009-1.“才能”なるもの(2018.08.04):活動報告本文編
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
近頃「自分って才能(文才)ないんじゃ?」というお悩みをよく見かけるようになりました。
しかもこれ、皆さん深刻な精神的ダメージを被っていらっしゃるのです。
よって、今回は緊急企画。
お悩みの皆様に読んでいただきたい、“才能(特に文才)”に関わる考察を試みた活動報告です。
いただきました反響から、同様のお悩み(ダメージ)を抱えておいでの方が、思いのほか数多くいらっしゃるものと見えて参りました。
よろしくお付き合いのほどを。
◇◇◇
さて私、最近になって「自分って才能(文才)ないのかな?」というお悩みを散見するように思いまして。
ということで、私なりの“才能”の捉え方――というものをこちらで並べてみようと考えます次第。よろしくお付き合いのほどを。
まず定義。才能とは、「物事を成し遂げる力」であり、「ある個人の素質や訓練によって発揮される」もの、とあります。つまりは“その分野における総合力”であって、“訓練で後天的に伸ばすことが可能”なわけです。
よく才能と混同されがちなものとして“天賦の才”が挙げられますが。
こちらはあくまで“先天的な素質”であって、“才能の全て”ではありません。ここはまず念を押しておきたいところです。
さて、ヒトとは進歩する存在です。大輪の花のような才能を花開かせたなら、その裏には試行錯誤などといった経験の膨大な積み重ねがあること、これを私は疑っておりません。
例えば。
「ぽっと出で成功した」かのような話を聞くこともありますが。
では、成功したヒト達は完全に怠けていて成功したのでしょうか? あるいは怠けたままで成功し続けられるものでしょうか?
答えは単純、“否”です。
好きでもないことで、侮ったまま、意欲も努力も注ぎ込まずに、成功できるわけがありません。
断言するのには理由があります。
「ここまで好きでもないことなら、そもそも手を染めはしないから」です。
「初めて書いてみたら見出された」――なるほど。“初めて書く”までや、“初めて書く”間に積み重ねた自己研鑽(本人には“好きなことやってるだけ”の認識でしょうけれど)や、研究や“好き”は、“ぽっと出”の認識には入っていなさそうですね。
要は。
「ぽっと出」のヒトは、積み重ねを怠ってきているわけではないのです。傍から見て“実績”がないように映るだけの話です。
その後、本当に何もしないでいるとしたら。
結果は単純、あっという間に振り落とされておしまいです。
で、何が申し上げたいのかというと。
才能は育てるものです(断言)。
例え周囲に評価されなかったからと言って、あきらめることはありません。
理由は大きく2つ。
まず。
“面白さ”や“良さ”を“発想する能力“と、“観客に伝える技量”は全くの別物であるからです。
これは、“才能の基幹となる発想能力”と“発想を形にする技量”――と言い換えていただいても構いません。
“観客に伝わるもの”=“発想”ד観客に伝える技量”
と数式にしてみれば腑に落ちる方もいらっしゃるでしょうか。
技量が拙かったとすれば、いくら発想が面白かろうと観客からはつまらなく見える道理です。観客からは結果しか見えないわけですから。
例えば観客が10%の結果を見たとしたら、それは発想がそもそも10%なのか、それとも飛び抜けた100%の発想を伝える技量が10%しかなかったからなのか――観客からは判別がつきませんね。
ですが、よく考えてみてください。己がその発想で感じたワクワクは偽物でしょうか?
――否。そもそもワクワクには己自身が合格点を出しているのです。
行き着くところは至って単純、技量を磨けば己と同等に近いワクワクを伝えられるはずです。
つまり、外から見た“才能”は、相当に伸ばす余地を抱いているのです。特に技量面において。
次に。
“才能とは伸ばすもの”であるからです。
これ、ここまでお読みいただけたからにはお解りいただけたものと考えます。
最初に発想したワクワクというものは、往々にして100%観客に伝わっているわけではありません。
技量を伸ばせば、結果として観客に伝わるワクワクは伸びます。つまり、才能は間違いなく伸びます。
そして技量は学び、試行錯誤して研鑽するものです。
言い換えると、“才能(=発想×技量)とは伸ばすもの”ということになるのです。
で、これを怠るなり辞めるなりしたとしましょう。
才能はそこでおしまいです。
腕を磨いて技量を伸ばしたヒトを相手に、いつまでも保つものではありません。
そもそも継続する意欲すら失われていたなら、そもそも作品を作り続ける力そのものが残りません。
――勝負は、もう見えていますね。
なので、「才能ない」という心ない意見に対しては。
そもそも相手は結果しか見ていないわけですから、耳を傾ける必要もありません。発想と技量、双方の伸び代を見極めた上でしか、可能性を語るべきではないのです。
それもわきまえずに可能性を語る相手なら。
観る眼のない相手に時間をかけるだけ無駄と言うもの。もはやその言は毒にしかなりません。早々に切り捨てるのがよろしいかと。
というわけで、締めくくりにお贈りしたい言葉は。
「自分の限界を決めるのは、自分自身!」(アルカンタラ@『水中騎士』木城ゆきと先生)
限界とは他でもない、己が研鑽を辞めたところこそが限界です。
辞めなければ限界は伸びます。つまり才能は伸びるのです――伸ばす限り。
この事実を皆様へのエールとして捧げます。
◇◇◇
さて、この活動報告で非常に熱い反響を皆様からいただきました。
次項では、交わさせて頂いただきましたコメントをご紹介させていただきたいと思います。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。