166.押す【表現】、引く【理解】(第9回・完結)(2024.07.06)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、このところ『【表現】が【意図】した通りに【理解】されない……』という【お悩み】について【考察】を巡らせております。
「【理解】されたい!」という【願望】は誰しも持つものですが、その一方で「【押し付け】なんてまっぴらご免だ」という【意志】もまた同様でありましょう。
ここで“【無理解】の【意志】”というものの【存在】は明らかですが、同時に『好んで【理解】したくなるもの』が【存在】するのもまた【事実】。
つまり“【理解】の【意志】”の【存在】も明らかですが、これらは元々【別個】の【存在】です。ただし【押し付け】のような“【思考の自由】に対する【侵略】”が“【理解】の【意志】”を削り、同時に“【無理解】の【意志】”を育ててしまうであろうこと、これは【ご理解】いただきやすいものと考えます。
ということは、【観客】に【理解】を求める上では、“【理解】の【意志】”を知らねば始まりません。
あくまでも、“【理解】の【意志】”は“【観客自身】の【自由意志】”によるものです。これを【尊重】せず【押し付け】を試みるなら、【作者】は“【思考の自由】に対する【侵略】”に出たことになり、むしろ“【無理解】の【意志】”を育ててしまうことになります。
ならば【作者】として真っ先に【認識】すべきは、【観客】の【個性】を認め、その【人格】と【思考の自由】を【尊重】すること――ということになりますね。
【自分自身】を振り返ってみるなら、『【興味】や“【理解】の【意志】”が育つという【現象】は、【自由意志】に基づき、【自然発生】的にしか起こらない』という【事実】が見えてきます。
そして【自由意志】は個々人の【個性】と【価値観】にのみ基づいて生じるものです。
ということは、つまり『【興味】や“【理解】の【意志】”は外からは【制御】できない』わけです。よって【作者】や【作品】として【理解】を求めるなら、『【興味】や”【理解】の【意志】”を持ってくれる【観客】のところへ行って、寄り添う』しか【方法】はないことになります。
ここでもし逆の【観客】までも取り込もうとするなら、その時はせっかく【興味】を持ってくれた【観客】から、【興味】も“【理解】の【意志】”も削っていくことになりかねない――というわけですね。
確かに【表現】は、【観客】の【視界】へ押し出さなければ届きません。これ自体は【事実】です。
ただし一方で、『【理解】とは、【観客】の中に予め【存在】する“【理解】の【意志】”から【慎重】に引き出すもの』、これもまた【事実】です。
であれば『【表現】は押し出すもの、【理解】は引き出すもの』と【イメージ】してみれば、腑に落ちるところもありましょう。
つまり【表現】を押し出すこと自体は【必須】ですが、一方で【理解】を引き出すという【繊細】な【作業】のためには、【表現】の押し出し方もまた【繊細】にならざるを得ない――というわけです。
【目的】はあくまで“【理解】を引き出すこと”と捉えれば、自ずと【優先順位】は定まるというものですね。
【観客】へ向けて【表現】を押し出すに、その【力】は弱く済ませるに越したことはありません。
ただ一方で、私が【観客】として上手く【理解】を引き出された【表現】があることも確かです。
少なくともその一例は“【現実】そのものの一部”です。
これなら【観客】も【理解】を【拒否】できない【存在感】を備えていますし、【作者】としても押し出す【力】をあまり込めずに済みます。もちろん“【現実】そのもの”では【表現】としての扱いに【難】を抱えますから、【表現】の【形】としては“【現実】の【シミュレーション】”というところが挙げられそうです。
押し出す【力】を極力込めない【表現】の【形】を、私は“【現実】の【シミュレーション】”と【ご紹介】しました。【シミュレーション】としたのは、主として『そこに【作者】の【演出意図】があるから』です。
もちろん【観客】から直接観える【表現】としては、【現実】の見え方に極力近い【現象】を【配置】します。ただしこれら一連の【現象】を【シーン】という【小物語】として観るとき、そこには【小テーマ】が、【事実】や【事実関係】の【形】に【翻訳】されて込められている――というわけですね。
さらにこの【シーン】を、【作者】が【客観】に徹して描くとき、“【表層】の【表現】”の観え方は『【現場】の【現象】と【事実】を(【演出】を込めつつも)【客観的】に示す』という、【現実】の【実況】に近い【形式】になります。こうなれば、【作者】から【表現】を押し出す【力】は【最小限】にまで抑えられることになります。
もちろん「もっと【理解】を引き出したい!」という【作者】の【心理】もありましょう。ただ、私はそこに【難しさ】の【存在】を【予測】もします。
この【難しさ】について、前回は【考察】してみました。
『【観客】の【理解】を引き出す』という【課題】は、常に“【思考の自由】の【尊重】”という【命題】と隣り合わせです。【作者】がそこへ【作為】を持ち込むに、【観客】の【思考の自由】を軽んじたなら、さてどうでしょう。その時は翻って【作者自身】の【思考の自由】や【表現意図】が、【観客】から軽んじられる【結果】を招きます。これは【解説】一つ取っても同じです。
なので私がお勧めするのは『【作者】は【客観】に徹する』というもの。【解説】にしても【客観】かつ【最小限】に徹し、【主観表現】は【登場人物】に任せる――というものですね。
するともちろん、【観客】の【誤解】というものに対する【向き合い方】を考えることになります。
【誤解】されたくない【心理】はあるとして、されど【誤解】がなくなるわけではありません。これは“【積極的】に【誤解】する【姿勢】”が【存在】することからも明らかです。
これを【力任せ】に【強い表現】でねじ伏せようとすると、今度は“【理解】の【意志】”を持ってくれている【観客】にまで“【思考の自由】に対する【侵略】”を働くことになります。
では――ということで、私としては【選択肢】を【ご提示】することになります。
今回はこれについてお話しすることにしましょう。
◇
○【誤解】と【理解】、【姿勢】の【選別】
ではどうすれば――というところで。私としては【選択肢】を【ご提示】することになります。
【作者】として向き合いたいのは、以下のどちらの【姿勢】でしょうか。
1.“【積極的】に【誤解】する人々”、つまり“【作品】に向き合う気がない【姿勢】”
2.“【作品】を楽しみにきている人々”、つまり“【作品】に向き合ってくれる【姿勢】”
ここで、どちらか一方に向き合うとき、【実質的】にもう一方には向き合わないことになります。
1.に向き合うなら、“【作者】が【保身】を【重視】する【姿勢】”と映ります。
2.に向き合うなら、“【作者】が【作品】を観てくれる【観客】をより重んじ、これに向き合う【姿勢】”と映りますね。
“【保身】を【重視】する【作者】”については、私から申し上げることは何もありません。見捨てられた【観客】と同じく、【残念】な想いを抱えて離れるだけです。
ですが“【作品】を観てくれる【観客】をより重んじて向き合う【作者】”なら、やりようはあるというものです。
その“やりよう”なるものを【言語化】するなら、『【誤解】を【否定】も【正当化】も“しない”』というところ。
これが何かと申せば、『【作者】として、【表現】の【解釈】を【観客】に任せる』という【姿勢】を取る――ということです。
では、これで何が起こるか。
まず“【作品】に向き合ってくれる【観客】”については、『(【作者】の【実力】に応じて)【表現意図】を拾ってくれる』ことになります。
一方で“【積極的】に【誤解】する人々”の【解釈】は、【破綻】しやすくなります。
これ自体は何ら【特殊】なことはないのですが、【大事】なのはここからです。
【作者】として、【相手】の【解釈】を【肯定】も【否定】もしない――ということにすれば、さてどうでしょう。【結果】としては、『“【表現意図】を拾ってくれる【観客】”だけが残る』ということになります。
“【積極的】に【誤解】する人々”は、実は【作者】が何をやろうと【文句】を垂れるものです。なので【実質的】なところ、この【部分】の【ダメージ】に違いはありません。要は『どんな【表現】を用いようと、【一定量】の【ノイズ】は聞こえてくる』ということですね。
ただし、違うのはここからです。
【ノイズ】を【無視】さえすれば、“【表現意図】を拾ってくれる【観客】”の声と数は【最大化】するのです。なぜなら【相手】の【心理】や【解釈】、ひいては【人格】を【尊重】することになるからですが、言い方を変えると『“(【押し付け】がましい)【表現】に【嫌気】が差して離れる【観客】”の数が【最小化】するから』ということになります。
この場合、【追加】で得られる【収穫】があります。
何かと申せば、『“【積極的】に【誤解】する人々”というのは、【表現】を正しく【読解】できないだけ』という【認識】が、“【表現意図】を拾ってくれる【観客】”の数に【比例】して【最大化】するのです。これはつまり『“【表現】に対する【支持】”が【最大化】する』ことを【意味】します。
ここまでの【考察】を振り返ってみると、さてどうでしょう。
【作者】として向き合うに【救い】が多いのは、“【作品】に向き合ってくれる【観客】”ということになるのではありますまいか。
逆に“【積極的】に【誤解】する人々”を向けば向くほど、【作者】の【姿勢】はどうあれ【誤解】は減るはずもなく、また【観客】の【定着】も望めないわけで、つまり【観客離れ】は進む一方です。『誰も【思考】を【押し付け】られたいわけではない』、というのは【作者】も【観客】も同じこと、要するに『【思考の自由】を【侵略】されたくない』わけですから。
ならば【観客】の【思考の自由】を【最大限】に【尊重】して、“【作品】や【表現】を観てくれる【観客】”や、“【表現意図】を拾ってくれる【観客】”にこそ向き合えばいい話。
その一環として【観客】の【思考の自由】を【最大限】に【尊重】していけば、“【表現】を押し出す【力】”も自ずと弱くて済むようになります。そうなれば『【理解】されたい【観客】に寄り添う』ことに繋がりますし、よって【観客】の【理解】も引き出しやすく、また【継続的】に“【理解】の【意志】”を育てることにもなりましょう。
ここで【大切】なことの一つに『どんな【個性】の持ち主を【観客】に“しない”かを決めること』がありますが。
これについては『“【積極的】に【誤解】する人々”、つまり“【作品】に向き合う気がない【姿勢】”の持ち主』を当てはめればよさそうですね。
かくして【表現】の【押し付け】を避け、また【理解】を引き出す上では、“【思考の自由】を【尊重】する【姿勢】”と一種の【開き直り】が【鍵】となるであろう――と【考察】する私なのでありました。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。