164.押す【表現】、引く【理解】(第7回)(2024.06.22)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、このところ『【表現】が【意図】した通りに【理解】されない……』という【お悩み】について【考察】を巡らせております。
「【理解】されたい!」という【願望】は誰しも持つものですが、その一方で「【押し付け】なんてまっぴらご免だ」という【意志】もまた同様でありましょう。
ここで“【無理解】の【意志】”というものの【存在】は明らかですが、同時に『好んで【理解】したくなるもの』が【存在】するのもまた【事実】。
つまり“【理解】の【意志】”の【存在】も明らかですが、これらは元々【別個】の【存在】です。ただし【押し付け】のような“【思考の自由】に対する【侵略】”が“【理解】の【意志】”を削り、同時に“【無理解】の【意志】”を育ててしまうであろうこと、これは【ご理解】いただきやすいものと考えます。
ということは、【観客】に【理解】を求める上では、“【理解】の【意志】”を知らねば始まりません。
あくまでも、“【理解】の【意志】”は“【観客自身】の【自由意志】”によるものです。これを【尊重】せず【押し付け】を試みるなら、【作者】は“【思考の自由】に対する【侵略】”に出たことになり、むしろ“【無理解】の【意志】”を育ててしまうことになります。
ならば【作者】として真っ先に【認識】すべきは、【観客】の【個性】を認め、その【人格】と【思考の自由】を【尊重】すること――ということになりますね。
【自分自身】を振り返ってみるなら、『【興味】や“【理解】の【意志】”が育つという【現象】は、【自由意志】に基づき、【自然発生】的にしか起こらない』という【事実】が見えてきます。
そして【自由意志】は個々人の【個性】と【価値観】にのみ基づいて生じるものです。
ということは、つまり『【興味】や“【理解】の【意志】”は外からは【制御】できない』わけです。よって【作者】や【作品】として【理解】を求めるなら、『【興味】や”【理解】の【意志】”を持ってくれる【観客】のところへ行って、寄り添う』しか【方法】はないことになります。
ここでもし逆の【観客】までも取り込もうとするなら、その時はせっかく【興味】を持ってくれた【観客】から、【興味】も“【理解】の【意志】”も削っていくことになりかねない――というわけですね。
確かに【表現】は、【観客】の【視界】へ押し出さなければ届きません。これ自体は【事実】です。
ただし一方で、『【理解】とは、【観客】の中に予め【存在】する“【理解】の【意志】”から【慎重】に引き出すもの』、これもまた【事実】です。
であれば『【表現】は押し出すもの、【理解】は引き出すもの』と【イメージ】してみれば、腑に落ちるところもありましょう。
つまり【表現】を押し出すこと自体は【必須】ですが、一方で【理解】を引き出すという【繊細】な【作業】のためには、【表現】の押し出し方もまた【繊細】にならざるを得ない――というわけです。
【目的】はあくまで“【理解】を引き出すこと”と捉えれば、自ずと【優先順位】は定まるというものですね。
【観客】へ向けて【表現】を押し出すに、その【力】は弱く済ませるに越したことはありません。
ただ一方で、私が【観客】として上手く【理解】を引き出された【表現】があることも確かです。
少なくともその一例は“【現実】そのものの一部を用いた【表現】”です。
これなら【観客】も【理解】を【拒否】できない【存在感】を備えていますし、【作者】としても押し出す【力】をあまり込めずに済みます。もちろん“【現実】そのもの”では【表現】としての扱いに【難】を抱えますから、【表現】の【形】としては“【現実】の【シミュレーション】”というところが挙げられそうです。
前回はこの“【現実】の【シミュレーション】”という【表現】の【形】について掘り下げてみました。
押し出す【力】を極力込めない【表現】の【形】を、私は“【現実】の【シミュレーション】”と【ご紹介】しました。【シミュレーション】としたのは、主として『そこに【作者】の【演出意図】があるから』です。
もちろん【観客】から直接観える【表現】としては、【現実】の見え方に極力近い【現象】を【配置】します。ただしこれら一連の【現象】を【シーン】という【小物語】として観るとき、そこには【小テーマ】が、【事実】や【事実関係】の【形】に【翻訳】されて込められている――というわけですね。
さらにこの【シーン】を、【作者】が【客観】に徹して描くとき、“【表層】の【表現】”の観え方は『【現場】の【現象】と【事実】を(【演出】を込めつつも)【客観的】に示す』という、【現実】の【実況】に近い【形式】になります。こうなれば、【作者】から【表現】を押し出す【力】は【最小限】にまで抑えられることになります。
もちろん「もっと【理解】を引き出したい!」という【作者】の【心理】もありましょう。ただ、私はそこに【難しさ】の【存在】を【予測】もします。
この【難しさ】について、今回はお話しいたしましょう。
◇
○【観客】の【理解】を【補助】する【難しさ】
ここで、私としても【予想】する【反応】があります。
・【作者】「【観客】の【理解】を黙って待つような、そんな【余裕】なんてない! 【観客】の【理解】をもっと引き出したい!」
【作者】の【立場】としては『【作品】を【可能】な限り広めたい』わけでしょうから、この【作者】の【心理】を【理解】できない、とは私も申しません。
ただし『【観客】の【心理】に、【作者】が自ら【作為】をもって働きかける』というのは、相応の【リスク】を帯びることも忘れることはできません。
何せ人の【心理】というものは、自ら【自然】に抱いた【心理】だからこそ【最大限】に受け入れられるものです。一方で『【赤の他人】に【心理】を操られること』は、即ち“【思考の自由】に対する【侵略】”です。【侵略】を受けて喜ぶ人は、【皆無】ではないにしろ【極少数派】でありましょう。
もし【作者】が“【思考の自由】に対する【侵略】”を受けて喜ぶ人なら、そもそも自らの【自由意志】を重んじる【理由】がありません。であれば「【観客】の【理解】をもっと引き出したい!」という【作者自身】の【自由意志】など、【観客】の【自由意志】より重んじる【道理】はありません。
逆に、【作者】が“【思考の自由】に対する【侵略】”を受けて喜ばない人であれば、それでいて【他人】の“【思考の自由】に対する【侵略】”を【正当化】できる【理由】は【存在】しません。【正当化】できない望みを【押し付ける】なら、それは【不誠実】な行いであって、【拒否】されるのが【道理】というものです。
そう前置きした上で、『【表現】の【表層部分】に【解説】を置く』という手はあるにはあります。
ただし、『【解説】という【口実】さえ付ければ何をやってもいい』などということはありません。
実際、【解説】と聞いて“【表現意図】の【中核】をポン置きする【直接表現】”を思い浮かべる方も多いと思いますが。これは【現実】との【乖離】が大きく、ましてや【作者】が「こう思って!」とする【直接表現】となればなおのこと。
これらは【観客】の【価値観】において“【思考の自由】に対する【侵略】”に【抵触】してしまう【危険】を【内包】します。“【観客】が【表現】を【理解】する【過程】”に【作者】の【作為】を混ぜ込む【行為】ですから。
その点での【安全】を考えるなら、『【作品世界】に【存在】する“【主観】の主”』、つまり【登場人物】の【主観表現】である【言動】を【利用】するのが手ではあります。上手く描けば【登場人物】は一個の確たる【人格】となりますし、【観客】としても【相手】が【人格】なら確たる【主観】を持っていて【不自然】はありませんから。
ただし【必然的】に、これは“広義の【芝居】”を描くことを【意味】します。【表現】には【人格】のみならずその【背景】についての【間接表現】をも【内包】することになりますので、もちろん【技術的】に【容易】とは限りません。
ただ、【技術的】にやりようはある――ということです。
なので【解説】はそれ自体が【リスク】を負うものと【覚悟】して、【最小限】、かつ【事実関係】の【補足】に留める――という用い方をお勧めしたいところです。
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さて、今回は一旦ここまで。
『【観客】の【理解】を引き出す』という【課題】は、常に“【思考の自由】の【尊重】”という【命題】と隣り合わせです。【作者】がそこに【作為】を持ち込むに、【観客】の【思考の自由】を軽んじたなら、さてどうでしょう。その時は【作者自身】の【思考の自由】や【表現意図】が【観客】から軽んじられる【結果】を招きます。これは【解説】一つ取っても同じです。
なので私がお勧めするのは『【作者】は【客観】に徹する』というもの。【解説】にしても【客観】かつ【最小限】に徹し、【主観表現】は【登場人物】に任せる――というものですね。
するともちろん、【観客】の【誤解】というものに対する【向き合い方】を考えることになります。
次回はこれについて考えてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。