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245.【設定】なるものと【リアリティ】(第14回)(2026.01.31)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。


 さて私、このところ【設定】なるものと【リアリティ】との【関係】について【考察】しております。


 【リアリティ】についてよく語られる【意見】を見るに、恐らくその人が抱いているであろう【前提】があります。それが『【リアリティ】は【設定】に宿る』というもの。

 ただ私は、この【前提】には【懐疑的】です。というのも、例えば【ご都合主義】は【リアリティ】を【台無し】にしますが、これは【設定】云々とは別に起こり得るからです。


 ならば『“【リアリティ】の【在処】”は【設定】に限らない』として、です。


 ではそもそも【リアリティ】とは何か。

 【我流】では『【作者】が【観客】を操ろうとしていない、と解るだけの【整合性】』と捉えています。

 言い換えると『【観客】が【没入】のために「信じてもいい」と思える“【説得力】としての【リアリティ】”』となりますね。


 この【認識】を踏まえて、【設定】なるものを【観察】してみますと。


 【設定】を【観察】するに、まず『“大きな【嘘】”は一つだけついていい』という【経験則】が浮かび上がります。

 同時に【設定】とは【嘘】です。となれば【設定】を“大きな【嘘】”に置き換えて考えることができそうです。


 ここで【言説】として『【設定】は【リアリティ】を持っていなければならない』(意訳)というものも眼に入りますが。

 この【言説】が正しいとするなら『“大きな【嘘】”は【リアリティ】を持っていなければならない』ことになりますね。

 ですが“大きな【嘘】”が【現実離れ】している【傑作】というのは決して少なくありません。すると、『【リアリティ】は【設定】一つ一つに宿っているわけではない』という【事実】が見えてきます。


 では【リアリティ】、もっと申せば“【説得力】としての【リアリティ】”はどこに宿るのか。


 【我流】なりに【良作】を【観察】してみると、『“大きな【嘘】”は一つだけついていい』という【経験則】はよく活きているように見受けられます。


 もちろん【フィクション】では、“いわゆる【設定】”は一つや二つではありません。しかも“いわゆる【設定】”だけあって【嘘】でもあります。

 ただ【我流】で【観察】するに、【良作】ほどこれら“いわゆる【設定】”は【体系化】されているように映るのです。しかもこの【体系】が、【現実世界】と同じように『【原理原則】で【現象】や【法則】を束ねている』と。


 また【良作】においては、この“いわゆる【設定】”からなる【体系】の【大元】つまり【大原則】に、一つだけの“大きな【嘘】”が据えられているとも映ります。つまり“いわゆる【設定】”は“大きな【嘘】”を【大原則】とする【体系】の【一要素】になっているわけですね。


 すると『“【説得力】としての【リアリティ】”に【影響】するのは、“いわゆる【設定】”の【単体】ではなく【体系】』という【可能性】が浮かび上がってきます。


 【我流】では、“【説得力】としての【リアリティ】”が宿る先として【作品世界】(≠【世界観】)を考えます。ここで【作品世界】の【住人】が【登場人物】、【出来事】が【ストーリィ】、【物語】上の【作品世界】の【観え方】が【世界観】ということになりますね。

 その上で“【説得力】としての【リアリティ】”を“感じない”ものをまとめると、【不自然】という【言葉】に行き着きます。


 この【不自然】、【現実世界】では『【自然】または【人工】の“【法則】の【体系】”に従わないこと』ということになります。

 ならば【フィクション】でも、“【説得力】としての【リアリティ】”を損ねる【不自然】は似たようなことになりそうですね。


 【我流】で捉えるところ、“【説得力】としての【リアリティ】”が宿るのは【作品世界】そのもの、もっと申せば【作品世界】を映し出す【表現】一つ一つの裏にある【事実関係】、そこにある“【法則】の【体系】”です。

 というのは、例えば【作者】が“いわゆる【設定】”を作り込んで【体系化】していても、です。作り込んでいないところで“【法則】の【体系】”が綻んでいたら、“【説得力】としての【リアリティ】”はそこで崩れ去るからです。


 つまり“【説得力】としての【リアリティ】”は【作品】の【表現全体】に込められてこそ、というわけですね。

 【説明】一つ、“いわゆる【設定】”一つで“【説得力】としての【リアリティ】”は【実現】できない、というわけです。


 ですが、それでも『【リアリティ】は【設定】に宿る』と感じてしまう【心理】はあります。


 先述の通り、【我流】では『“【説得力】としての【リアリティ】”が宿るのは、“いわゆる【設定】”ではなく“【体系化】された【事実関係】”とそこにある“【法則】の【体系】”』と捉えますが。


 しかしながら【観客】が【事実関係】や【体系】を感じ取ろうにも、そもそも接した【情報量】、もっと申せば“【読解】した【情報量】”が少ないのでは何ともなりません。そして【作品冒頭】はこの【状態】に【相当】します。


 そこで【作者】は【冒頭】およびそれ以前の【広報】の【段階】で【工夫】を凝らすことになります。【具体的】には、【読解】の【ハードル】を下げた“いわゆる【設定】”を【重点的】に盛り込む――というものです。


 そうやって“【読解】しやすい【情報量】”を“いわゆる【設定】”で稼いだなら、【観客】は自ずとその【情報量】の中に“【法則】の【体系】”を見出しやすくなります。すると【作者】の【意図】と【観客】の【先入観】『【リアリティ】は“いわゆる【設定】”に宿る』、【両者】が【合致】しやすくなることになります。もちろん【正確】ではありません。そしてその【不正確】な【認識】は、むしろ【作者】の側が【助長】していることになります。


 では、【作者】が“いわゆる【設定】”で“【説得力】としての【リアリティ】”(の【一端】)を示したくなる【背景】はと申せば。


 【小説】は【物語】の【一種】です。

 そして【フィクション】であれば、いわゆる“大きな【嘘】”が一つだけ認められやすい【傾向】があります。【我流】ではこれを“【設定】という【大嘘】”と呼んでおります。


 また【物語】としては、【冒頭】から“【設定】という【大嘘】”を【大々的】に【説明】するのは、少なくとも私の観る【良作】においては【少数派】です。

 と申しますのも、【物語】であるからには、【登場人物】たちが接する【現象】の数々を描いてこそ――という【背景】がありますからで。


 さらに【フィクション】として【良作】であるほど、【ストーリィ】が進むにつれて【登場人物】やその【世界観】は大きく【変化】する(“【変化】の【落差】”が大きくなる)【傾向】も観られますが。


 【フィクション】において【最大級】の【落差】を生むのは“【設定】という【大嘘】”です。これを【冒頭】で【大々的】に示してしまうと、今度は【尻すぼみ】の【リスク】が生まれることになりますね。


 “【設定】という【大嘘】”が【フィクション作品】において【最大級】の【落差】を【実現】し得るからには、これは【作品】の【魅力】に繋がる【変化】の【幅】すなわち【ポテンシャル】を表すものです。【良作】を目指す上では、つまり【作劇上】の【要求】では、【クライマックス】または【相当】の【部分】でこそ明かしたい【核心】というわけですね。


 ですがその一方、“【設定】という【大嘘】”は【作品】の【差別化要素】でもあります。【作品冒頭】や【広報】で明かしたい【広報上】の【要求】もあるわけです。ただこれはそのまま【実行】すると【作劇上】は【ネタバレ】や【尻すぼみ】に繋がります。


 するとその【中間】、“【設定】という【大嘘】”そのものではなくともその【体系上】にあるもの、それこそ“【説得力】としての【リアリティ】”を持たせるよう【考察】した【中間設定】とも呼ぶべきものが浮かび上がってきます。これを【作品冒頭】や【広報】に用いればいいわけです。


 この【中間設定】は、もちろん何でもいいわけではありません。

 少なくとも【良作】においては、【中間設定】は【作品】の【隅々】まで巡らせた【考察結果】に基づき、なおかつ“【設定】という【大嘘】”から【派生】するものです。言い換えれば『“【法則】の【体系】の【要】”に【位置】する【考察結果】』ですね。


 【我流】で【認識】するに、この【中間設定】そのものが、またはこれを【作者】が“【法則】の【体系】”に沿う【範囲】で【アレンジ】したものが、“いわゆる【設定】”の【正体】です――こと【良作】においては。


 こうして“【法則】の【体系】”が、少なくともその【一端】が、【中間設定】一つ一つから匂い立つからこそ、【観客】は“いわゆる【設定】”の【向こう側】に“【説得力】としての【リアリティ】”を感じ取るわけです。


 ただ【観客】からは、そのように見えているとも限りません。


 【観客】は【作者】の【事情】にも【努力】にも通じていません。なので感じたことをそのまま【鵜呑み】にしてしまいがちです。

 この『感じたこと』の少なくとも【一部】に、『【中間設定】を見て“【説得力】としての【リアリティ】”を感じる』というものは入り込みやすいものです。【実際】にはそう感じるように【良作】の【作者】が【演出】しているのだとしても。


 そして【作者】の【出発点】は【基本的】に【観客】です。そこから【認識】を【更新】せずにいると、『“【説得力】としての【リアリティ】”が“いわゆる【設定】”(≒【中間設定】)の【中】にある』という【言説】に振り回されて【弊害】をこうむるようになります。

 例えば「【設定】をもっと【説明】しないと【リアリティ】が出ない……」というように(【実際】には【説明】で“【説得力】としての【リアリティ】”は醸せないのですが)。


 ただ逆を言えば、こうした【弊害】は【回避】できるわけです。


 その【前提】は、“【観客】の【立ち位置】”から離れ、【作者】として“【説得力】としての【リアリティ】”の【本質】へ踏み込む――という【姿勢】です。

 逆に『“いわゆる【設定】”ポン置きで【中核】を据えない【姿勢】』は【危うさ】を【内包】するわけです。


 【一言】にまとめようと試みるとして、私なら『【観客】と(巧みな)【作者】は、異なる【立ち位置】から【作品】を捉えている』というところですね。【観客】とは【立ち位置】を変えることで、初めて『【設定】の【リアリティ】』という【概念】から【解放】される【方向】へ向かうことができる、というわけです。


 【作者】として【やりたいこと】と“【説得力】としての【リアリティ】”は、【両立】できないわけではありません。ただし、【無条件】で【両立】できるものでもありません。


 【作者】の【やりたいこと】とは、言い換えれば【創作意図】や【表現意図】です。ただし一本の【作品】に込められるものの【数】や【質】は、【作者】の【技量】によります。


 特に【中核】とそこで束ねられる“【法則】の【体系】”は、“【説得力】としての【リアリティ】”が宿るところです。ここを築くことができなければ【両立】は夢と終わることになります。

 なので束ねられる【中核】を定めるために【創作意図】や【表現意図】、【テーマ】や【コンセプト】を(【感覚的】にでも)持っていることは【必須】です。

 またそうして設けた【中核】で束ねられるように、“【設定】という【大嘘】”や“【法則】の【体系】”とそこに含まれる【中間設定】(≒“いわゆる【設定】”)、ひいては【表現】の一つ一つを作り、また【配置】していくことが【必要】になるはずですね。


 前回はこの点を、もう少し掘り下げてみました。


 結局のところ、【事実関係】の【中核】に“【設定】という【大嘘】”(またはそれに【相当】するもの)がなければ、【事実関係】に【整合性】も【一貫性】も宿りようがありません。

 その場合は【作品全体】の【事実関係】、特に“いわゆる【設定】”の【外】の部分で【整合性】や【一貫性】が失われやすくなるわけです。


 であれば、『【設定】(=“いわゆる【設定】”)の【リアリティ】』なるものを【訳知り顔】で語るとき、その人が“【他作】において【事実関係】の【中核】を捉えず【表層】だけ見ている【観客】または【作者】”である【可能性】は高いことになります。

 なぜなら、そもそも語っている【他作】において“いわゆる【設定】”(=【中間設定】)の外にある【事実関係】を、中でもその【中核】を、【読解】あるいは【認識】できていないわけですから。


 逆に“【法則】の【体系】”が【作品テーマ】や【作者】の【創作意図】とも【密接】に【関係】していれば、それだけ【表現】は【一貫】していくことになりますね。すると“【説得力】としての【リアリティ】”もまた【補強】されていくことになるはずです。


 【作者】の【やりたいこと】、少なくとも【作品テーマ】や【創作意図】といった【中核】に属するものは、もちろん【姿勢】にもよりますが“【説得力】としての【リアリティ】”を醸す上で大いに役立つもののようですね。


 今回からは2回に分けて、“【説得力】としての【リアリティ】”を醸すための【考え方】というものに【考察】を巡らせてみましょう。


 ◇


○【確認】:【リアリティ】の【在処】≠“【設定】なるもの”(その1)


 ここで再び私の【認識】を【ご提示】するに。


 元より“【説得力】としての【リアリティ】”を支えているのは“【表現全体】の【リアリティ】”であって、『“いわゆる【設定】”(=【中間設定】)の【リアリティ】“ではない”』ということです。

 もちろん、『“【設定】という【大嘘】”の【リアリティ】』でもありません。なぜなら“【設定】という【大嘘】”はぶっ飛んでいようとも【物語】の【リアリティ】は【成立】させられるからです。


 何より『【事実】は【小説】より【奇】なり』という【言葉】があります。これを転ずれば『“【奇】な【事実】”を含んでいても、【現実】は【リアリティ】を持って【存在】している』という【意味】でもあるわけです。


 こういった【事実】からすれば、つまり『【リアリティ】の【在処】は“【設定】と呼ばれるもの”ではない』ということになります。

 これは“いわゆる【設定】”ではない、というだけではありません。【根幹】にある“【設定】という【大嘘】”まで含めた“【設定】と呼ばれるもの”ではない、ということです。


 その上で【他作】の“いわゆる【設定】”に魅せられた、そこに【リアリティ】を感じた、そういう【観客】としての【体験】は、それはそれで【大切】なものです。


 ただしもう一つ【大切】なのは、『あくまでも、それは【観客】としての【視点】に立った【体験】に留まる』という【事実】です。これは同時に『【作者】としての【視点】としては、もっと深く踏み込んだ【位置】も【存在】する』、という【事実】があることも【意味】します。


 『【観客】に【作品】をどう魅せるか』という【命題】については、実は【複数】の【役割】から向き合うものです。

 【本編】については【構成】や【演出】の【領分】ですし、また【作品】を【観賞】するまでの【周辺体験】については【広報】の【領分】になります。しかもこれらはさらに【細分化】されるものです。


 これに対して【リアリティ云々】を振りかざし、「【設定】に【リアリティ】がない」と声を荒げる【観客】ならば、それはその【観客自身】が【フィクション】に対する【適性】を欠く――というだけのことです。

 【適性】もわきまえず【評論家面】を晒す【観客】ならば、所詮はその程度に【浅い人間】というに過ぎません。耳を傾ける【価値】を、私なら感じないところです。


 ◇ 


 さて、今回は一旦ここまで。


 元より“【説得力】としての【リアリティ】”を支えているのは“【表現全体】の【リアリティ】”です。これは『【リアリティ】の【在処】は“【設定】なるもの”ではない』ということを【意味】します。


 もちろん【他作】の“いわゆる【設定】”に魅せられた、そこに【リアリティ】を感じた、そういう【観客】としての【体験】は充分にあり得ます。

 ただしそれは【観客】としての【視点】に立った【体験】であって、『【作者】としての【視点】としては、もっと深く踏み込んだ【位置】も【存在】する』、というのも【事実】です。


 実際、『【観客】に【作品】をどう魅せるか』という【命題】については、実は【複数】の【役割】で向き合うものです。

 【本編】については【構成】や【演出】の【領分】ですし、また【作品】を【観賞】するまでの【周辺体験】については【広報】の【領分】になります。しかもこれらはさらに【細分化】されるものです。


 次回は以上の【事実】を踏まえて、“【説得力】としての【リアリティ】”を醸すための【過程】を考えてみましょう。


 よろしければまたお付き合い下さいませ。


 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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