第百九十ニ話 師匠、家族⑦
ムスケルの巨体をも吹き飛ばす威力、力を使い果たし倒れ込む。
反動で指の骨は何本か折れてしまっているがどうでもよかった。
これで勝負がつかなければどのみち打つ手なしで敗北。
一人で勝てるなんて初めから思っていない、ラグがいたからこそ挑めた。
回復した魔力の半分をラグに、そしてもう半分は自分に、そうやって二人で与えた一撃。
その結果を注意深く見守る。
「まさか妖精と協力してくるとはな。あんまりにも真剣な顔で一対一なんて言うから信じたってのによ。すっかり騙された」
ムスケルが上体を起こし口元の血を拭う、それなりにダメージはあったようだが気絶には至らなかった、つまりそれはヴァイス達の敗北が決まった証でもある。
だと言うのにヴァイスに焦りの色はなかった。
「俺一人で出来ることなんてたかが知れてる、それをこれまでで散々思い知らされて今更あんたに一人で挑むかよ」
「まさかこの俺の弟子がこんな卑怯者に育っちまうとは、どこで育て方を間違えた?」
「間違いがあったなら初めからだろ。あんたの教えは真っ直ぐで正しすぎたんだよ。この世はそれじゃ生きていけない、外に出て嫌と言うほど思い知った」
「‥‥‥そうだな、思えば綺麗事ばかり並べてたな」
「ああ、子供ながらにこっぱずかしかった。でもあんたの口から出るそういう言葉の一つ一つ嫌いじゃなかったから俺はあんたの背中を追いかけたいと思えたんだ」
「なら今のこの様はお前を失望させたか? でもな、どちらかと言えばこっちが本当の俺だ。誰にでも親切なムスケル、そんなものはただの作り物、過去の行いを帳消しにしようとする卑しい行為だ。だって俺はお前が生まれるずっと前に人間を大勢殺してる」
「だからなんだ。そんな事とっくの前に知ってる」
非難されると思っていた、罵倒されても仕方ないと思っていた。
多くの命を奪ったくせして正義がどうとか語っていた愚かしさを。
なのにあっさり知っているなんて言いのけられてムスケルは目を丸くする。
「オルキアが教えてくれたよ。あんたの過去を」
レンフィーリスとエルフェリシアが終わらせたあの戦争にムスケルも魔族側の兵士として出兵していた。そして指示されるがままに多くの命を奪った。
それでも被害を最小限に抑えようと動いたり民間人には徹底して手を出さないなどといった行いがエルフェリシアの目に留まり無類の強さを誇る彼女から勝ち目が無いと知らされ同時に戦争を早期に終結させたくないかと持ちかけられる。
元々は魔族側が表の領地欲しさに仕掛けた戦い、さらにムスケルには身内と呼べる者は一人もいない、そしてただ手を血に染めるだけの毎日に嫌気がさして答えは驚くほどすぐに出していた。
「俺は全部知った上でやっぱりあんたの背中を追いかけたいと思った。裏切ってでも人間と魔族両方の命を優先したあんたが最高にかっこ良いと思えたから」
いつかの少年の姿が重なった。
きっかけはオルキアが困ってたから、そんな理由で引き取った子供。
人間の子供との共同生活、小さな命を育むのは奪うなんかより遥かに大変でそれなりに苦労した。
正直、軽い気持ちで引き受けた事を後悔した事もある。
もっと上手くやれると思っていたのに全然そんな事はなくてムスケルも大変だったがそれ以上にこんな小さな子に多大な苦労をかけた。
ちゃんと人間に任せておいた方が良かったのかも知れない、そんな後悔が少なからずあった。
でも、それはたった一言で吹き飛んだ。
「かっこ良い」
いつもの鍛錬の最中、その子がムスケルを見て目を輝かせながらそう言ったのだ。
それを聞いてしまったせいであれこれ悩んでるなんてかっこ悪い事はできなくなった。
いつまでもかっこ良い手本でいようと心に決めてエルフェリシアと続けていた不穏分子の抹殺の仕事も辞めた。
血でその輝きを汚してしまいたくなかったから。
「だが今のあんたは最低にかっこ悪い」
そう言われたくなくて必死だったのに。
言われたくなかった言葉、それは先程貰った頬への一撃より深く突き刺さった。
その痛みは何よりの証明だ。
かっこつけで引き取った子が今や愛する女性と同じ程に彼の心の大事な部分を占めている証。
そこで理解した。初めから勝ち目なんて無かったんだと。
何があっても諦めない。
そう教えたのは格好をつけたムスケル自身でその背中を追ってきたこの少年はどれだけ痛めつけようとどれだけ非情な言葉を用いたとしても折れないだろう。
初めから死を覚悟してここに来た、それどころか死よりも辛い大事な存在を自ら殺すという重責を負ってすら足を止めなかった、殺す以外に手立てが無いなら‥‥。
「そりゃ負けるか」
「何を言って‥‥」
「お前の勝ちだ、ヴァイス」
弟子をかっこ良いと思ってしまった時点でムスケルの敗北は決まっていた。
ヴァイスの信念がムスケルの執念を上回った時、まるでこの師弟の勝負の行方を伺っていたかのように突如、部屋の壁の一角が崩れてそこから一体の巨人が姿を現した。
「オルキア!」
ムスケルが驚いた様子で名前を呼んでヴァイスも初めてその目で残酷な現実を直視した。
何もかもが変わっている、当時の面影など殆ど残っていない、人間によってあらゆるものを奪われた大切な存在。
それでもヴァイスは目を逸らさず真っ直ぐ現実と向き合った。
「アァァ‥‥」
低い唸り声を上げるとオルキアは真っ直ぐ倒れているムスケルの方に向かう。
何をしようとしているのかは明白、彼女は今から救いを求めようとしてムスケルを殺す。
「やめろっ!」
ヴァイスは急いで立ち上がろうとしたがさっきの戦いの痛みが邪魔をする。
逆にまだ動ける様に思えたムスケルは逃げようともせずただじっと迫り来る脅威を見続ける。
「何やってる。逃げろ、殺されるぞ!」
「俺はそれで良い。オルキアに殺されるなら」
恐怖の無い穏やかな口調、優しく微笑みながら死を受け入れていた。
けれどそんなの認められないヴァイスは必死で止めようと身体を持ち上げるも間に合わない。
オルキアの両手ががっちりとムスケルを捕らえる。
眼前に死が迫って尚、焦りの色は無く、死を望んでいるのが分かった。
「オルキアが俺に気を取られている間にお前が終わらせろ」
その為に来たんだろう、と目が語っている。
ふざけんじゃねぇと怒りが沸沸と湧き上がって来た。
自分は死ぬから後は好きにしろ、そんな諦めの境地に至らせる為に殴り合ったわけじゃない、自分の想いを拳に乗せて伝え理解して貰いたかった。
結局何も伝わっていなかったのかと改めて怒りを口にしようとしたがその役目は最後の最後で突如訪れた残酷な奇跡が肩代わりした。
「コロシテ」
オルキアがムスケルの目を見てそう言って彼を手放しまるでその時を待つかの様に動きを止めた。
これまで一度たりとも会話が成立した事など無かったというのに。
どれだけ語りかけても唸り声を上げるだけで言葉すら発した事が無かったというのに。
「‥‥何でそんな言葉だけはっきり言うんだ」
震える声で呟いた。
致命的な一言。今までその一言を聞かないでいられたからやって来れた。
オルキアの性格上、彼女が本当は何を望んでいるかなんてすぐに分かっていたが声を出せないのを良いことにねじ曲げ続けた。
「どうして助けてって言ってくれない?」
彼女の呻きを『助けて』という言葉に勝手に変換してあらゆる非道を犯した。
「そんなの声が掠れるほど言ったにきまってる」
どうにか起き上がったヴァイスがその場で跪くムスケルの肩に手をやった。
「それでも届かなくてこんな事になってようやく届かせられた言葉が『殺して』の理由を、それをあんたに真正面から伝えた理由を考えろ」
「‥‥分からない、俺には」
「あんたを愛してるからに決まってるだろ!」
こんな言葉を自分の口から言うことになるとは思いもしなかったが今は気恥ずかしさを無視して続ける。
「あんたがオルキアに対して抱いている感情を向こうも抱いてる、ただそれだけの話だろ」
自身の事を顧みず信念を犠牲にしてでも相手のことを思う、やってる本人はそれで良いかもしれないがやられてる側は堪ったもんじゃない。
それで相手に付く傷はそのまま自分に返ってくる。
「自分を殺して相手を救う、あんたらは同じ事をしてる」
オルキアは理解しているんだろう。自分が存在している限りムスケルという男は苦しみ続けると、だから自分の命を差し出した。もちろんそこには辛さから来る逃避もある、でも一番は相手に対する思いやりだろう。
しかし訪れた静寂は長続きしない。オルキアが辛そうに頭を押さえる。
取り戻したほんの僅かな自我が本能に呑まれようとしている。
「いい加減腹括れ。オルキアの願いを叶えるか無視するか、どっちだ!」
だがムスケルは答えない。
もう時間が無い、すぐにオルキアは自我を失い今度こそムスケルを殺すだろう。
ヴァイスは拾って来た剣を握りしめる。
目的を果たす為、彼女を苦しみから解放する為に心臓めがけて突き出そうとした時、ひゅんと風を裂く音が横を通り抜けた。
次に見た光景は流れる血液。
オルキアの胸に突き刺さったものは「すまない」という囁きの後に心臓を握り潰した。
オルキアの体が倒れると同時に悲痛な叫び声が上がる。
真っ赤に染まったムスケルの手からは涙の様に血が滴り落ちていた。