112.【考察】:市場の【多様】化と【画一】化、その流動(2022.02.26)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、時にこのようなお嘆きを耳に(眼に)することがあります。
「市場はどんなに【多様】化の圧力を受けても、最終的には【画一】化する運命にあるのではないか」
このお嘆き、一時的に望ましい変化が起こって市場に新鮮な【流行】が生まれても、一気に後続者が群がって【画一】化、陳腐化する――という流れに向けられたもの、と私は認識しておりますが。
【我流】の考えとしては、こういう見方に落ち着きます。即ち、「市場に存在するプレイヤが、『【多様】化圧力に属する志向を持った【コミュニティ】』と、『【画一】化圧力に属する志向を持った【コミュニティ】』に大別できる」というものですね。
さらにその一点にしたところで、詳しく見てみればまた中身は【多様】と捉えることができるはず――と、私は捉えております。
要は、【画一】ではない、と見ているわけですね。
例えば『新たな【流行】を生み出したい』志向もあれば、『【流行】に追従したい』志向もあるわけです。
まず前者、『新たな【流行】を生み出したい』志向について考えてみましょう。この動機にしても『自分の「好き!」を広く知らしめたい』こともあれば、『新たな【流行】に先乗りして、巨大な【満足】を手に入れたい』こともあります。なので、【多様】化したいからといって、その中身は【画一】というわけではありません。
では後者、『【流行】に追従したい』志向についてはどうでしょう。こちらも、『サンプルの多い【流行】に乗ることで、より確実に【満足】を得たい』こともあれば、『注目されている【流行】に乗ることで広くウケたい』こともあるわけです。なので、こちらにしても必ずしも【画一】と言えるわけではありません。
またいずれの傾向も【コミュニティ】や個人によって個性があるはずです。であれば、それぞれの持つ圧力にもばらつきがあると見るのが自然というものでありましょう。
さて、ここで。
少し視点を変えて、『市場を観察して語る人物』について考察を巡らせてみましょう。
個人的な経験則として、『【画一】的に状況を語る人物』ほど、その実態は『【画一】的に状況を【認識】したい願望の持ち主』であることが多いものです。
つまり、『【画一】的に状況を【認識】したい』人物は、『【画一】的な観察の結果』として『状況を【画一】化して語る傾向が強い』――という事実が存在します。
この場合、その主観に基づいて語る論も根拠も、いずれも『【画一】的になりやすい傾向』というものを帯びることになります。
つまり『【画一】的に状況を語る人物』は、『【画一】化して状況を【認識】したい願望』ゆえに、論も根拠も【画一】化してしまいやすい――と申しますのが、私の【仮説】。
要は、主観の根元に『【画一】化して観察したい・語りたい願望』が存在するわけですから、その見方や考え方が容易に覆るはずはありません。
よって考えが合わなくとも、その論を受け入れる必要を私は感じませんし、またその論を覆すために労力を費やす必要も、私は感じません。
と、申しますのも。
この傾向が強い人物ほど、『観察している状況が引っくり返った時』、つまりは『状況(の大勢)が自論から逸脱したことを【認識】した時』、『論を変える』ことが多いように、私には感じられるからなのです。
この行為、要は『掌を返す』わけですが。
この行為が『新たな状況を【画一】的なものとして受け入れる』、つまりは『新たな状況を拡散、定着させる役目を果たす』わけでもありますから、過剰に忌避することもないと、私は【認識】する次第。
ただし『掌を返す』というその行為、それ自体には私は親近感を覚えるわけではありませんけれども。
さて、ここで視点を変えてみましょう。
今度は『【多様】化圧力に属する【コミュニティ】』というものに思いを馳せてみます。
こちらの【コミュニティ】は、『状況に変動をもたらすこと』を意図して動くことになります。なので、『新たな【流行】』を目指して『布教活動』を展開することになるはずですね。
この時、『【画一】化圧力に属する【コミュニティ】』は『布教活動に対する無理解』を呈することになりますね。つまりは『状況の維持を望んで活動する』ことにはなるわけです。
ここで対立が生まれることも予想されますが、突き詰めれば『布教活動に対する無理解』とは単に『現状の【画一】化を望んでいるだけ』と捉えることもできます。なので、ここで目くじらを立てても報われることは少ない――と私は考えます。
この局面では、同じく『【多様】化圧力に属する【コミュニティ】』と繋がりを構築し、趣味嗜好の近しい人々の間に『布教』の輪を広げていく方が建設的でもありますし、また『布教』を進める上で有利に働くと予想もできます。要は『良さを理解できない人々は放置しておく』わけですね。ゴリ押ししても労ばかり大きく実りは少ないと思われますので。
事実、【流行】を作り出す原動力は『理解者』です。『無理解者』ではありません。
さて、こうして。
ひとたび【流行】となったなら、今度はそれまで『無理解者』であった【コミュニティ】、つまりは『【画一】化圧力に属する【コミュニティ】』が【流行】の拡散と追従に入る――という流れが生まれるわけです。要は新たな基準で状況の【画一】化を図るわけで、この動きが『市場がまた【画一】化していく』ように映るものと、私は推察します次第。
詰まるところ、人は容易に変わるものではありません。
『【多様】化圧力に属する人物や【コミュニティ】』は『新たな【流行】』を目指し続けるでありましょうし、『【画一】化圧力に属する人物や【コミュニティ】』は『状況の【画一】化を目指すでありましょうし。
ただ状況に投下される要素の異質さやその強さ(例えば【作品】に込められた【偏愛】の強さ)によって支持の強弱は異なるであろうことは想像に難くありません。ならば【作品】に込められた【偏愛】が強いほど『布教』の成功する可能性は高まるもの――と予想はできるところです。
結局のところ、『他人に影響を及ぼしたいならば、相応の強度の「好き!」(【偏愛】)を込め、同時にその「好き!」を共有できる人々と繋がりを築いていくこと』ということになる――と、そう考える私なのでありました。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。