049.描写の“スピード感”(2022.03.05)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、“スピード感”というものが大好きです。2021.08.14.の活動報告(※作者注:『048.文章のスピード感と執筆速度(2021.08.14)』として収録)では『文章の“スピード感”』について持論を展開させていただきましたので、今回は『描写の“スピード感”』について。よろしくお付き合いのほどを。
とは申せ、いきなり“スピード感”とぶち上げても頷いていただけるとは限りませんね。なので、まずは私なりの定義など。
文章にしても描写にしても、はたまた展開に関しても、【観客】から観た“話の進み方の感覚“というものは、必ずしも一様とは限りません。例えば何気なく『一様に時間が流れている(ように映る)場面』もありますし、例えば『ゆったり時間が流れる(という願望を表す)場面』も存在します。そういった中に、例えば『めまぐるしく状況が変化する(と映る)場面』というものも在るわけです。
こう分類したところで、“場面に描き込む文章や情報の量”が、“話の進み方の感覚”に即している、要は両者イコール――などとは限らないわけですが。
描写の例として、『高速感』を演出したい場合を想定してみましょう。
この場合、例えば『眼前をものすごい勢いで何物かが横切る』というような『置いてきぼり感』も『高速感』のうちです。かと思えば、『極度の緊張で神経の認識速度が一時的に向上したがために、結果としてあらゆる動きがスロゥに映り、また対象物やその周辺が克明かつ強烈に印象に残る感覚』というのもまた『高速感』のうちに入ります。要は文章の量であるとか映像の尺であるとか、『費やした描写の物量』と『高速感』とは必ずしもリンクするわけではないわけです。
ならば、何が肝要なのか――そういう疑問が聞こえてきそうではありますが。
そこにこそ、表現を開拓する余地が存在するはず。既出の方法論が全てではありませんし、そこに考えを巡らせるからこそ育める思考力というものもありましょう。
なのでここはあくまで一例として、我流の考え方を並べてみますと。
ここで一つ重要なのは、『カメラの時間感覚をどこに合わせるか』ではありますまいか。
例えば『動きの速さに付いていけない、素人の傍観者』に時間感覚を合わせるならば、当人の認識は『置いてきぼり感』に基づくものでありましょう。
その一方で、例えば『達人の当事者』に時間感覚を合わせたなら、さてどうでしょう。動きと事態の推移に付いていけないならば、即座に敗北を押し付けられるのが道理。ならば集中力を動員して神経系の情報処理能力を一時的に向上させ、観察力と判断力を目一杯に引き上げることにはなりますまいか。その場合、当人の認識は、時間の流れがスロゥに見える『高密度感』とでも呼べるものに基づくことになるはずです。
こうしてみると、カメラの立ち位置に在る時間感覚は全く逆、当人の情報処理能力も全く逆、従って描写の粗密も全く逆になるはず――というのが、私の立てました仮説です。要は登場人物の主観や体感に引っ張られる形で、描写の形も変わってくるわけですね。
また、眼に映る速さばかりが“スピード感”というわけでもありません。
事態の展開、事象の連鎖、加速度的に状況の変化する様もまた、“スピード感”のうち――というわけです。
例えば物語内に散りばめられた要素に関連性が次々と見付かり、登場人物がその示す意味に気付いていく――という状況も“スピード感”を表すに向くものではありましょう。
この辺りは情報開示(伏線回収を含む)のテンポ、ある種の『溜めと解放』に相当する技巧が活きる場面と考えます。もちろん登場人物の心理(主として想定外に対するもの)、「まだ来るのか!」という感情を誘う畳みかけなど、活かせるものは多そうです。
ただいずれにせよ、『書いた勢いそのまま』“だけ”が“スピード感”を表現する手法では“ない”――と申しますのが、私の考えますところですね。
工夫あり、観察の結果あり、そういった積み重ねを経れば経るほど、表現の可能性は拡がる――と考える私なのでありました。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




