第百五十九話 一方その頃⑦
空を見上げるとあるのは暗闇。
当たり前の光景、そこになんの感情も抱かない。
綺麗とも汚いとも言えないただの黒色。
手を伸ばそうだなんて思いもしない風景。
『殺してやる』
憎しみに満ち溢れた声が不釣り合いな少女の口から吐き出される。
それは空の先、表の命に向けられた憎悪。
もう何も知らないクラリスでは無い。
空が暗闇なのは人間達が表に蔓延っているから。汚い人間達の足場となる穢れた空。
吐き気がする程汚らしい黒色が覆っている。
手を伸ばしたいとも思いもしない光景。
だがクラリスは敢えて空へと手を伸ばしそれから力強く拳を握る。
そして今一度『殺してやる』と空に向かって憎しみをぶつけた。
たとえ汚れに触れてでも為すべき事を為すと心に誓う。
友が友好を築かんと希望を抱き向かったその場所をクラリスは滅ばさんと希望を抱き眺め続けた。
「復讐に取り憑かれ表の情報をひたすら仕入れて来る日も来る日もどうすれば目的が達成できるかを試行錯誤、その結果姫様が出した結論が自分の力ではどうにも出来ないだった」
自身の限界を知った者が取る行動は助けを求める。けれどもクラリスの願いはあまりに大きく実現の可能性が限りなくゼロに近い、気楽に相談できるものでもない。
そんな悩みを抱いた者が最後に救いを求めるのは何か? フレイヤはよく知っている。
「己の無力を知った姫様は神に頼る事にし、その願いは聞き入れられたのですね」
「ああ。ある日突然啓示を受けたと、そして突然表へ旅立って見つけたのがあの人間。正直言って神なんてものに対して私は懐疑的であったが今では少し信じてる」
「良い心がけで」
信仰の芽生え、彼女の立場ならとても喜ばしい話をあっさりとした口調で流したかと思うと次の瞬間には「ですが」と視線を女騎士に向ける。
「そんな話で同情出来るほど一般的な心の作りをしていないのです、私」
それはあらゆるものを寄せ付けない冷たさを持った言葉だった。
女騎士は息を呑む、クラリスがやろうとしたフレイヤの勧誘を自分の方で試して姫様の力になろうという思いがあったのだがそれはどうやら完全に見透かされている。
人間がクラリスから奪ったものの大きさを伝えこちらの復讐は正当だと理解してもらおうとした。
とはいえ、嘘を使って相手をたらし込むのは頭の悪い自分には向いていない。だから嘘偽り無い真実だけを語り同情を誘おうと画策したが無駄だった。
このフレイヤという女には何も無い。
憐憫も無ければ嘲笑もない、心底どうでも良いというように何一つ変わらない微笑みのまま断ち切った。
元々そこまで期待してなかったがここまで手応えが無いとは・・・だがせめて一つだけと微かな希望に女騎士はかける。
「じゃあ一つだけ約束しろ」
「何でしょう?」
「邪魔だけはするな、頼む」
あの女騎士がフレイヤ対して頭を下げて願う。
「忌々しいがお前は私より強い、お前に敵に回られたら面倒だ」
「うーん、どうしましょう? そんなお願いを聞いたところで私に利点がありませんからね〜」
それは暗に自分にどんな益があるのか聞いている。
「もし約束するというなら私に出来る事であれば何でもしよう」
「何でも?」
「ああ、出来る事ならな」
「では姫様を私にください」
「・・・・どういう意味だ?」
「言葉通り、あなたの大事な姫様の初めてを私にくださいと言ってるんですよ。あの子どうせ未経験なのでしょう?」
「貴様、正気か?」
低く威圧する声、女騎士の瞳は真っ直ぐフレイヤを捉え殺意を漲らせている。
「正気ですが、何か?」
悪びれる事なくフレイヤは答える。
「それは私に出来ることではない、却下だ」
「私が言っているのは単にお姫様に言い寄るのを邪魔しないで欲しいということですよ。あなたうるさいですから」
「しかし・・・」
姫様の心がこんな女の方に傾く事はないと信じている、信じているが万が一の事があれば・・・立ち直れない。
クラリスとフレイヤの仲睦まじい姿、そんな恐ろしい映像が頭をよぎり泣きたくなる。
「ふふっ」
女騎士が苦渋の選択を迫られている最中、陽気な笑い声が響いた。
「冗談ですよ冗談」
「冗談、だと?」
「ええ、お姫様に言い寄る必要なんてありません、だってあちらが私を求めるのですから。切羽詰まった状況で私という疑わしい存在に頼ってでもどうにかしようと試みる諦めの悪さ、執着という醜さを持ったあのお姫様ならまたそのうち向こうから言い寄ってくるはずです」
「その求めを断ったくせに何言ってんだ」
「断ったのは仕方なくです」
「仕方なく?」
「私の力を借りたいと願うお姫様の表情、迷いながらもそれ以外の手段がないと覚悟を決め悪い事だと理解し自身を責めつつも欲を満たさんとする、まるで悪魔に魂を売る聖者のようで本当に堪りませんでした。私はもう一度あの表情が見たいのです、ですのであの場は一度断って再び頼み込んでくるのを待ってみようかな、なんて」
「このど変態がっ! 貴様はもう姫様に近付くな!」
「聖職者という立場上縛りが多いこの身できない事が多数あります、ですが縛られれば縛られるほど禁忌というものに対する関心も増大するもの。私では触れられないところを他者に求めてしまうのは仕方のない事なのですよ」
「お前はもう姫様と話すな」
興奮しているのか顔を赤らめて語るフレイヤにさすがの女騎士も一歩引く。
するとフレイヤは一歩前に出て「あなたもこちら側でしょう?」と手を差し出す。
しかし女騎士は何の事だがさっぱり分からない。そう、彼女には自分が変態だという自覚がない。
「ふざけるな」とその手を払い怒りを露わにするとまたしても笑い声が。
「これも冗談、からかうのが楽しくてちょっとふざけすぎちゃいました。ですのでどうぞ安心して下さい、お姫様には何もしませんから。たとえ復讐の過程で誰かを殺すのであっても如何なる邪魔立ても致しません。言ったでしょ、私は弱いものの味方だと。現状あなた方は最弱、そんなあなた方の復讐は傾いた天秤を元に戻すだけの役割しか持ちませんので邪魔する必要も無い、ですのでどうぞお好きに」