165.押す【表現】、引く【理解】(第8回)(2024.06.29)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、このところ『【表現】が【意図】した通りに【理解】されない……』という【お悩み】について【考察】を巡らせております。
「【理解】されたい!」という【願望】は誰しも持つものですが、その一方で「【押し付け】なんてまっぴらご免だ」という【意志】もまた同様でありましょう。
ここで“【無理解】の【意志】”というものの【存在】は明らかですが、同時に『好んで【理解】したくなるもの』が【存在】するのもまた【事実】。
つまり“【理解】の【意志】”の【存在】も明らかですが、これらは元々【別個】の【存在】です。ただし【押し付け】のような“【思考の自由】に対する【侵略】”が“【理解】の【意志】”を削り、同時に“【無理解】の【意志】”を育ててしまうであろうこと、これは【ご理解】いただきやすいものと考えます。
ということは、【観客】に【理解】を求める上では、“【理解】の【意志】”を知らねば始まりません。
あくまでも、“【理解】の【意志】”は“【観客自身】の【自由意志】”によるものです。これを【尊重】せず【押し付け】を試みるなら、【作者】は“【思考の自由】に対する【侵略】”に出たことになり、むしろ“【無理解】の【意志】”を育ててしまうことになります。
ならば【作者】として真っ先に【認識】すべきは、【観客】の【個性】を認め、その【人格】と【思考の自由】を【尊重】すること――ということになりますね。
【自分自身】を振り返ってみるなら、『【興味】や“【理解】の【意志】”が育つという【現象】は、【自由意志】に基づき、【自然発生】的にしか起こらない』という【事実】が見えてきます。
そして【自由意志】は個々人の【個性】と【価値観】にのみ基づいて生じるものです。
ということは、つまり『【興味】や“【理解】の【意志】”は外からは【制御】できない』わけです。よって【作者】や【作品】として【理解】を求めるなら、『【興味】や”【理解】の【意志】”を持ってくれる【観客】のところへ行って、寄り添う』しか【方法】はないことになります。
ここでもし逆の【観客】までも取り込もうとするなら、その時はせっかく【興味】を持ってくれた【観客】から、【興味】も“【理解】の【意志】”も削っていくことになりかねない――というわけですね。
確かに【表現】は、【観客】の【視界】へ押し出さなければ届きません。これ自体は【事実】です。
ただし一方で、『【理解】とは、【観客】の中に予め【存在】する“【理解】の【意志】”から【慎重】に引き出すもの』、これもまた【事実】です。
であれば『【表現】は押し出すもの、【理解】は引き出すもの』と【イメージ】してみれば、腑に落ちるところもありましょう。
つまり【表現】を押し出すこと自体は【必須】ですが、一方で【理解】を引き出すという【繊細】な【作業】のためには、【表現】の押し出し方もまた【繊細】にならざるを得ない――というわけです。
【目的】はあくまで“【理解】を引き出すこと”と捉えれば、自ずと【優先順位】は定まるというものですね。
【観客】へ向けて【表現】を押し出すに、その【力】は弱く済ませるに越したことはありません。
ただ一方で、私が【観客】として上手く【理解】を引き出された【表現】があることも確かです。
少なくともその一例は“【現実】そのものの一部”です。
これなら【観客】も【理解】を【拒否】できない【存在感】を備えていますし、【作者】としても押し出す【力】をあまり込めずに済みます。もちろん“【現実】そのもの”では【表現】としての扱いに【難】を抱えますから、【表現】の【形】としては“【現実】の【シミュレーション】”というところが挙げられそうです。
押し出す【力】を極力込めない【表現】の【形】を、私は“【現実】の【シミュレーション】”と【ご紹介】しました。【シミュレーション】としたのは、主として『【現実】そのままではなく、そこに【作者】の【演出意図】があるから』です。
もちろん【観客】から直接観える【表現】としては、【現実】の見え方に極力近い【現象】を【配置】します。ただしこれら一連の【現象】を【シーン】という【小物語】として観るとき、そこには【小テーマ】が、【事実】や【事実関係】の【形】に【翻訳】されて込められている――というわけですね。
さらにこの【シーン】を、【作者】が【客観】に徹して描くとき、“【表層】の【表現】”の観え方は『【現場】の【現象】と【事実】を(【演出】を込めつつも)【客観的】に示す』という、【現実】の【実況】に近い【形式】になります。こうなれば、【作者】から【表現】を押し出す【力】は【最小限】にまで抑えられることになります。
もちろん「もっと【理解】を引き出したい!」という【作者】の【心理】もありましょう。ただ、私はそこに【難しさ】の【存在】を【予測】もします。
この【難しさ】について、前回は【考察】してみました。
『【観客】の【理解】を引き出す』という【課題】は、常に“【思考の自由】の【尊重】”という【命題】と隣り合わせです。【作者】がそこに【作為】を持ち込むに、【観客】の【思考の自由】を軽んじたなら、さてどうでしょう。その時は翻って【作者自身】の【思考の自由】や【表現意図】が、【観客】から軽んじられる【結果】を招きます。これは【解説】一つ取っても同じです。
なので私がお勧めするのは『【作者】は【客観】に徹する』というもの。【解説】にしても【客観】かつ【最小限】に徹し、【主観表現】は【登場人物】に任せる――というものですね。
するともちろん、【観客】の【誤解】というものに対する【向き合い方】を考えることになります。
今回はこれについて考えてみましょう。
◇
○「【誤解】されたくない!」という【心理】
ここで、念を押しておきたいことがあります。
私は、【意図】せぬ【誤解】を【歓迎】するわけではありません。ただ『【誤解】を【最小化】するための【大前提】として、そもそも【誤解】の【存在】自体は【肯定】せねば始まらない』と【経験】から思い知っただけのことです。
というわけで。
私の知る限り、【誤解】そのものを完全に避ける【方法】はありません。これは【個性】に基づく【価値観】や【考え方】の違いに端を発する【現象】なわけです。が、さらに加えて『【自分】の【都合】に合わせて“【積極的】に【誤解】する【姿勢】”の持ち主』が【存在】することまで考え合わせれば、【誤解】の【存在】自体が【不可避】なのは【明白】というものでありましょう。
ここで“【積極的】に【誤解】する【姿勢】”、その持ち主について、少し掘り下げます。
実はこの場合、【相手】の【自由意志】は『【積極的】に【誤解】すること』です。言い換えれば【強烈】な“【無理解】の【意志】”がそこにあるわけです。そして【教訓】として『【他人】の【思考】を思い通りに操ろうとしてはならない』と掲げる以上、【誤解】を解こうとすること自体に【無理】が生じるというものです。実際のところ『【相手】は【積極的】に【誤解】したい』わけですから、いくら【強い表現】を持ち出したところで『思い通りにできるはずなどない』のです。
実は、話はここで終わりません。
“【積極的】に【誤解】する【姿勢】”を【強い表現】でねじ伏せようとすると、【巨大】な【弊害】を招いてしまいます。
何かと申せば、そこには往々にして“【作品】を楽しみにきている【観客】”が【存在】しているのです。こと【作者】が「【作品】について【誤解】されたくない!」という【姿勢】を持っている場合、【作品】にも普段の【言動】にも「こう思って!」という【強い表現】が溢れることになります。こと【作品】やSNSへの【発信】は、【不特定多数】へ向けての【表現】ですから【観客】の【個性】には【対応】できず、【一律】にならざるを得ません。
すると、何が起こるか。
“【作品】を楽しみにきている【観客】”が、この【強い表現】の、もっと申せば「こう思って!」という“【作者】が【相手】の【思考】をねじ伏せようとする【姿勢】”の、とばっちりを受けるのです。
ここで【作者】が「(【他人】の身である【作者】から)【思考】を思い通りに操ろうとされて、【不快】になるな」というのは、【不誠実】な【要求】です。当の【作者】にしてからが、“【積極的】に【誤解】する【姿勢】”に対して、『【自分】の【思考】を【理解】されずに【不快】になっている』わけですから。
それでいて『【観客】が抱く「【自分】の【思考】を思い通りに操ろうとしてほしくない」という【思考】と、それを【無視】される【不快感】を、【作者】は【理解】しようとしない』となれば、さてどうでしょう。【要約】するなら『【他人】の【心理】など【理解】しない。【自分】の【心理】だけ【理解】しろ』というわけで、これは“【一方的】に【自分】の【都合】だけを【押し付け】る【不誠実】”そのもの、これでは嫌われたところで【文句】を言える【筋合い】はありませんね。
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さて、今回は一旦ここまで。
【誤解】されたくない【心理】はあるとして、されど【誤解】がなくなるわけではありません。これは“【積極的】に【誤解】する【姿勢】”が【存在】することからも明らかです。
これを【力任せ】に【強い表現】でねじ伏せようとすると、今度は“【理解】の【意志】”を持ってくれている【観客】にまで“【思考の自由】に対する【侵略】”を働くことになります。
では――ということで、私としては【選択肢】を【ご提示】することになります。
これについては、次回お話しすることにしましょう。
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さて今週は、小説発掘VTuber・夜見ベルノ様のチャンネルにお邪魔して、トーク配信を行います。
今回はお題を『【創作論】の【牢】と【塔】』としてお送りします。
よろしくお付き合いのほどを。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。