191.【期待】と【カタルシス】、その【貸借関係】(第2回)(2025.01.18)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
さて私、このところ【期待】について【考察】を巡らせております。
【観客】が【作品】に抱く【期待】を考えるには、そも【観客】が【作品】に求めるものを観る【必要】があります。
前回は、まず【観客】が【作品】に求めるものを【我流】なりに考えてみました。
すると【観客】が求めるものは“【利益】と感じること”、特に【創作物】に対しては“【利益】としての【快楽】”、と捉えることができそうです。
であれば【作者】の【立場】としては、“【観客】が抱く【期待】”が向くのは、『“【利益】としての【快楽】”を(【作品】の中で)“【継続的】に得られる”【可能性】』――と捉えておくのが良さそうです。
そこで今回は、この【快楽】を見てみましょう。
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○【快楽】とその【源】
さて、“【観客】が抱く【期待】”を『“【利益】としての【快楽】”を【継続的】に得られる【可能性】』と【認識】してみたところで。
【観客】が“【利益】としての【快楽】”を求めるからには、『【快楽】には【種類】がある』というところに眼を向けておく【必要】はありそうです。
【快楽】に関してまず思い付くのは、【先天的】に決まる、言うなれば【本能】に基づく【快楽】です。【食欲】、【性欲】、【睡眠欲】、いわゆる【三大欲求】を満たすことですね。
そうすると、『【快楽】とは【欲求】を満たすことで得られる』という【傾向】に考えが及びます。
であれば『マズローの【欲求】五段階説』で挙げられている【欲求】群もまた、【快楽】を【考察】する上で役立ちそうです。
この場合の【分類】は【生理的欲求】、【安全欲求】、【社会的欲求】、【承認欲求】、【自己実現欲求】があるということになりますね。先に挙げた【三大欲求】は、この中で【生理的欲求】に組み入れられることになりそうです。
その【方向性】で考えるなら、例えば【脅威】に対する【克服】や【逃走】は【安全欲求】に組み入れられそうですし、【仲間】を得たり誰かに受け入れられたりするのは【社会的欲求】に、という【考え方】が【成立】しそうですね。
ここまでの【まとめ】を試みるなら、【快楽】に関しては、少なくとも“【欲求】に基づく【快楽】”というものが【存在】するわけです。しかも【欲求】に【種類】があるからには、それに応じて【快楽】にも【種類】がある、ということも【確定】します。
では、ここまでで【快楽】の【種類】を全て【網羅】できているか――と申せば、そういうわけでもありません。
○【満たされていない状態】と【快楽】
ここで、私が【予想】する【発想】があります。
・【発想】「じゃあ【欲求】が満たされまくった【状態】を描けばいいんだな!」
この【発想】を元に、“【主人公】が【冒頭】から【結末】まで【欲求】の数々を満たされ続ける【物語】”を【作者】が描いたとします。
これに対し、私の【素朴】な【感想】を述べるなら、こういうことです。
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・【感想】「それ、どこが【面白い】の?」
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そこには【物語】としての【山】もなければ【オチ】もなく、もちろん【意味】もありません。盛り込みようがないからです。そこにあるのはただ【主人公】(または【作者】)の【独りよがり】だけです。
考えてもみて下さい。『何もかも満たされている【主人公】が、【徹頭徹尾】ひたすら【満足】し続ける』というのは――実は“【素人】の拙い【妄想語り】”によくある【パターン】ではないでしょうか。
何よりその【証拠】に、そういう【物語】を【主人公】の【一人称表現】(【主語】は【俺】/【私】など)という【形】として思い浮かべてみて下さい。
これ、『【自意識過剰】で【世間】を舐め倒した【素人】が、ひたすら【ダダ甘】の【ご都合主義】で【自分】の【成功予定譚】を語り倒す【自分語り】』なるものとの間に、どれほどの【違い】を見出せるものでしょうか。
要は『“【最初】から【完全】に満たされている【状態】”など、【素人】でも語れてしまうほど【安っぽく映る】』のです。もちろん【観客】の【共感】など望みようもなく、【結果】として【快楽】を【提供】するにも【望み薄】――と、私なら考えるところです。
このような【背景】があり、『【快楽】の中には、何らかの形で“【満たされていない状態】を【内包】するもの”が【存在】する』という【事実】が【確定】します。
ただしもちろん、【満たされていないがゆえの快楽】というのもまた【不自然】です。
もちろん【後天的】な【条件付け】のように、“【経験】に基づいて【形成】された【快楽】”ということならまだ【説明】はつきます。ですが、『【満たされていない状態】を【快楽】にどうやって【条件付け】するのか』という【疑問】はもちろん残ります。少なくともこの【時点】では。
では――というところに、私としては【思考】を至らせるほかありません。
つまり、以下のような【仮説】です。
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・【仮説】:『【満たされていない状態】を【内包】し、なおかつ【自然】な【快楽】』というものは、『【満たされていない状態】から【満たされた状態】への、“【時間経過】に伴う【変化】”という【移行】』によって生じるのではないか
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実は、この【仮説】に【合致】する【快楽】が【存在】します。先に挙げた中では【網羅】できていない【種類】の【快楽】ですね。
その種の【快楽】は、『【ストレス状態】から【解放】された【瞬間】に得られる』ことが解っているのです。一種の【カタルシス】ということになりますね。
ただし【カタルシス】という【言葉】の大元を辿ると『(【悲劇】などで)【心】の中に溜まった【ネガティヴ】な【感情】が【解放】され、【心理】に【浄化】をもたらすこと』とあります。
ですので、ここで私が申し上げる“【ストレス状態】から【解放】された【瞬間】に得られる【快楽】”については、“広義の【カタルシス】”と【表現】することとしてみましょう。
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さて、今回は一旦ここまで。
【観客】の“【利益】としての【快楽】”という【観点】で見てみると、まず“【欲求】を満たされること”が浮かび上がってきます。
ただ同時に、『単に【欲求】を満たされるだけでは得られない【快楽】』もまた浮かびます。
ここでいう“広義の【カタルシス】”がそれに当たりますが、これは『(【欲求】が満たされていない)【ストレス状態】から【解放】された【瞬間】に得られる』ことが解っているのです。
次回はこの“広義の【カタルシス】”、その【位置付け】を掘り下げてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。