196.【期待】と【カタルシス】、その【貸借関係】(第7回)(2025.02.22)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
さて私、このところ【期待】について【考察】を巡らせております。
【観客】が【作品】に抱く【期待】を考えるには、そも【観客】が【作品】に求めるものを観る【必要】があります。
これを【我流】なりに考えてみますと。
【観客】が求めるものは“【利益】と感じること”、特に【創作物】に対しては“【利益】としての【快楽】”、と捉えることができそうです。
であれば【作者】の【立場】としては、『“【観客】が抱く【期待】”が向く先は、“【利益】としての【快楽】”を(【作品】の中で)“【継続的】に得られる”【可能性】』と捉えておくのが良さそうです。
では、この【快楽】はと申せば。
【観客】の“【利益】としての【快楽】”という【観点】で見てみると、まず“【欲求】を満たされること”が浮かび上がってきます。
ただ同時に、『単に【欲求】を満たされるだけでは得られない【快楽】』もまた浮かびます。
ここでいう“広義の【カタルシス】”がそれに当たりますが、これは『(【欲求】が満たされていない)【ストレス状態】から【解放】される【瞬間】に得られる』ことが解っているのです。
この“広義の【カタルシス】”を“【動】の【快楽】”と捉えてみれば、“【欲求】に基づく【快楽】”つまり“【静】の【快楽】”と【共存】できそうですし、上手くすれば【相乗効果】も【期待】できそう――という【見通し】も得られてきます。
“【動】の【快楽】”は『【欠乏】から【充足】に至るまでの【時間的変化】』、“【静】の【快楽】”は『(【観客】が)求めるものの【種類】』と、別々の【位置付け】を持っているわけですから。
この“【動】の【快楽】”、その【存在意義】を考えてみますと。
“【動】の【快楽】”の【存在意義】というものは、例えば【ラヴコメ】で考えてみると見えてきます。
この場合、“【静】の【快楽】”を満たすには『【関係性】を【成就】する』という“【欲求】を【満たす状態】”が【必要】です。が、実際には【良作】ほど“【欲求】が【満たされない状態】”で【観客】の【興味】を【強烈】に【牽引】しています。
つまり『そこには“【動】の【快楽】”、少なくともそれに関わるものが【存在】していて、それが【観客】の【興味】を【牽引】している』ということになりますね。
ここから、さらに“【動】の【快楽】”を掘り下げてみますと。
“【動】の【快楽】”つまり“広義の【カタルシス】”は、まず【ストレス状態】である【満たされていない状態】があって、そこから【時間経過】を経ての【解放】で得られるものです。
であれば【時間経過】を【表現】する上で“【ストレス状態】との【葛藤】”を描くことになります。
ですが【牽引力】の面で、【満たされていない状態】でありながら【快楽】を【提供】し続ける【必要】はあるわけです。
そこで【我流】としては、【条件付け】というものに【着眼】します。
前回はこの【条件付け】を【足がかり】に、『“【ストレス状態】との【葛藤】”の【段階】で【観客】に【快楽】が【提供】される』という【現象】の【可能性】を掘り下げてみました。
実はこの【条件付け】という【現象】を踏まえてみれば、【説明】がつくことがあります。
何かと申せば、『この後に“広義の【カタルシス】”が得られる』という【経験】を繰り返すことで、その【前段階】の“【ストレス状態】との【葛藤】”が【条件付け】されて、“【後天的】な【快楽】”と【観客】に【認識】される――ということです。
しかも【同様】に、さらに【前段階】へ、さらにまた【前段階】へと、【条件付け】が起こることになりますね。
これらは『【快楽】の【到来】を【予想】させる【鍵】』であるがゆえに“【後天的】な【快楽】”にもなるわけです。
そしてこの【鍵】が、少なくとも【期待】の一部ということになります。しかも【同時】に“【後天的】な【快楽】”でもあるわけです。
ただしこれは、あくまで【条件付け】があるからこそ【成立】する【関係】です。
今回はこの【条件付け】を壊す、つまり【期待】を【裏切る】とはどういうことか、掘り下げてみましょう。
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○【要注意】:【期待】を【裏切る】【リスク】(1)
さて、ここで【要注意】。
私としては、この時点で次のような【短絡姿勢】を【予想】するところです。
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・【短絡姿勢】「【期待】そのものが【快楽】ってことは、ひたすら【期待】だけ持たせまくればいいんだな!」(※1)
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もちろん、このような【短絡姿勢】は、後に【観客】の【心理】に【期待外れ】を引き起こし、【観客】に見限られる【根拠】になり得ます。
なぜならこの時、【観客】は『【期待】を通じて【約束】された【快楽】(という【利益】)を取り上げられる』からです。
つまり【期待】は、【作品】が後に【提供】するべき【快楽】の、いわば【前借り】に過ぎないのです。
この辺り、もう少し掘り下げてみましょう。
“【快楽】としての【期待】”は、『後に【到来】するはずの【快楽】に対して【条件付け】された“【後天的】な【快楽】”』です。
つまり『【期待】は、【条件付け】で【紐付け】された“後に【到来】するはずの【快楽】”と対になってこそ【成立】する』ということになります。
となると、これは見方を変えれば“【作者】(とその【作品】)と【観客】の間で交わされた【約束】”ということになります。【言語化】を試みるなら、次のような【作者】の【言葉】になるでしょうか。
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・【作者】「【観客】の皆さんが【期待】して盛り上がってくれたら、【相応】の【快楽】(=【利益】)を【提供】しますよ」
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さて、ここでお尋ねします。【売り逃げ】という【言葉】をご存知でしょうか。
『【売り手】が【商品】の【印象】を良くする類の【事前情報】を散々【客】に吹き込み、その上で【ろくでもない商品】を売りつけて、【苦情】を聞かずに【姿】をくらます』という【種類】の【やり口】です。
これ、仕掛けられて喜ぶ【客】が、果たしてどれほど【存在】するものでしょうか。同時に、「また同じ目に遭いたい」と思う【客】が、果たしてどれほど【存在】するものでしょうか。
先述した【作者】の【短絡姿勢】(※1)は、まさに【売り逃げ】の【やり口】そのものです。【売り逃げ】の【被害】に遭った【客】に相当する【観客】のうち、これに懲りて【作者】を信じなくなる人々は相当な【割合】に上るであろうと【予想】できます。
つまり【売り逃げ】の【被害】に遭った【観客】にしてみれば、【犯人】である【作者】を信じる【理由】はきれいさっぱり【消滅】するのです。さらには【作者】や【作品】に対する【被害者意識】も【相応】に残るでしょう。【同情】の【余地】など残るはずもありません。
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さて、今回は一旦ここまで。
『【期待】だけ持たせればいい』という【やり方】は、もちろん【期待外れ】として【観客】が離れる【理由】になります。
それは【期待】というものが、後に【到来】するはずの【快楽】に【条件付け】された“【後天的】な【快楽】”だからですが、これは見方を変えれば“【作者】(とその【作品】)と【観客】の間で交わされた【約束】”ということになります。
つまり【期待】(という【約束】)を【裏切る】ということは【売り逃げ】と同じで、『【期待】だけ煽って【ろくでもない商品】を押し付け、姿をくらます【やり口】』と【観客】には映るわけです。そうなると【作者】に対する【悪感情】は避けようがない、ということになりますね。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。