010-2.“無駄”上等(2017.09.24):コメント編
こちらでは、活動報告でかわさせていただいたコメントをご紹介します。
皆様も思うところが大いにおありのようですね。
◇◇◇
【コメント】
深いですね。
無駄ですか、価値観の不一致しかり、使いすぎしかり、色んな言葉に使われる言葉であり、心を砕くのにこれ程使いやすい言葉で力をもつ物は限られますね。
無駄は無駄と感じた者の価値観でありこの世に本当の無駄は存在しない。
存在するのは誤った扱い方と消費である。
などと考えております。
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コメントありがとうございます(嬉)!
そう、本当の“無駄”はこの世に存在しないのです。
“存在するのは誤った扱い方と消費”のお言葉、頷かされるものがあります。
“無駄”を連発する根源にあるのは“硬直した価値観”ではないかと、私などは考えております。まあこれも多様性(≒個性)の一形態なので存在そのものは否定しませんが。
「ふ~ん、ま、それじゃ長生きできないだろうけどね。せいぜい頑張りな」くらいに鼻息一つで聞き流してやるのがよろしいかと。
真によろしくないのは“価値観の押し付け”ですね。「“無駄と感じる価値観”をこっちに押し付けるな!」と、これには怒ってよろしいかと愚行します次第。
ただし。
“誤った扱い方”それ自体も一概に“無駄”とは限らないのですね。“大元の思想を外れた使い方”というのは、意外な発見に繋がる可能性をも秘めているているからです。つまりは“コロンブスの卵”的な使い方を模索すること自体は、頭の体操として間違いではないと私は愚行しているわけですね。
昔の公園でよく見られた、“半分壊れた遊具に工夫を凝らして遊ぶ子供の姿”、あれは発想の原点だと考えるわけなのですよ。
興味深い視点をご提供していただきましてありがとうございますm(_ _)m!
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【コメント】
『 ――人生万事塞翁が馬。
早い話、長い人生においては何が役に立つか判らないという話ですね。
人生という長さにまで視野を拡げてみると、“無駄”が本当に無駄かどうか、その場では判断できないことになります。つまりこの時点で“無駄”はすでに無駄ではないのです。』
深いですねー。和尚様の説法の様です。
いや、ほんと、「ありがたやー」の精神でおりますよぉ。
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色々考えることの多い私なのでありました。
私の考察がお役に立てましたなら幸いです。この上楽しんでいただけたなら、これに勝る悦びはありません。
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【コメント】
武術などは銃器や優れた飛翔兵器が存在する現代において無駄の極みだけど、骨や筋肉の構造、急所などの知識、力学、心理、教育、運動などなどたった一発のパンチに対してどれだけの英知が詰まっているのか想像もつかないし、運動力学からの最適解と人体構造等からの最適解の統一もまだ完全にできていると言い難いんだよなぁ……。そもそも運動力学に沿ってなおかつ人体構造的に最も優れた一撃であっても読まれていたら避けられるし、一発入った後に拳痛めましたじゃ話にもならない。また、そんな無駄なものに人生を費やす『ストーリー』は大衆を魅了してやまないのは職人や料理人などに対する敬意に通じるかと。
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武術、実は大規模戦闘の行いにくい現代においてはかえって有用であるようで。
何かというと、市街戦や対テロ戦で展開される近接戦闘(CQB:Closed Quarters Battle)がその舞台に当たるものと愚行します次第。軍隊では特殊部隊(アメリカのグリーン・ベレーやSEALS、イギリスのSASなどなど)などがよく突入戦で近接戦闘を演じておりますね。
何も軍隊に限らずとも、警察ではSWAT(Special Weapons And Tactics)のような強行突入部隊では、やはり近接戦闘を重視します。
そして肉体を含めた武器には、それぞれ適した間合いが存在するものと拝察します。
狭い屋内に突入したなら、長物は取り回しにくさからかえって足を引きます。これはライフルでも同様で、勢い小回りの利く拳銃や短機関銃が台頭することとなりました。
これがさらに狭い室内ともなりますと。
点しか狙えない上に残弾の限られた飛び道具は、むしろ不利にさえ働くことがあると聞きます。この場合は線で攻撃できる刃物や素早く動ける肉体そのものを駆使した近接戦闘が展開されることになります。
士郎正宗先生の作品から引用するに。
「鉛筆一本でも使い方次第で一撃必殺の凶器になるのに」(『アップルシード』)
「必要なのは『絶対確実に殺せる距離まで接敵する能力』よ。射的がしたけりゃ巡航ミサイルでゾウでも撃ちなさい」(『攻殻機動隊』)
ということになります。開けた平原や平坦な道場ならばともかく、入り組んだ市街地や部屋ならば、『絶対確実に殺せる距離まで接敵する能力』を併せ持ちさえすれば、武術は立派な武器たり得るものと愚行します。
まあ、『接敵する技術』は非常に地味(目立ってはいけないので当然)なので華には欠けますが、その過程を程よく折り込みさえすれば、『ストーリィ』もあながち捨てたものではないものかと拝察します。
ちょうどこの辺りを上手く描いた作品としては『サン・カルロの対決』(A.J.クィネル先生)がありますね。特殊部隊の秘密突入作戦をいち早く描いた金字塔かと。寸秒を争う超短期決戦のクライマックスまで粘り強く描かれる心理戦(むしろこちらが主)も見ものです。
……もっとも、この辺を無視しちゃうと“華はあるけどツッコミどころ満載”ということにはなりますが(汗)。
なので、“程よい嘘”を描き続ける“ストーリィ”作家は敬意に値するものと拝察する私なのでした。
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【コメント】
更新が待ち遠しい作品です。愛読書です。
これからも応援してますからね♪
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『私はコレでできている』、ご高覧とご感想、誠にありがとうございますm(_ _)m!
加えて更新を楽しみにしていただけるとなると、これは栄誉の極みとも申せばいいでしょうか。
何より楽しんでいただけて、これに勝る悦びはありません。
ご愛読していただけるとおっしゃっていただけて、とても光栄です。
そして応援、誠にありがとうございますm(_ _)m!
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【コメント】
何が無駄なのか、難しい話ですね。目先の利益とはその通りです。でもそれは仕事ではあり得ます。利益を出すために無駄をなくす。それもありかと私は思います。もちろん中村さんのおっしゃる通り、無駄など存在しないとも思います。つまりは、中村さんは懐が深いと思いました。目先の利益にとらわれがちですから。中村さんは、その先を見ていらっしゃる。中々出来ることではありません。私も先を見据えてみたいと思います。
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目先の利益、確かに欲しくなるのは間違いありません。
ただ「損して得取れ」の諺にもあるように。
深慮遠謀を持つヒトほど、目先の不利益に目をつむってでも長期的でより大きな利益を得ようとする傾向があるようですね。
“無駄”に見えて、意外と無駄でないことって、意外と多いと思うのです。
身近なところではボツネタとかがありますね。
ボツにしたネタに使った時間が果たして本当に無駄だったかと考えると。
そのボツネタの山に支えられてこそ作品が輝きを増す、とも考えられますわけです。
もちろんそのボツネタにしたって、いつどこで役に立つやら判ったものではありません。
私の好きな言葉の一つに、こういうものがあります。『エリア88』(新谷かおる先生)の指揮官サキ・ヴァシュタールの言葉です。
「可能性を実現するのは技術の問題だ。だがその可能性を決めるのはアイディアだ。私ならそのアイディアは捨てんぞ」(意訳)
――いかがでしょうか。
ボツネタさえ可能性に化ける伸び代を秘めているのです。
そうするとボツネタはすでにボツネタにあらず、ただ“その時は相応しい場を得られなかっただけの可能性”として存在することになります。
――世界が変わって見えてきませんか?
と、“無駄”上等の私などはお誘いをかけてみたりするのでした。
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マンガ『魔太郎がくる!』に無田博士というキャラがいました。普段は「うらみはらさでおくべきか!」と恨み念法でイシメッ子に奇怪な復讐をしていく魔太郎ですが……無田博士の回だけは復讐がなく、無田博士のアホな発明に振り回され最後に目を回すというドタバタ劇でした(笑)。一見すると魔太郎に似つかわしくない、まさに「無駄」な回ではありましたが……ひょっとしたら、藤子不二雄先生の骨休め的な回だったのかもしれませんね。
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『魔太郎がくる!!』(藤子・A・不二雄先生)は――表紙画から立ち上るオーラが怖すぎてろくすっぽ読めなかったヘタレですorz。
何と無田博士なる素敵キャラが登場しておりましたか!
なかなかどうして、“無駄”に見えて立派な気分転換のエピソードと拝察します。
“無駄”な発明と言えば。
“日本酒は揺することで、味をまろやかにすることができる”という事実を発見した方がいらっしゃいます。
日本酒の水分子を揺さぶることで日本酒に含まれる分子の大きさをならし、刺激をまろやかにするという原理なのですね。この方、実際に徳利を自動で揺する装置を発明して特許までお取りになったのですが。
――その原理って電子レンジそのものじゃん!
というわけで、“日本酒は電子レンジでお燗にするとまろやかな味になる”という工夫の礎となったのでした。
残念ながらこの方のお名前は忘れ去られてしまったようですが。
その行動力はなにがしかの実を結んだであろうことを信じたいところです。
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人生「無駄がないと辛い」と感じます。
一応スケジュールを組んで動くのですが、余分な時間を組み込んでおいて体や心の休養に使いたい。そして得てして、そういった余分な時間にこそ「ひらめき」は現れるものだと思います。
そして、使えるひらめきは無駄の中にこそあるものだと思うのです。
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おっしゃるように、“無駄”がないとひらめきは来ないようです。
食器洗浄機を発明したスタッフのお一人の有名なエピソードですが。
この方は湯を吹き出すノズルの設計担当だったそうです。どうしても洗浄機内全域へ湯のシャワーを行き渡らせられずに行き詰まっていたところ、上司の方からかけられた言葉が「ちょっと散歩でもして頭を冷やしてこい」であったとか。
――ところが。
その散歩で見かけた子供の遊んでいたブーメラン、これが突破口になったというんですね。要はブーメランさながら、ノズルが回転移動すれば噴射角度も変わり、隅々まで湯を行き渡らせることに見事成功したという。
短絡的な思考からすれば散歩など無駄の極致でありましょうが。
ことほどかように、“無駄”は見事なひらめきを生む土壌でもあるのです。
モノで例えるならば、例えば歯車などが顕著ですが。
歯車というものは力の伝達効率を決して100%にすることはできません。“遊び”と呼ばれるガタがその原因です。
では伝達効率だけを考えて、この“遊び”という“無駄”を削ぎ落とすとどうなるか。
――歯車は摩擦で回らなくなるのです。
老子や荘子の言で「無用の用」という言葉がありますが、これらの例はまさしく「無用の用」を体現していると申せましょう。
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と、皆様からコメントの数々をいただきました。
考えてみるに、ひたすら“無駄”を潰していくと、あとには想定外の全く起きない、硬直したシステムだけが残ります。ルーティン・ワークだけならそれもいいのですが、進化と工夫は“無駄”がなければ生まれる余地もありません。
つまるところ“無駄”は無駄などではないわけです。ただし不確定要素ではありますので付き合い方次第の面もありますね。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。