190.【期待】と【カタルシス】、その【貸借関係】(第1回)(2025.01.11)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
さて私、『【観客】の【期待】は【信用】・【信頼】とともに築くもの』という【認識】を持っております。
『【期待】を裏切るな、【予想】を裏切れ』との【お言葉】が誰のものであったか、そこは判然としません。ですが【私個人】の【実感】としては、実に的を射抜いたものと考えております。
されど実際に【期待】を煽る、少なくとも【作品中】で【期待】を煽る、というのはそうそう【簡単】ではないわけで。
では【期待】とはどうやって生まれるのか。それ以前にそもそも【期待】とは何なのか。そういうところに【興味】が向こうというものです。
そこで今回は【我流】ながら【期待】に関して【考察】を巡らせて参ります。よろしくお付き合いのほどを。
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○【考察】:【期待】の赴く先
そもそもの話、誰しも『【純粋】な【損失】』と感じるものには【期待】どころか【関心】さえも寄せようとしないものです。
もちろん耳に痛い話であるとか、【損切り】を扱う話であるとか、一見して【損失】と映りがちな【内容】に【関心】を寄せることはあります。
ですがよく考えてみて下さい。【自分自身】の【心理】を振り返ってみるとき、そこには【損失回避・抑制】であるとか【野次馬根性】であるとか、何かしらを得たり満たしたりする【目的】が【存在】しているはずです。
つまり【関心】は、その人が一部なりと“【利益】を感じること”に寄せられることになります。
さて、では“【観客】の【利益】”とは何か――ということになりますが。
こと【創作】で申すなら、“【観客】の【利益】”として大きいのは『【作品】の【観賞】を通じて【快楽】を得ること』でありましょう。
もちろん求める【快楽】の【種類】については、【観客】の【個性】や【価値観】が【反映】されますので【画一的】には言い表せません。が、全くの【不快】のためにわざわざ【作品】に接するという【観客】は、ゼロではないにしろ極めて【少数派】であるはずです。
このように考えてみれば、『主な“【観客】の【利益】”=【快楽】』と【認識】して、まず【間違い】ではないでしょう。もちろん【快楽】の【種類】は【多様】であるにしても。
となれば【観客】が抱く【期待】とは、『“【利益】としての【快楽】が得られる【可能性】”』に赴くことになります。
さらに【小説】のような【物語】は【一発芸】では終わりませんから、【作者】や【作品】としては、【冒頭一発目】で【快楽】を【枯渇】させるわけにもいきません。
そう考えると、“【観客】が抱く【期待】”を【作者】の【立場】から捉える場合、『(【観客】が)“【利益】としての【快楽】”を(【作品】の中で)“【継続的】に得られる”【可能性】』に向いている、と観る【必要】がありそうです。
【作者】としては、こういった【快楽】を一つ一つ【個別】で捉えるより、【物語】の中で連なって【連携】も起こし得る一連の【流れ】として捉えた方が、何かと【期待】に繋げやすそうですね。
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さて、今回は一旦ここまで。
【観客】が【作品】に抱く【期待】を考えるには、そも【観客】が【作品】に求めるものを観る【必要】があります。
すると【観客】が求めるものは“【利益】と感じること”、特に【創作物】に対しては“【利益】としての【快楽】”、と捉えることができそうです。
であれば【作者】の【立場】としては、“【観客】が抱く【期待】”が向くのは、『“【利益】としての【快楽】”を(【作品】の中で)“【継続的】に得られる”【可能性】』――と捉えておくのが良さそうです。
そこで次回は、この【快楽】を見てみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。