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039.【リアリティ】の舞台裏(第1回)(2022.04.03)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。


 私、こういう旨のお悩みを耳に(眼に)することがあります。


・【お悩み】:「どこまで【説明】すれば【リアリティ】が出せるだろうか……」


 【リアリティ】を醸す構成要素は一つ二つに限らないと捉えております私ですが、そのうちの一要素としてこのお悩みを【我流】で【考察】してみます。

 『【リアリティ】の舞台裏』というわけですね。


 このお話、大変に長くなります。よって複数回に区切って投稿とさせていただきます。


 今回はその第1回。よろしくお付き合いのほどを。



◆1.【よく聞く(見る)悩み】:「どこまで【説明】したら【リアリティ】が出るだろうか……」


 さて今回取り上げますお悩み、その背景には一つの“思想”が在るものと、私は推測するわけですが。

 まずはその“思想”を、【仮説1】として明文化してみましょう。


・【仮説1】:『【リアリティ】は、“【説明】した情報量”に比例する(つまり調整可能)』


 今回のお悩みによく付随する文言が、「どこまで【説明】すれば」という、前提を設ける言葉です。これは有り体に翻訳すれば、『“【説明】の情報量”を多くすればするほど、この情報量によって【リアリティ】を醸すことが可能であるはず』という“思想”を内包していることになります。

 「可能であるなら全部【説明】したい。だが【冗長】になりかねないので“【説明】の情報量”は抑えたい……」という葛藤が存在して初めて、「どこまで【説明】すれば」という文言は成立するはずです。

 踏み込んで解釈するなら、これは『【リアリティ】は“【説明】した情報量”に比例して醸すことができる』、言い換えれば『【リアリティ】は(“【説明】の情報量”によって)調整可能』という“思想”に立脚して初めて出てくる考え方です。でなければ「どこまで」という表現にはならないと、私は考えます。


 さて。これを【我流】の考えで、もう少し掘り下げてみます。

 実はこの“思想”、切り口を変えて観測してみると、以下の【仮説1’】に行き着きます。


・【仮説1’】:『【リアリティ】の表現においては、“【説明】の情報量”のみが、素人描写との差別化ポイントである。逆に【説明】を封じられたら、【リアリティ】において素人描写との差別化ポイントは存在しなくなる』


 【仮説1】に従って『【リアリティ】は、“【説明】した情報量”に比例する』のであるならば、『【説明】のないところに【リアリティ】は存在し得ない』ことになります。つまり『【リアリティ】に関しては、【説明】以外に素人描写との差別化ポイントは存在しない』という考え方であるわけです。


 果たして、本当にそうでしょうか。あるいは、本当にそれだけでしょうか。


 例として、以下のような思考実験を展開してみましょう。


 まず前提。『【説明】を最大限まで省き得る』という点では、現代ノンフィクションが筆頭であることは、疑いようがないと私は考えております。【作品】と【観客】の間で共有されている情報量が最大であるからです。あるいは一歩引いて、現代フィクションを題材にしてもよろしいでしょう。


 さて、ここで本題。同じはずの土俵で、『【説明】を最大限まで省いた』状態で、『(文章作成経験の極めて浅い、平均的な)小学生の作文』と『プロ作家の文章描写』を、比較したとします。


 ここで、質問です――【リアリティ】の一点において、両者は果たして同等でありましょうか。


 【我流】では、『【リアリティ】は【観客】が自ら感じ取るもの』と捉えております。ゆえに上記の問いに関しても、答えは個人個人の感覚次第です。

 その上で、私は個人の感覚として『両者は同等ではない』と判断します。意見が異なろうとも構いませんが、同時に私の意見が外から変えられるわけでもないことは、ご承知おき下さい。

 同時に、当初掲げた【仮説1】および【仮説1’】と、この“思想”の元となる疑問「どこまで【説明】すれば【リアリティ】が出せるだろうか……」の中に、私は【危惧】を覚えます。


 【我流】の【危惧】を言語化するなら、こういうことです。


・【危惧】:【お悩み】をお持ちの方が、実は『“【深層】にある情報”の存在を認識しようとしていない』という可能性がある


 ここで“【深層】の情報”とは『“【表層】の情報”の根幹にある【原理原則】』を意味し、『“【表層】の情報”と対を成すもの』として捉えます。もっと申すなら、“【深層】の情報”は“【表層】の情報”を奥底で繋いでいる存在でありますし、さらに申せば、“【表層】の情報”とは、奥底にある【深層】の情報”が顔を覗かせて生じる“表向きの事象”一つ一つに過ぎません。


 このような認識を踏まえると。

 例えば、そもそも【リアリティ】を【観客】の心理に醸すに当たり、『“【説明】の情報量”という、単純な見え方』『のみ』を【作者】が見ているところに、私は【危惧】を感じます。ここに『情報の性質を区別する概念』はなく、これは『“【表層】の情報”も“【深層】の情報”も同一視している状態』である可能性もあるのですが、あるいは悪くすると『“【表層】の情報”だけに気を取られていて、そもそも“【深層】の情報”というものの存在にすら眼を向けていない状態』という可能性も否定できません。


 これがどのように問題か――という点について、私の【認識】をお伝えしますと。

 まず【作者】が『“【表層】の情報”と“【深層】の情報”との区別がついていない』状態なわけですから、つまり【作者】が『情報の中から“【深層】の情報”を抽出できないでいる可能性』が見えてくるわけです。しかも強烈に。

 このとき、【作者】には『情報が全て同列の存在』として見えている可能性が、極めて高いと推察されます。『手元にある情報を全てインプットした上でなければ、【作者】の伝えたいことは伝わらない』という思考にこだわって離れない可能性もやはり極めて高く、これは『“少数精鋭の情報”に集約あるいは【要約】する』という思考が【作者】に芽生えない可能性を示唆しています。


 この状態を考慮するなら、「(【作品】の背景にある情報を)全部解って!」という姿勢の【作者】の裡にある心理にも、ある程度説明がつくことになりますね。【作者】の中で『情報の優先順位』が整理されていない状態、というわけです。


 ところが、情報には優先順位も“【深層】の情報”との距離(遠近)も存在します。

 その証拠としては、【要約】という行為の存在を挙げることができますね。表現を置き換え、より少ない情報量で、『比較的“【深層】の情報”に近い表現』を構築する行為です。

 情報の優先順位を考慮し、必要度の高いものを簡易な表現で提示するわけですから、これは“【深層】の情報”を見ずしてできることではありません。


 つまり、『“【深層】の情報”を見る』ことは、『“【表層】の情報”を見る』こととは、全く独立した行為です。言い換えると、『“【深層】の情報”を提示する』行為と『“【表層】の情報”を【説明】する』行為もまた、全く独立した行為ということができます。

 この両者を混同してしまうとき、『情報を提示する行為』は『悪い意味でのオタク語り』に堕する恐れが出てきます。


 この『悪い意味でのオタク語り』については、私は『“【深層】の情報”を提示する行為』の対極として認識しております。つまり裏を返せば『“【深層】の情報”の重要性を理解する役に立つ』ということにもなりそうですね。次項ではその効能を見込んで、『悪い意味でのオタク語り』を【我流】なりに掘り下げてみることにしましょう。


 ◇


 まず今回は第1回、考察を巡らせると案外根の深いテーマになりそうです。


 よろしければまたお付き合いくださいませ。


 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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