156.【自己満足】と【シラケ性】(第8回)(2024.04.20)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、ここのところ以下のような【心の声】について考えております。
『それって単なる【自己満足】じゃない?』
この【心の声】、私は【シラケ性】と称しております。要は『何事に対してもノレない、醒めた【心理】』というところ。【自己満足】とともに、【ニュアンス】としては必ずしもいい【印象】と結び付いてはおりません。
ですが、【絶対悪】というわけでもありません。さらには【作者】としての【自分】の【心理】に湧き上がってくるものでもあります。
ならば、ものは使いよう。
実は【シラケ性】は、【自分自身】を【俯瞰】、【検証】する役に立てることが【可能】です。また【自己満足】は【他者満足】と【両立】させて【Win-Win】に持ち込めばいい話。
つまり接し方次第、やり方次第というわけですね。
【自分】の【シラケ性】と向き合うには、【反論】を用意するのが大変【有効】です。ただし、【反論】自体は【論理】でかつ【厳選】するのが望ましいところです。
実は【安易】や【短絡】で【ゴリ押し】に走る、“【好評価】を【観客】から【強奪】する【姿勢】”は、【逆】に【自分】と【観客】の【シラケ性】を【誘発】する【結果】を招きますので。
ここで【他者満足】も含め、“【シラケ性】に対する【反論】”として【必要】なのは“【観客】を【人格】として【尊重】する【姿勢】”です。【人格】を【尊重】されずして【満足】は生まれませんから。
その上で。
【現実】において【他人】の【心理】をどう感じ取るか――と考えてみれば、実は『【他人】の【情動】は、【論理的事実群】やその【流れ】から、その【背景】として読み取るしかない』と判ります。
つまり【現実】を模する形であれば、『【論理】を用いた【間接表現】として【情動】を表すことは【可能】』なわけです。
実は【現実】でも、“【筋書き】のない【ドラマ】”が見出される【傾向】というものが【存在】します。
ここでは“【現実】という【論理的事実群】から【ドラマ】という【情動】の源を読み取る【現象】”が起きているわけですが、つまりこれは『【観客】の多くが“【論理的事実群】から【情動】を【デコード(復号)】する【能力】”を持っている』ということを【意味】するわけです。ならば【文章表現】という【論理的事実群】にもこの【デコード(復号)】の【能力】は働き得るわけで、【作者】としてもこの【能力】は、大いに磨いて【研究】もする【価値】のあるもの、ということになりますね。
というところで、前回はここから【シラケ性】へと踏み込んでお【考察】を巡らせてみました。
【シラケ性】を【観客】の【立場】から【観察】してみれば、そこに見えてくるものがあるわけです。『【作者】に【都合】よく操られる』、特に『【没入】やそのための【労】を【作者】に【搾取】される』という【負】の【経験】や【警戒】がそれですね。
であれば、【作者】としても【シラケ性】を【回避】するためにやるべきことが見えてきそうです。
今回はこの辺りについて、お話ししてみましょう。
◇
○【考察】:【シラケ性】の【リスク】とその【反論】
先述の【内容】を言い換えてみましょう。『【観客】に(【作者】と一緒になって)【没入】してもらう上で、“【嘘】の大きさや多さ”は、【観客】にとって「【馬鹿馬鹿しい】、【恥】だ」という【心理】に【直面】させられ得る【リスク】そのもの』というわけです。『【観客】に【シラケ性】を招く【リスク】』と【表現】してもいいでしょう。
であるならば、言えることがあります。
・【観客】に『「【馬鹿馬鹿しい】、【恥】だ」という【心理】に【直面】する【リスク】が【許容範囲内】』、と【判断】してもらう上では、【作者】は“【リスク】を【最小化】する【労】”を惜しむべきではない
この“【リスク】を【最小化】する【労】”には2つの【内容】が含まれます。
1.【観客】に対して、“【作品】に【期待】する【Joy】”を【最大化】すること
2.【観客】に対して、“【嘘】の大きさや多さ”を【最小化】すること
なぜならもちろん、この2つが『【観客】にとって見合わない【場合】』に、【シラケ性】が【表面化】するからです。
ただし同時に、この2つの【許容範囲】や【重み】は【観客】の【個性】や【価値観】に応じて異なります。
つまり“【設定】という【大嘘】”という“【物語】の【根幹】”にしてからが、言い換えると“【必要最小限】の【嘘】”さえもが、【観客】の【個性】や【価値観】によっては『【リスク】の【許容範囲】を超える』という【事態】に陥るわけです。
となれば、なおのこと『“【必要最小限】以外の【嘘】”は、“【観客】の【シラケ性】にいつ【直結】するか解らない【地雷】”でしかない』ことになります。
“【設定】という【大嘘】”の、しかも【必要最小限】に収まらない【嘘】――いわゆる【小さな嘘】は、この【理屈】からして【地雷】そのもの――というわけです。
ただ、“【設定】という【大嘘】”に関しては【救い】があります。
なぜなら“【物語】の【根幹】”であるだけに、『【作品】の【ウリ要素】として、【観客】へ【事前】に【周知】を図れる』からです。つまり『【作品】を観に来てくれる【観客】の【大部分】は、“【設定】という【大嘘】”を【承知】の上で【作品】を楽しみにきてくれている』というわけですね。
ただし【小さな嘘】はこの限りではありません。“【設定】という【大嘘】”と【現実】の【事実関係】とを加味した“【作品世界】の【整合性】”に反していれば、それはそのまま【地雷】になる【危険】をはらむ――ということになります。
そして【要注意】。【地雷】は、これだけではありません。
この【場合】、【地雷】になり得る【嘘】には『【現実離れ】したもの【全般】』が【該当】します。
となれば『【作者】が「こう思って!」とあからさまに持ち込む【主観】』もまた【現実離れ】しているわけですから、これもまた【地雷】ということになりますね。【現実】は“【作者】の【主観】”に甘くはない――というわけです。
以上の【事実】を【肯定形】に【翻訳】してみれば、以下の2点が観えてくることになります。
・【物語】の【表層】は、(“【設定】という【大嘘】”を踏まえた上で)【可能】な限り【現実】に則している(ように【シミュレート】されている)ほど【シラケ性】を【抑制】しやすい(ただし【絶対】ではない)
・【表現】は、【客観】に徹しているほど(『“【作者】の【主観】”が入らないこと』も含め)【観客】には“【現実】の見え方”に近く映りやすく、従って【シラケ性】を【抑制】しやすい(ただし【絶対】ではない)
そう考えてみると、観えてくる【事実】があります。
・『“【表層】の【表現】”ほど【現実】にある【事実関係】を踏まえ、かつ“【作者】の【主観】”を排して【客観】に徹する【姿勢】』が持つ【意義】は、極めて大きい
私の【認識】するところ、この“【現実】にある【事実関係】を踏まえた【表現】”こそが“【シラケ性】に対する【論理的】な【反論】”というわけです。そして同時に、これは“【他者満足】を【尊重】する【姿勢】”でもあります。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
『【観客】に【シラケ性】を招く【リスク】』というものを【最小化】しようとするなら、少なくとも『“【必要最小限】以外の【嘘】”は、“【観客】の【シラケ性】にいつ【直結】するか解らない【地雷】”でしかない』ことになります。
ここで“【設定】という【大嘘】”に限っては、『【作品】の【ウリ要素】として、【観客】は【観賞時点】に【承知】してくれている』ことになります。
ですがいわゆる【小さな嘘】や、【現実世界】に【存在】しない“【作者】の【主観】“はこの限りではありません。
ならば『“【表層】の【表現】”ほど【現実】にある【事実関係】を踏まえ、かつ“【作者】の【主観】”を排して【客観】に徹する【姿勢】』が持つ【意義】は、極めて大きい――と言えそうです。
では【作者】として【やりたいこと】はどうするか。この点については、次回に【考察】を巡らせてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。