬だろう人々がごちゃまぜになって四方八方へ逃げようと大混乱状態になっていた。あまりの混乱に加え、手狭なホームでは傍から何が起こっているのかを見て取ることは出来なかった。しかし、彼らが逃げ惑っている方向の後方から、赤いもので汚れたひとがふらつきながら逃げる人々を追いかけるように歩いている様子が垣間見えた。

 車内にいた人々にも外の混乱と焦りが感染したかのように、人々がそわそわとし始めた。何が起きたのか分からないが、逃げる人がいるんだから何かとても悪いことが発生したに違いないという想像が、ほぼ全員の頭に浮かんだのだろう。だけど唯一の逃げ道である階段には人々が殺到していて、今から向かったところで時既に遅い感じもしていた。

 そのタイミングを待っていたかのように、女性の悲鳴が響き渡った。その絶叫に背中を押されたかのように、車内に残っていた人々が電車を走り出た。タイミングを逸した俺を含む数人だけがぽつんと取り残された。

 電車が停まった時点で大方の人は降りてしまっていたため、車内やホームに残っていた人数はそこまで多くはなかった。だから出口に殺到する人々も死者を出すことなく逃げることが出来たのだろう。だけど全員が全員逃げたというわけではなかった。俺を筆頭に車内にもまだ数人残っているようだったし、ホームには駅員の姿もあった。それと、赤く汚れた小汚い男に、それに捕まっている女性。

 この時点で何かがおかしいと気付かず、ただ変質者が騒いでいるだけだと高を括っていたら、きっと俺も今頃犠牲者リストに名前を連ねていたに違いない。だけどこのとき、事の一部始終を目撃してしまった俺は、冷静とはお世辞にも言えないものの、逃げ出すだけの判断力は残っていたらしい。

 赤く汚れて見えたものは血。ふらついて歩いていた小汚い男は、電車が停まる原因となった投身自殺者だった。それを表す単語はずばりこの一言に尽きるだろう。「ゾンビ」。死んだはずの男が動き、他者を襲う。現実に存在するわけがないと思っていただけに、それが実現しても俄に信じ難い。見て聞いた自分自身、あれが未だに作り物だったのではと疑う気持ちさえ残る。

「信じ難い話だとは思いますけど……」

 結局、信じてもらうには正直に見たものを話す他に上手い方法が思いつかなかった。普段から特別話し上手というわけでもないから、要領よくは話せなかったが、それでも充分事の重大さは伝わったはずだ。それはコヅカさんの真剣な表情を見れば分かる。

 コヅカさんはおもむろにポケットからケイタイを取り出して、何やらし始めた。何かと思っていると、どうやらどこかへ電話をかけたらしい。ケイタイを耳に当てるけど、すぐに妙な表情をして画面に目をやる。

「繋がらない」

 驚いて俺もケイタイを取り出した。画面上部の電波表示はバリ三で立ってるが、それでも繋がらないという事態は、以前にも経験があった。あの大地震のときだ。その地域にいる人々が集中して回線を使用したために、電波はあっても接続されない。ただあの時は通話ができないだけでインターネットには繋ぐことが出来たはずだ。

「ネットは繋がりますよ」

 インターネットを経由したソフトウェアを使えば通話可能だという情報はあまり広まらなかったが、SNSや各キャリア、大手検索サイトが提供する情報サイトはかなり賑わったはずだ。電話が繋がらない中で家族の安否を知り、自分の無事を伝えるために。

 しかし自然災害それも予期せぬ大災害時と同じ状態が発生するというのは、ちょっとどころでなく大事だ。コヅカさんが目を見開いてこっちを見ていることに気が付く。

「一体どこまで広がったんだ……?」

 俺は駅を出て迷うことなくこのビルを目指した。それ以外に知っている場所もなかったということもあったが、本音を言えば、人の多いところでゾンビが発生した場合に逃げ道がなく危険だと思ったからだ。

 線路に飛び込んだ男が一人目ならまだいい。だけどもしその男が他の場所でウィルスか何かに感染して、駅までやって来たとしたら? そうしたら他の場所でもゾンビが発生して人を襲い始めているはずだ。

 幸か不幸かこの世の中にはゾンビが登場する映画やゲームは山ほど存在している。ゾンビやホラーが好きというわけではなくても、ゾンビが登場する作品というのは一度は通る道だ。それ故に、ある程度想像することは出来た。

「電話のアナウンスからすると、首都圏かあるいはもう関東全域ってところですかね」

 冷静を装って言ってみたものの、それが意味するところの重大さに気が遠くなりそうだった。昨日までは普通に電話も通じたことを考えると、ここまでの大事に至ったのはついさっきということになる。つまり、事態が改善されるのはこの後一体何が起こっているのかを調査し、そのための資金を調達したりと政府が水面下で動いた後のことだ。きっとその頃にはもっと事態は深刻になっているだろう。

 頭が痛い。つまり映画やゲームにあるように、俺たちは自分の身は自分自身で守らねばならない。食料だって今あるものを大切にしていかなければならないし、水道やガスだっていつ止まるかも分かったものではない。

 言うべき言葉が見当たらなくて、コヅカさんと俺は困った顔をして見つめ合ってしまった。自然と注目は唯一の出入り口であるガラス戸に向き、そのガラスの強度が心許なく感じた。日本じゃ防弾や強化ガラスなんてそうそう使っていないだろうから、これはただのくもりガラスに違いない。

と、その時、バンッとガラス戸が外側から叩かれた。あまりにも測ったかのようなタイミングに、コヅカさんも俺も肩をビクリと震わせて驚いた。半分だけ曇りガラスのその扉越しには、外に誰かが立っているのは分かった。だけど、そこに立っているのが生きた人間なのか、それ以外のものなのかは分からなかった。

「か、鍵は……?」

「かけましたけど……」

 ここに入ってきた時点であの扉の鍵は閉めておいた。幸いにもここのドアは内側からなら誰でも占めることの出来るドアで、ただツマミを回すだけでロックすることが出来る。ただ、それだけだから強度には若干の不安が残る。

 バンバンと乱暴にドアが叩かれている音が響く。正気の人間ならドアに鍵がかかっていると分かれば諦めるか、中に人の姿が見えれば、曇りガラスになっていない部分から中を覗こうとするはずだ。あるいは声をかけるとか。そうして中にひとがいれば、開けてくれと声に出して頼むはずだ。

 コヅカさんも俺も何も言えず、ただ息を呑んでドアを見つめていた。その扉がその衝撃に耐えうるだろうかといった心配と、外の人影が普通の人間であって欲しいという切望。だけどその期待が裏切られるだろうことは口にせずとも理解していた。

「どうしたら……」

 コヅカさんはたぶん自分では口にしたつもりはなかっただろう。思ったことをうっかり声に出してしまったといった様子の小さな声だった。恐らく彼は今自分が声を出したなんてことには気がついていないだろう。

 映画やゲームの例に漏れず、冷静にならねばと半ば強迫概念じみあ考えが脳内を占めた。こういったシチュエーションでは冷静さを失って暴挙に出れば必ずやられる。生き残りたければ、状況を正しく見て、最善の選択をしなくてはならない。

「コヅカさん。今このビルの中にどれくらいいます?」

 ドアを叩く音はまばらで、時々思い出したようにバンッと叩くだけだった。何が何でも中に入ろうと思っているわけではないらしい。とりあえずのところは安心しても大丈夫だろう。これで外にいる人数が増えれば話は別だが、すぐに大量のゾンビが押しかけてくるような雰囲気はない。今のうちに出来ることをしなくては。

 コヅカさんは俺の指摘にハッと我に返った様子でこっちを振り返った。だけどそのショックを受けた頭はすぐに働き出せるほど切り替えが早くはないらしく、戸惑った顔で助けを求めるような視線を投げかけてくる。

「何人残ってます?」

 この会社の仕事は基本的に現場に出向くことが多いから、平日昼間であっても社内にいる人間はさほど多くはない。コヅカさんがこうして社内に残っていたということ自体、かなり珍しいほうだ。

「総務にはかなりいると思う。うちの部署は二人残ってたかな。あとは分からない」

 ポストを見ると、このビルが三階建てで、一フロアに一つから三つ程度の部署が同居しているのが分かる。一階は総務などの事務関係が占め、コヅカさんの所属する技術部は三階、真ん中の二階は営業関係だ。

「事情を説明して、対策というか、これからどうするかを決めましょう。たぶん、ここの補強とかもしないといけないと思うんで」

 この会社の人間からすれば、俺は完全に部外者で、その部外者があれこれ仕切るのはあまり快くは思われないだろう。きっとこの籠城中はおとなしくしているのが正解だ。部外者がリーダーのようにあれこれ指示を出して、いい結果になるとは思えない。

「じゃ、とりあえずこの階から」

 現場に出ている時のような態度で言ったコヅカさんだったけど、その視線はまだ不安そうにエントランスのドアをちらちらと見ていて、不安が拭いきれていないのが分かる。とは言っても、こんな非現実的な状況において冷静にいつもどおり振舞えというほうが難しい。そう考えれば、コヅカさんはかなり強いほうだろう。

 先頭を行くコヅカさんは不安を隠そうとしているのか、そわそわと手に握っているケイタイを手で弄んでいた。だけどオフィスのドアをノックしてからは、きっぱりといつもの態度に切り替えていた。何も知らない人に余計な心配をかけまいという配慮なのだろう。

「タカシマさん」

 コヅカさんは迷わず誰かの名を呼び、その声に反応して中年の男性が顔を上げた。彼の他にこのフロアには四人。計五人が在籍しているようだ。

「すみません、ちょっと来てもらえますか?」

 ちょいちょいと手招きをすると、タカシマさんは胡乱気な顔をしながらも大人しくこっちへとやって来る。座っていた席といい、年齢的にも彼がこのフロアでの責任者なのだろう。

 タカシマさんは部外者で見覚えのない俺の存在を不思議そうに見ながら、何の用かとコヅカさんを見る。コヅカさんも一瞬ためらってから、外に出るように言って、俺たちは再びエントランスホールへと出た。

「一体何なんだ?」

「今日のニュース見ましたか?」

 慌てず騒がず静かに仕事をしていたということは、今起こっている事態を知らないと考えて間違いないだろう。だけどコヅカさんはいきなり切り出すようなことはせず、順を追って説明していくらしい。

「朝のニュースならな。一体何なんだ? この人は?」

 タカシマさんの疑問は尤もだ。だけど今朝のニュースではまだこの混乱を報じてはいなかった。ということはつまり、この人は今何も知らない。コヅカさんと俺はつい顔を見合わせた。そしてコヅカさんは未だ戸惑った様子のまま、今起きていることを説明し始めた。

 コヅカさんの言葉を俺が補足するような形で説明し終え、実際ケイタイの通話機能が使えなくなっていることを証明してみせた。ネットニュースにでているいくつかに目を通すところまで来てようやく、タカシマさんは頷いた。だけどすぐに言葉は思いつかなかったのか、黙ったまま数秒間をおく。

「今日、うちの部署で休みが多くてよかったんだか、悪かったんだか……」

 タカシマさんがリベラルなものの考え方をしてくれる人で本当に良かった。偏屈で偏った考え方しか出来ない人なら、こんな非現実的な話は信じてもらえなかっただろう。しかもさすがに責任あるたちばなだけあってか、反応も冷静で落ち着いている。

「タカシマさんはご家族に連絡とか……」

「メールを入れておこう。電話じゃ通じないだろうからな」

 コヅカさんが目に見えてほっとしたのが分かった。たぶん彼にとってタカシマさんは頼りになる人で、その人がこんな状況にありがながら変わらず頼りになると分かって安心したんだろう。俺としてみれば、自分が出しゃばらずに済みそうでよかった。

「各部署のマネージャ以上を集めて対策を考えるか」

 そう独りごちたタカシマさんの行動は早かった。内線を使って上位フロアの責任者たちを一階のエントランスホールに呼び出し、コヅカさんが語った現状を更にわかりやすく、かつ簡潔に説明して述べた。その合間には俺の紹介と、経験談からのフォローもあり、そこに集まったタカシマさんとコヅカさん、俺を除く三人に今の状況とこれからどうするべきかを伝えた。

 総務部長タカシマさん、技術部二課マネージャのシラキさん、営業一課長コジマさん、営業推進部長サヤマさん、そしてコヅカさんと俺の六人は会議室でもないビルのエントランスホールで頭をつき合わせていた。時折入り口のガラス戸がバンッと叩かれる音が響いたが、外にいるやつらがそこにずっと留まるということはなくて、その音がする度に全員が顔を引き攣らせた。

 社内に残っている社員には、今何が起こっているかをなるべく穏便に伝え、社内で事態が落ち着きを取り戻すのを待つか、あるいは危険を承知で外へ出るかを自分で選ばせようということで落ち着いた。外へ出るという選択肢を選んだ者を外へ出したら、エントランスのガラス戸は丈夫な棚でブロックして侵入されないように塞いでしまおうということで帰着した。

 俺を除く全員がゾンビ化した人間を直接見ていなかったものの、インターネット上にアップロードされている動画や写真によって、全員がそれらを目撃したような気分になっていた。それらの動画は時間の経過と共にその数は増え、インターネット上はそんな映像ばかりであふれていた。

 三十人近くいた人々が、上司から告げられた衝撃的な現実に対してどんな反応を見せたのか、部外者である俺には伝わって来なかった。だけど取り乱した者や、ショックのあまり倒れた者は幸いにしていなかったようだった。それでも今すぐ会社を出て帰宅するという者は半数以上となった。

 前例がないどころではなく、想像もしていなかったこの非常事態に対する対策なんてものは当然のように存在しておらず、上司連中はあれはどうするこれはどうすると休むひまなく話し合いを重ねていた。だけどこうなってしまった以上、何が起きても正しい対処なんて出来ずに、戸惑うことしか出来ないだろうことは想像が容易だ。そしてぐずぐずしていればすぐに襲われるだろうことも。

 状況はかなり急速に進んでいった。帰る人々を送り出し、入り口の封鎖。外部との連絡体制を整え、外を監視するためのフロー作成。社内にあるもので何が使い物になるか判断しながらリストを作り、今後の方針を議論し合った。

 気が付けば夜になり、社内に残った者は割り振られた担当につくか、宛てがわれた休憩時間を使って思い思いのことをしていた。今現在、社内に残ったのは九人。その中には社外の人間である俺も含まれた。

「タカシマ部長。サトウから連絡で、一緒の方面だったカツマタが死んだそうです」

 俺には直接関係ないが、ここでは会社を出て自宅か、あるいはその他どこかへ行くという人の他、現場に出ている人、休みの人すべての社員に対し、自分の状況を知らせるようメールを流していた。そのメールのチェックを行なっていた社員が何の感慨もなくただの情報として訃報を読み上げる。同僚の訃報だというのに淡々としているのは、もうこの手のニュースが二桁を迎えたからだろうか。最初は信じられないとショックを受けていたはずなのに、もう麻痺状態になってしまっているようだ。

「そうか……」

 相変わらず携帯電話の通話は通じず、外部とのやり取りはインターネットを経由したものに限られた。俺はと言えば社用のケイタイに生存確認のメールが届いた際に簡潔に状況を伝え、一応無事を伝えておいた。結婚していない独身者だから誰かが無事を会社へ問い合わせるとも思わなかったが、だからといって死んだと思われるのも嫌だった。

 さほど人が多いわけではなかったこの付近でも、住民や会社へ来ていた人々がそれなりにいたらしく、ビルの外には時間を問わずゾンビ化した人々がうろうろとたむろしていた。暗くなると光に集まってくるらしく、社内は隙間なく窓が塞がれ、節電中のように薄暗くされていた。窓を塞いでしまったが外の監視にはウェブカメラが設置され、その映像は絶えることなくインターネットに配信され続けた。

 映画やゲームと現実は違う。こうして非現実だと思っていた状況に立たされてみると、それを嫌というほどに実感する。映画に登場する間抜けなキャラよりは自分のほうがまともに行動できるなんて思っていたが、実際はただ他人が指示するのをただじっと待っているだけだ。

「これから……」

 気がつくと隣にコヅカさんが来ていた。疲れた顔で椅子に座り、深いため息を付いている。その姿は今日会ったときと比べると幾分やつれたような印象だ。今日一日だけで常識のほとんどが塗り替えられたのだから着かれるのも無理はない。それに加え、友人や同僚が亡くなったというニュースはひっきりなしに届く。

「……大丈夫ですか?」

 コヅカさんが何か言いかけたその続きは、言われなくても想像がついた。誰しもが一度は考える、「これから一体どうなるのか」という答えのない疑問。今はまだこうして取り乱すことなく正気でいられるが、今後どうなったものか分からない。ゾンビ化現象が進んでいけば、いずれは電気や水道、インターネット回線も切断されてしまうだろう。そうなればこの体制も続かない。

 心のどこかには「いつか誰かが助けに来てくれる。だからその日まで耐えればいい」と思っているところがある。それは否定しない。だけどそれが現実的に実現する可能性が低いことは分かっているし、一体誰がどこへ助けだしてくれるのか想像さえつかなかった。

「大丈夫……、だと思わないとやっていけないよな」

 部外者という立ち位置は気を遣うが気楽な立場だ。親しい友人の訃報をリアルタイムで耳にすることもないし、上司に指示を与えられてこんな時でさえも忙しく働かなければならないということもない。確かに肩身は狭いが、それさえ気にならなければ楽なものだ。

 それに対してコヅカさんには本当に悪いことをしたと思う。一番最初に社内で事情を知った者として、何をするにも会議に参加させられ、何かが決まると前線で陣頭指揮を取らされてしまっている。コヅカさんが営業職や総務ならこうはならなかったのだろうが、生憎と彼は技術職だった。

「ニシさんはどうするの?」

 家族が心配な人や恋人と連絡がついた人、実家に帰ろうとする人たちは各自の判断でこのビルを出た。その中の数人は既に訃報が届き、また数人は無事に合流することが出来たという話も聞く。

 インターネットの中ではあることないこと多くの情報が発信され続けていた。テレビでは人々を混乱させまいと差し障りのなさそう画像を使ったニュースがループして流れ続けた。ラジオでは音楽を垂れ流しにしている局もあれば、狂ったように各地の情報を配信し続けている局もあった。その情報が正しく、どの情報が間違っているのか判断するのは自分自身で、それが出来ない人は現実逃避に忙しそうだ。

 建物に立てこもり街中を歩く人間が減り、ゾンビの増加は一時的にでも止まっているような印象だった。人々は建物内に引きこもり、外へ出なくてはならない場合には最大限の装備をし、必ず二人以上で行動するよう気をつけていた。この調子でいけば、ゾンビは朽ち果てていなくなるだろうことも充分有り得る。しかし自然にゾンビが動かなくなる時間がどれほどか分からないにしろ、それが一日二日ではないことは確かだ。ゾンビがいなくなる前に人間同士が同士討ちをし始めていたとしても不思議ではない。

「どうしましょうかね……」

 何も考えていないという訳ではない。ただ自ら行動するには責任と未知の世界への恐怖が大きくて、決断することが出来ずにいるだけのことだ。このまま判断を他人に任せて日々を過ごすことは簡単だろう。ただそうした場合、何かが起きて決断に迫られた際、非常に困ったことになるだろう。

 振り返ると、疲れた顔をした、でも真剣な表情のコヅカさんと目が合った。コヅカさんはこの会社の社員だけど、彼にだって選択肢がないわけではない。このビルから出ることは誰にだって出来る。逃げることで自分が死んだとしても構わなければ。でもそれは俺も同じだ。

 一体どうすればこの世界で生きていけるのだろうか。……いや、そもそもこんなことになってまで俺は、生き続けていたいのだろうか? その答えはきっと、まだ出ない。


〈了〉

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