182.【予告編】に関する【一考察】(第7回・完結)(2024.10.26)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、【あらすじ】欄へ書き込む【内容】については大いに悩んだ【経験】を持っております。
何せ【額面通り】に捉えれば、【あらすじ】は公募原稿で求められる【梗概】と【同義】、つまり【作品全体】の【要約】です。私としては「え、全部【ネタバレ】って、それでいいの?」と【躊躇】しますもので。
では、【あらすじ】欄の【内容】として望ましいものは――というところに【興味】が赴くと考えますが。
【額面通り】の【梗概】や【あらすじ】は、公募の【選考委員】でもない【観客全員】が求めるもの〝ではありません〟。
『【観賞】前にいきなり【核心】までの【ネタバレ】をぶちまけられた』として、喜ばない【観客】も相当数は【存在】するわけです。
また【Web小説】、しかも【連載】という【公開形態】も考え合わせれば、そもそも【額面通り】の【梗概】や【あらすじ】、つまり【核心】まで含め【ネタバレ】が【選考委員】でもない【観客全員】を喜ばせることにはなりません。
と、ここまでを【確認】した上で。
【あらすじ】欄の【可能性】欄について【考察】してみますと。
例として【文庫本】の【アオリ文】に【着眼】してみると、この時点で『【作品】には【本編以外】における【楽しみ】も【存在】している』ということが判ります。この『【本編以外】における【楽しみ】』を、私は【周辺体験】、ただしその中で【プラス】の【事例】と位置付けております。
人は【体験】で、【物事】を【人生】の【一部】として取り込みます。またそこで【価値観】に照らして、初めて【価値】が【認識】されます。
逆に『【物事】の【存在】を知る』という【体験】すらない場合、人は【価値】を感じることはないわけです。
また【作品本編】以外でも、【アオリ文】などの【周辺体験】で【期待】に胸躍らせたなら、その【周辺体験】そのものにも【価値】を感じることはあり得るわけです。
つまり広義で考えれば、『【期待】を煽るものも含め、【周辺体験】は【作品】の【価値】の一部たり得る』ということになりますね。
【作品】の【周辺体験】の一つとして【期待】を煽る上では、【先人】たちの積み上げてきたものから【範】をいただくことができるはずです。
そう考えると【文庫本】などの【アオリ文】は【手本】の【一例】ということになります。ただ私としては、【研究材料】として【予告編】を挙げますところ。
もちろん【予告編】と申しても【映画】あり【アニメ】ありと様々です。ですがもちろん、【自分】が【観客】として【良質】と感じたものを【サンプル】として【学び】を得ていけばいい、というのが私の考えですね。
【予告編】から得られる【学び】は、何も【作品紹介】のためだけのものでもありません。短い中で【観客】の【意識】を惹くわけですから、これは【作品本編】にも【応用】できるものです。同時に〝【紹介】しやすい【作品】〟というものに【作者】として【意識】を振り向ける【契機】にもなります。
というわけで、前回は私なりに【具体例】をご覧に入れてみました。
実際に【観察】してみると、【アオリ文】と【予告編】それぞれに【特徴】があるものと観えてきます。
【アオリ文】は【直接表現】を【主体】として【正確】な【言及】を【意図】する作りが窺えます。
対する【予告編】は【間接表現】を【駆使】する作りですね。【象徴的】な【単語】や【科白】などの【コラージュ】を多用して【作品】の【雰囲気】を伝えつつ、【流れ】や【順序】まで含めて【意味付け】を補い【解釈】の【余地】も持たせていく【構成】が【可能】ということになります。
もちろん、【両者】に【上下】があるわけでもありません。ただ【特徴】が異なる以上は、そこから得られる【学び】もあろうというものです。
そこで今回は、【予告編】で得られるものの【活かし方】、その【一例】についてお話ししてみましょう。
◇
○【考え方】:【伏線】≒【予告編】
さて、ここまでご覧いただいた上で、お気付きの方もおいででしょう。
実は【予告編】からの【学び】は、【作品本編】を【構築】する上でも活かせるものです。
まず一つ目として、【冒頭部】の【構成】を挙げます。
【予告編】にしろ【冒頭部】にしろ、接する【観客】の【予備知識】は【実質ゼロ】です。この【状態】で【観客】を楽しませ、その上で【作品本編】への【期待】を煽る――という【役割】を【考慮】してみれば、【予告編】から得た【学び】を【冒頭部】へも活かし得る道理です。
また【冒頭部】という【作品本編】の一部ですから、【内容】を表すのに【説明】よりは【シーン】の方が【有利】ですね。この辺りの【感覚】も【予告編】に通ずるところでありましょう。
もちろん【冒頭部】は【作品本編】から【コラージュ】というわけにいきません。ですが、『【作品本編】への【期待】を煽るために、【予備知識ゼロ】の【段階】でどんな【内容】を詰め込むべきか』は見えてくるはずです。ならば詰め込むべき【お題】の数々から【n題噺】として【導入エピソード】を【構築】する手が、少なくとも【存在】することになります。
続く二つ目は【作品本編】、しかもその場その場での【内容】です。
「いや【作品本編】でしょ? もう【予告編】要らないんじゃない?」という【反感】は、私としても【予測】のうちですが。
よくよく考えてみて下さい。【作品本編】その場その場で、【期待】を全く煽らなかったら、どうなるでしょうか。私なら「あー面白かった。だけどこの先は別に追いかけなくていいよね」という【観客】の【反応】を【危惧】するところです。
逆に私は「先の【展開】が気になって仕方がない!」という【心理】を【経験】したことが何度もあります。そういう私は、この【期待】というものを〝【作品本編】の【牽引力】〟として【認識】します。
何のことはない、【作品本編】といえど先の【展開】に対する【期待】を煽らずしては、【上質】な【観賞体験】を【追求】する上で【不足】を抱えてしまうわけです。
そして【期待】を煽る上で、【良質】な【予告編】には【技巧】や【ヒント】が詰まっています。
となれば、『【作品本編】の【性質】の一つは、常に〝少し先の【展開】に対する【予告編】〟でもある』ということです。その【お題】は【伏線】、言い換えると『先の【展開】があるからには、その場で起こっていてしかるべきこと』というところですね。ただし【伏線】を【ポン置き】では【期待】も何もしようがありませんから、【期待】を煽るよう【魅せ方】には【工夫】が要ることになります。この点も【予告編】に通じますね。
もちろん、得た【学び】がそっくりそのまま使えるとは限りません。ただ、【学び】が巡り巡って【意外】なところで役立つのもよくある話。この【予告編】に関しては【工夫】や【試行錯誤】が欠かせないところもあり、【通り一遍】の【思考】から【脱却】する【頭の体操】としての【性質】も【期待】できそうです。
もう一つ、これは【作者】の【個性】にもよりますが。
実は【予告編】には、【作者】の【気分】を盛り上げる【効能】も【期待】できます。逆を言えば、【作者自身】が盛り上がれる【予告編】ともなれば、【観客】の【期待】を煽る上でも【有望】でありましょう。もちろん、【独りよがり】には【要警戒】ではありますが。
○まとめ
少なくとも【良質】な【予告編】には、【予備知識ゼロ】の【観客】に対して【期待】を煽る【技術】と【知見】が【豊富】に【投入】されているはずです。
ならば【観客】として【良質】と感じた【予告編】から、【学び】を得にいく【価値】は【相応】にある――と考えることもできそうです。
少なくとも私はそう考えますし、また【広報】にも通ずる【収穫】も少なからず【期待】できそうでもあります。
なので今日も【予告編】に【観察】と【研究】の【価値】を感じている私なのです。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。