160.押す【表現】、引く【理解】(第3回)(2024.05.25)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、このところ『【表現】が【意図】した通りに【理解】されない……』という【お悩み】について【考察】を巡らせております。
「【理解】されたい!」という【願望】は誰しも持つものですが、同時に「【押し付け】なんてまっぴらご免だ」という【意志】もまた同様でありましょう。
ここで“【無理解】の【意志】”というものの【存在】は明らかですが、同時に『好んで【理解】したくなるもの』が【存在】するのもまた【事実】。つまり“【理解】の【意志】”の【存在】も明らかですが、これらは元々【別個】の【存在】です。ただし【押し付け】のような“【思考の自由】に対する【侵略】”が“【理解】の【意志】”を削り、同時に“【無理解】の【意志】”を育ててしまうであろうこと、これは【ご理解】いただきやすいものと考えます。
こういった【存在】を受けて、前回は【創作】で、『【表現】、ひいては【作品】に【理解】を求めるには』という【命題】に【考察】を巡らせてみました。
【観客】に【理解】を求める上では、“【理解】の【意志】”を知らねば始まりません。
あくまでも、“【理解】の【意志】”は“【観客自身】の【自由意志】”によるものです。これを【尊重】せず【押し付け】を試みるなら、【作者】は“【思考の自由】に対する【侵略】”に出たことになり、むしろ“【無理解】の【意志】”を育ててしまうことになります。
ならば【作者】として真っ先に【認識】すべきは、【観客】の【個性】を認め、その【人格】と【思考の自由】を【尊重】すること――ということになりますね。
その上で、今回は“【理解】の【意志】”が育つ【条件】を【考察】してみましょう。
◇
○“【理解】の【意志】”が育つには
と、ここで。
“【理解】の【意志】”が育つこと自体は、あり得るものです。これは『【自分】の【興味】が育った【経験】』を持っていれば【納得】しやすいものと【推察】します。
ただし【要注意】。【作者】の立場で「なら【観客】の“【理解】の【意志】”を育てればいいじゃないか!」と考えたとしたら、それはむしろ【危険】な【方向性】です。
よくよく思い返してみて下さい。
【興味】や“【理解】の【意志】”は、果たして『【他人】から“【思考の自由】を【侵略】された【結果】”、つまり【押し付け】として植え付けられたもの』だったでしょうか。
例えば「【趣味】なんて下らん。そんな暇があったら【勉強】しろ!」と親御さんから口うるさく【勉強】を【強要】されていた人がいると【仮定】しましょう。その人が【勉強】を好きになることは、果たしてあるでしょうか。あるいはそのような内容の【説教】を何時間となくぶっ通しで浴びせられて、それで【勉強】を好きになることは、本当にあるでしょうか。
少なくとも私の【経験】に照らす限り、そのような【押し付け】で【勉強】を好きになった【事例】は見かけたことがありません。むしろ逆に嫌いになった【事例】ばかりが思い浮かびます。
ここで親御さんが【実行】しているのは、“【理解】の【意志】”を削りに削り、“【無理解】の【意志】”を野放図に育てる、つまりは“【思考の自由】に対する【侵略】”ではないでしょうか。
要は「【相手】の“【理解】の【意志】”を思い通りに育てよう!」という、【押し付け】と“【思考の自由】に対する【侵略】”は、見事なほど【裏目】に出る――と、そういうことになるわけです。
そこで、一歩引いて振り返ってみましょう。【自分自身】が物事に【興味】を持った【経験】についてです。この世で覗ける【心理】は【自分自身】のものだけですから。
これは【趣味】も【勉強】も同じですが、【興味】にしても“【理解】の【意志】”にしても、それはあくまで【自然発生】的に育ったか、あるいは【自分】で育てたりしたものではなかったでしょうか。
つまり、“【理解】の【意志】”が生まれることも、育つこともあり得ます。ただしそれは【当人自身】の【自由意志】によって、【自然発生】的にしか起こりません。
【自由意志】によって、であるからには。
“【理解】の【意志】”が何によって生まれ育つか、そもそもどこを向いているのか、それは【当人】の【個性】とその【価値観】に基づくものです。よって【観客】個人個人の【個性】と【価値観】に合うところにしか、【観客】の“【理解】の【意志】”は芽生えない――ということになります。
つまり『“【理解】の【意志】”は【他人】から【制御】できるものではない』わけです。
となれば、【作者】や【作品】としては『“【理解】の【意志】”を持ってくれる【観客】の近くへいって、寄り添う』というのが、【理解】を求める上では【最短ルート】ということになりますね。
であるなら、です。
【見方】を変えれば、『どんな【個性】の持ち主を【観客】に“しない”かを決めることが、【理解】されたい【観客】に寄り添う【下準備】に繋がる』ということでもあります。
本来寄り添うべき【観客】の“【理解】の【意志】”に反するものを【提示】してしまったり、【理解】を【強要】したりというのは、“【理解】の【意志】”を削って“【無理解】の【意志】”を育てる【行為】ですから。
なので「誰彼構わず見境なしに【観客】にしよう!」という【作者】の【姿勢】は、【見方】を変えれば『【観客】の“【理解】の【意志】”を蔑ろにし、寄り添おうとしない【姿勢】』になってしまいかねない、というわけですね。
【作者】や【作品】として【理解】を得ようとする上では、あくまでも“【理解】を求めたい【観客】に寄り添う【姿勢】”、これが【必須】ということになります。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
【自分自身】を振り返ってみるなら、『【興味】や“【理解】の【意志】”が育つという【現象】は、【自由意志】に基づき、【自然発生】的にしか起こらない』という【事実】が見えてきます。
そして【自由意志】は個々人の【個性】と【価値観】にのみ基づいて生じます。
ということは、つまり『【興味】や“【理解】の【意志】”は【制御】できない』わけです。よって【作者】や【作品】として【理解】を求めるなら、『【興味】や”【理解】の【意志】”を持ってくれる【観客】のところへ行って、寄り添う』しか【方法】はないわけです。
もし逆の【観客】までも取り込もうとするなら、その時はせっかく【興味】を持ってくれた【観客】から、【興味】も“【理解】の【意志】”も削っていくことになりかねない――というわけですね。
次回はこれら【事実】を元に、【理解】と【表現】の【関係】に【考察】を巡らせてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。