第百九十話 師匠、家族⑤
重い扉の先は見慣れぬ広い空間。
随分長い間ずっと放置されていたのか荒れて埃っぽく長椅子らしきものが置かれているが殆どが原型を留めていない。当然明かりも無いが天井付近にある色彩豊かな窓から入る月光で事足りる。
そんな場所に浮かぶ二つの影。
見慣れた大きな背中と傍で座り込み項垂れる少女。
「誰だそいつ? ひょっとしてまたどっかから仕入れた実験体か?」
冗談めかして聞いてみる。
いくら変わったと言ってもあんな子供に手をかけるほどは腐っていないと信じている。だからきっと保護したとかそう言うのだろうとばかり思っていたがそいつは何の感情もこもってない声でとんでもない言葉を返してきた。
「まあそうだな、実験といえば実験だ。ただ、何の役にも立たなかったが」
「‥‥本気で言ってんのか?」
「何だ、怒ってんのか? 無気力で自分を傷付けるしか出来ないくせして人間への恨みだけはちゃっかり残してる様な落ちぶれた奴が他を気にかけるなんて随分回復したじゃねぇか」
「あんたが送り込んできた馬鹿がうるさくてろくに寝てもいられなかったからな」
「一応俺の教え子だ、真っ直ぐでやる気に満ちた良い奴だよ。お前には良い刺激になると思ったんだ」
「刺激にはなったよ。危うく殺しかけたけどな」
「そこは想定外だ。正直お前が負けると思ってた。その敗北がお前の起爆剤にでもなって少しはやる気を取り戻すんじゃないかとな」
無論そのやる気とは復讐を指す。
人に負け、そして再び奪われた憎しみを思い出す。そうでもしないとヴァイスは立ち直れないと判断した。
彼の強い罪悪感は他の誰の声も聞こうとしない。お前のせいじゃない、ヴァイスはその言葉をあれで死んでしまった者からでもなければ受け取れない、しかし死んだ者はどうやっても送れないから永遠に苦しみ続ける。
「だが結果的に良かったみたいだな。吹っ切れた顔をしてる」
「吹っ切れてなんかいない、今だって死にたい気持ちは残ったままだ」
そんな簡単に切り替えられる人間なんていない。
吹っ切れた顔に見えるのならそれは心に麻酔をかけているこの瞬間だけだろう。
そうまでしても果たすべき目的がある。
「でも命の恩人の願いを無視して逃げるクソ野郎は嫌だからな。受け取ったものは返すのが漢って奴だろ?」
恩も教えも溢れるぐらいに与えられた、だからここで返さなければならない。
師匠を超えて恩人の願いを叶える事で。
「師匠、俺はオルキアを殺す。その為にここに来た」
真正面から言い放つ。
空気が一変するのを肌で感じながらも逃げないと決めた以上は臆する事なく全てを受け止める。
「なあ、俺の聞き間違いか? オルキアを殺すって聞こえたんだが」
「聞き間違いじゃない、確かにそう言った」
「恩人への恩返しが殺す事ってか、とんだ恩知らずだなお前は」
「俺が恩知らずならこんな所に来ちゃいない。俺にとってはオルキアが生きてる現実が重要でその為なら何でもする、あんたと同じさ」
「だったら━━━」
「けどさ、俺はオルキアに大きな大きな恩がある。だからこそ自分の我儘だけを突き通すなんて事を出来ない、殺して欲しいって言うオルキアの声を無視できないんだよ」
ラグが汲み取るオルキアの心の声、聞かされ何度も聞こえないフリをしてきた。
いつかきっと何とかなる、そんな淡い期待を理由に現実から目を背けてきた。
「俺だって奇跡を信じたかった‥‥‥」
でも起こるか分からない‥‥いや、起こらない方の確率が遥かに高い奇跡をいつまでも待っていられるほどオルキアの味わう苦痛は優しくない。
苦渋の選択、迫られヴァイスが選んだのは奇跡なんて起こらないという非情な現実を受け入れて終わらせる道。
「だけど奇跡ってのは待ってる人間にはとことん振り向かない残酷なものだ。あんたはやれるだけの事をやった、それでも駄目だったんだろ」
人間を使った実験を繰り返し時には食料としても差し出す。
初めは監獄の囚人、そして足りなくなったら外からも。
大勢の人間の命を奪った挙句得たものは何も無い。
「ならもうここらであんたもあいつの声に耳を傾けてやるべきだ。あんたの今の姿もオルキアにとっては苦しみの一部になってる筈だしよ」
人との共存を望んでいた男のこの変わり様、それが自分の所為だなんて優しい彼女が耐えられる筈ない。
「話はそれで終いか?」
どうにか言葉で説得出来ないかと試みたがやはり今の彼には意味は無かった。
「お前はオルキアを殺したい、それはどうあっても変わらないのか?」
「ああ」
「そうか、だったらお前は今から俺の敵になる。それで良いんだな?」
「‥‥‥ああ構わない」
「ならお前はこの場で殺す、覚悟しろ人間」
「やってみやがれ、師匠」
人間、その言葉に明確な拒絶を感じ、もう自分達は家族ではないんだと心が鋭く痛んだ。しかしヴァイスにとってそこにいるのは師匠であり父親、いくら拒絶されようとも積み重ねられた思い出は消えない。
だから最後までムスケルを師匠と呼んだのは彼なりの抵抗だった。