197.【期待】と【カタルシス】、その【貸借関係】(第8回)(2025.03.01)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
さて私、このところ【期待】について【考察】を巡らせております。
【観客】が【作品】に抱く【期待】を考えるには、そも【観客】が【作品】に求めるものを観る【必要】があります。
これを【我流】なりに考えてみますと。
【観客】が求めるものは“【利益】と感じること”、特に【創作物】に対しては“【利益】としての【快楽】”、と捉えることができそうです。
であれば【作者】の【立場】としては、『“【観客】が抱く【期待】”が向く先は、“【利益】としての【快楽】”を(【作品】の中で)“【継続的】に得られる”【可能性】』と捉えておくのが良さそうです。
では、この【快楽】はと申せば。
【観客】の“【利益】としての【快楽】”という【観点】で見てみると、まず“【欲求】を満たされること”が浮かび上がってきます。
ただ同時に、『単に【欲求】を満たされるだけでは得られない【快楽】』もまた浮かびます。
ここでいう“広義の【カタルシス】”がそれに当たりますが、これは『(【欲求】が満たされていない)【ストレス状態】から【解放】される【瞬間】に得られる』ことが解っているのです。
この“広義の【カタルシス】”を“【動】の【快楽】”と捉えてみれば、“【欲求】に基づく【快楽】”つまり“【静】の【快楽】”と【共存】できそうですし、上手くすれば【相乗効果】も【期待】できそう――という【見通し】も得られてきます。
“【動】の【快楽】”は『【欠乏】から【充足】に至るまでの【時間的変化】』、“【静】の【快楽】”は『(【観客】が)求めるものの【種類】』と、別々の【位置付け】を持っているわけですから。
この“【動】の【快楽】”、その【存在意義】を考えてみますと。
“【動】の【快楽】”の【存在意義】というものは、例えば【ラヴコメ】で考えてみると見えてきます。
この場合、“【静】の【快楽】”を満たすには『【関係性】を【成就】する』という“【欲求】を【満たす状態】”が【必要】です。が、実際には【良作】ほど“【欲求】が【満たされない状態】”で【観客】の【興味】を【強烈】に【牽引】しています。
つまり『そこには“【動】の【快楽】”、少なくともそれに関わるものが【存在】していて、それが【観客】の【興味】を【牽引】している』ということになりますね。
ここから、さらに“【動】の【快楽】”を掘り下げてみますと。
“【動】の【快楽】”つまり“広義の【カタルシス】”は、まず【ストレス状態】である【満たされていない状態】があって、そこから【時間経過】を経ての【解放】で得られるものです。
であれば【時間経過】を【表現】する上で“【ストレス状態】との【葛藤】”を描くことになります。
ですが【牽引力】の面で、【満たされていない状態】でありながら【快楽】を【提供】し続ける【必要】はあるわけです。
そこで【我流】としては、【条件付け】というものに【着眼】します。
実はこの【条件付け】という【現象】を踏まえてみれば、【説明】がつくことがあります。
何かと申せば、『この後に“広義の【カタルシス】”が得られる』という【経験】を繰り返すことで、その【前段階】の“【ストレス状態】との【葛藤】”が【条件付け】されて、“【後天的】な【快楽】”と【観客】に【認識】される――ということです。
しかも【同様】に、さらに【前段階】へ、さらにまた【前段階】へと、【条件付け】が起こることになりますね。
これらは『【快楽】の【到来】を【予想】させる【鍵】』であるがゆえに“【後天的】な【快楽】”にもなるわけです。
そしてこの【鍵】が、少なくとも【期待】の一部ということになります。しかも【同時】に“【後天的】な【快楽】”でもあるわけです。
ただしこれは、あくまで【条件付け】があるからこそ【成立】する【関係】です。
前回はこの【条件付け】を壊す、つまり【期待】を【裏切る】とはどういうことか、掘り下げてみました。
『【期待】だけ持たせればいい』という【やり方】は、もちろん【期待外れ】として【観客】が離れる【理由】になります。
それは【期待】というものが、後に【到来】するはずの【快楽】に【条件付け】された“【後天的】な【快楽】”だからですが、これは見方を変えれば“【作者】(とその【作品】)と【観客】の間で交わされた【約束】”ということになります。
つまり【期待】(という【約束】)を【裏切る】ということは【売り逃げ】と同じで、『【期待】だけ煽って【ろくでもない商品】を押し付け、姿をくらます【やり口】』と【観客】には映るわけです。そうなると【作者】に対する【悪感情】は避けようがない、ということになりますね。
今回はこの続き、【期待】を【裏切る】ことの【重み】について掘り下げてみましょう。
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○【要注意】:【期待】を【裏切る】【リスク】(2)
『【期待】を煽っておきながら、然るべき【結果】で報いない』、というのは、早い話が“【期待】という【約束】”に対する【裏切り】です。仮に【悪意】がなかったとしても【看板倒れ】というところですが、いずれにせよ【観客】にしてみれば【損】は【損】です。以後【作者】に付き合う【理由】が消し飛んだとしても【不思議】はありません。
よくよく考えてみれば、この場合の【作者】は『【結果】の伴わない【期待】で【観客】の【感情】を弄び、【好意的反応】を【搾取】した挙げ句に【相応しくない作品】を押し付けた』わけです。
ましてやこれが【故意の所業】なら、『【作者】は【観客】を【裏切って】【逃げた】【極悪人】』とさえ【認識】されても【文句】を言えた【筋合い】はありません。
これが、どれほどの【悪行】に【相当】するか、と申せば。
『【他人】の【感情】を弄んで捨てる(【逃げる】)』というのは、例えば【男女関係】なら【刃傷沙汰】にも【発展】し得る【悪行】です。少なくとも【相手】の【感情】にまともに向き合わないわけですから、これは『【相手】を【人格】として扱っていない』ことになります。
それはもう【負の感情】が募ったところで【当然】というものですね。
であれば【期待】を【裏切った】【作者】は、【観客】の【負の感情】を【覚悟】すべきでありましょう。
即ち、『【観客】が【リピータ】にならないのは【当たり前】、それどころか、その場で【作品】を投げ出しても【不思議】はない』というわけです。
そしてもちろん、【挽回】の【機会】はあくまで【観客】の【心理次第】です。【悪評】を流されたとして、【作者】には【文句】を言える【筋合い】などありません。
要は、【観客】の【期待】を軽々しく扱うのは【危険】だ、ということです。
ただし、ここで【要注意】。
だからといって、【観客】の【期待】にはそれほど高い【精度】や【解像度】を求めるわけにはいきません。【理由】は【単純】、【観客】は【表現】に対する【解像度】が高いとも限らず、また【個人差】を【内包】してもいるからです。
よって『【観客】の【期待】は【曖昧】で、【方向性】にしろ【強度】にしろ【高精度】に報いることは極めて【困難】』と捉えておくのが【肝要】でありましょう。
すると、次のような【悲観】も、私の【予想】するところです。
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・【悲観】「じゃあ【期待】を煽るのって【自殺行為】なの?」
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この【悲観】に対するに、少なくとも【期待】に関しては、【我流】なりに『やりようはある』と捉えています。
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さて、今回は一旦ここまで。
【期待】を【裏切る】というのは、言い換えれば『【相手】の【感情】に向き合わない、【人格】として扱っていない』ことにもなります。
これでは【作者】が【人格】として見捨てられたところで、【文句】を言える【筋合い】はありませんね。
要は【観客】の【期待】を軽々しく扱うのは【危険】だ、ということですが。
だからといって、【観客】の【期待】にはそれほど高い【精度】や【解像度】を求めるわけにはいきません。
では【期待】を煽るのは【自殺行為】なのか、と申せば。
私は【我流】なりに『やりようはある』と捉えています。
次回は、そちらを掘り下げてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。