009-2.“才能”なるもの(2018.08.04):コメント編
こちらでは、活動本文を受けて交わさせていただいたコメントになります。
皆様も思うところ多々ありますようで、大変興味深い内容となっております。
◇◇◇
【コメント】
分かる。凄く分かります。
小説で言うなら、これ最後まで読んだら絶対面白いだろうなぁーと思いつつも、
「これは、文の内容が分からない」と諦めた小説も多いです。
我慢して読んでめっちゃ笑ってめっちゃ感動した最高の小説もあります。
勿論、小説以外の事に関して、いってるんだと思いますが、発想と技量と言うのが小説で例えると分かりやすかったので
今、仕事の方が出来ず、悩んでるのですがこうやって、言ってくださると頑張ろって気持ちになれます。
本当にありがとうございます。
◇
ご共感をいただけまして、誠に光栄です!
小説に限らず、ただし創作全般を念頭に置きつつ綴ってみました。
「つまらない」の一言で切り捨てるのって、あまりにも暗愚なのですよね。
言葉を投げるなら、持てる限りの分析と模索を投げればいい。
見捨てるならただ、何も言わずに消えればいい。
悪意を去り際に投げつけるのは、何も解っていない証――などとわたしは考えます次第。
そんなつまらない悪意で才能の芽が潰えるのは、損失でしかないものと私も考えます。
◇
【コメント】
才能は若い頃なら憧れるのが普通ですね。
逆に不器用なら、その分努力や工夫して、
よりその分野で実力を付ける事が出来るかも知れません。
名選手は必ずしも名監督や指導者になれるとは限りません。
むしろ逆かも知れませんね。
「何でそんな簡単な事が出来ない?怠けるな」
そんな感じでしょうか。
教師の中にそんな駄目な連中をたくさん見て来ました。
落ちこぼれやドロップアウトを間接的に作り出すモンスターたちをw
◇
天賦の才にしろ積み上げた経験に基づく底力にしろ、あきらめたところが終着点と心得ます。
目標も目的もヒトそれぞれでありましょうが、心を折って回る悪意に眉をひそめたところがありますのもまた事実。
名選手が必ずしも名指導者になれると限らない――というのは、私も痛感したところがあります。
「何でこんな簡単なことができない?」という科白は、実は指導者としての能力に盛大な疑問符を付ける信号――と私は捉えております。
これ、“他人の痛みや苦労に思いを馳せることができない”証左であるからでして。
即ち、自分とは別方向からのアプローチを理解できない、あるいはそもそも自分以外の個性や多様性を認識できない、そういう負の可能性を表す科白なのですよね。
その根拠が“こんな簡単なこと”という言葉。
“簡単”かどうかは当の本人が決めることで、他人の身が決める義理はありません。怠けているかどうかに至っては何をか言わんや。
そもそも指導者ならばその“簡単なこと”を簡単にこなせるよう、噛み砕いて指導するのが役割というものです。
つまるところ、科白の主は自ら“指導者”としての存在意義を損ねたことになります。あるいは義務を怠っているか。どちらにしてもロクな人材ではありませんね。
早い話が、“ヒトを率いる”“才能を育てる”のと“名手として活躍する”ことは全く別の能力――と申しますのが私の認識。
なればこそ、“教え手”や“指導者”として真摯にあろうとする姿勢には、勢い敬意が込もります。理解しようとしないことには、真摯な姿勢は現れては来ませんから。
◇
【コメント】
スラムダンクの名言中の名言、
「先生バスケがしたいです」
「諦めたらそこで試合終了ですよ」
を思い出しますね。
教わっている生徒が上達しないのは、生徒の責任ではなく指導者の責任であり、
指導者は生徒を上達させるために、生徒が何がわからないのかを理解する必要があるのですが。
「日本の指導者にはそれができるのがほとんどいない」というのがアメリカとかの指導者の見た感想のようです。
厳密にいうとこれ音楽に関することの話なのですが、
その他の分野でも同じようなことが言えると思います。
◇
「諦めたらそこで試合終了ですよ」、『スラムダンク』を読んでいない(をい)私でさえ聞き及ぶ名言ですね。
人生万事塞翁が馬。何がどう幸いするか予測できないからこそ、“あきらめないこと”“辞めないこと”には絶大な意味が生じるものと、私も考えます。
伸ばし続ける限り、限界は訪れないわけです。
例えば“シミタツ節”で熱烈なファンを持つハードボイルドの名手・志水辰夫先生が『飢えて狼』でデビューした当時は44歳であったと記憶しております。
そもそも本格的に小説を手がけ始めたのが40代、それまで職を幾度か代えておいでと聞き及びますから、遅咲きも遅咲きではあります。ただし、以来37年の現役活動は、何よりも雄弁にその実力を物語ります。
この事実を念頭に置く時、“遅かろうが紆余曲折あろうが、伸ばしたいだけ才能を伸ばせばいいのだ”と、私は固く信じて疑いません。
で、指導者たるものは真っ先に“本人が伸ばしたいことを伸ばす”ことを教えるべきと考えますが。
日本で見聞きした限りでは、これを考えている方はごく少数のようです。
「やってみなはれ、やらなわからしまへんで」はサントリーの創業者・鳥井信治郎氏が貫き通した言葉でありますが。
鳥井氏にあきらめさせようと群がったヒトの数を想像するに、どうも才能をスポイルすることを“指導”や“教育”と取り違えている人物がやたら多いようにも見受けられます。
まさにおっしゃる通りですね。
とは言え、心ないヒトに期待を懸けるほど私は能天気になれないので。
作者の皆様に対して、心ない言葉の裏にある“薄っぺらさ”“重みのなさ”をお伝えしたいところです。
「つまらない」? 「才能ない」? 表層だけしか見ていない輩の語る弁に、説得力はありません。事実、その言の裏には分析も洞察もまずありません。
非難より分析を。
否定よりも洞察を。
作者の皆様には、「“分析なき非難”“洞察なき否定”の否定」をご提案したいところです。
◇
【コメント】
アドバイスありがとうございます。
感想やレビューが無いのは、文才の無さだとずっと思っていました。
ある意味、諦めていた事でもありました。
文才無いし、あまり見かけないエッセイだし……って。
素敵なお言葉をありがとうございました。
◇
お心に響くものがありましたこと、何より喜ばしく思っております。
才能は、伸ばせば伸ばしただけ伸びるもの――と、私は心得ます。
なので、私は断言します――「あきらめる理由は全くない」と。
ことに誹謗中傷、心ない言葉は“背景を持たない薄っぺらな感情”です。ただの“知ったかぶり”に過ぎません。
腹は立ちます。心にも収まらないことは残ります。
ただし、その言葉には悪意しかありません。
本当に洞察と分析に富んだ視点は、そこにはないのです。
裏を返すと――心無い言葉というのは、己を何一つ否定できていないのです。根拠は表層だけの薄っぺらですから。
なのでよつ葉ちゃんご自身が“良い”と信じた発想を大切に、あとは技量を磨けば才能は伸ばせます。
非難より分析を。
否定よりも洞察を。
「“分析なき非難”“洞察なき否定”の否定」をご提案して、ここは締めくくりたいと考えます。
◇
【コメント】
ここで水中騎士が出てくるとは思わなんだ。
相変わらず中村さんらしい素晴らしい考察です!
◇
『水中騎士』のあの科白は、まさしく心に突き刺さりました。今でも色褪せぬ名言です。
そして「才能ない」(=これ以上は伸びない)という心ない言葉を眼にする時、これにまつわる“才能”という言葉を考察するに当たっては、自然とこの名言に行き着きました。
才能の限界など、結局見通すことは、ましてや決めつけるなど、他の誰にも出来はしないのです。
「自分の限界を決めるのは、自分自身!」
己のことです。決められるのは、ただ己のみ。
そして世の常とされる方法にこだわらなければ、あとは模索さえ続ければ、いずれ道は開けもしましょう。
その時、“道”なるものが己の通った跡を差す言葉となるはずです。
◇
【コメント】
見事な考察です。元気付けられる割烹でした。
まさしく仰る通りだと思います。
努力と継続無くして「才能」は語れませんね。
私は「才能」という言葉が好きではありませんでしたが、中村さんの説く「才能」は好きですね。
◇
お心に響くものをご提示できましたこと、まこと喜ばしく感じております。
“才能”、念のために辞書を引いてみましたら「物事を成し遂げる力」と出ておりました。よく勘違いされる“天賦の才”は“才能”の一部に過ぎず、“訓練や努力で身につけた力”を含めた“総合力”が“才能”という言葉の本意だったのですね。
例えるならトーマス・エジソンの体現する「99%の努力なくして1%の天才は花開かない」という姿が近いでしょうか。
この言葉自体の解釈には諸説ありますが、“劣等生”のレッテルをはねのけてのし上がった姿を鑑みるに、格言としては間違っていないものと私は推察します。
なので本人の努力も顧みず、また継続も促さず、「才能ない」の一言で可能性の芽を摘むのはただの愚行に他なりません(断言)。
悪意に腹を立てこそすれ、それ以上の労を費やすに値せぬものとして切り捨てることをご提案したいところです。
ということで、お互い頑張って“(努力と継続を含めた)才能”を大いに伸ばして参りましょう。
◇
【コメント】
才能。
好きこそものの上手なれ、とは言いますが、まさにそれですね。
やったらやっただけ、結果となって現れますからね。
◇
まさしくおっしゃる通り、“好きこそものの上手なれ”ですね。
目先の利益に縛られなければ、やったらやっただけの実りが必ず手に入ります(断言)。
人生万事塞翁が馬、労を惜しんで目先の結果だけを求めると、必ずや“想定外”に見舞われますね。
ところがこの“想定”なるもの、そもそも労を惜しんでいてはまともな“想定”が出来上がらないという罠。
よって“想定”なぞ最初から無視してかかった方が得られる果実も多いというもの。
一見無駄に見える諸々が、こうなると“光り輝く可能性”という宝の山に見えてきますね。いや本当。
◇
【コメント】
凄くわかります!
私の場合、小説を書き始めた理由は単純に自分のアイディアを提示したら、読者は思わず読んでしまうのではないか? そんな小説絶対誰も書いていないだろう!
……という思いで執筆経験はおろか、読書経験もほとんどない状態で処女作を書き始めました。
結果は……まぁ散々でしたね。笑
なにせ自分の頭の中にある物語を、小説にするという術を私は何一つ持ち合わせていませんでしたから。
試行錯誤しましたが、自分の頭の中のワクワクを何も表現できず、ボロクソに言われることもありました。
でもそんな中でもありがたいことに、沢山の方に親身になってアドバイスを頂きました。
そして色々な作品を実際読みました。
足りないところはいっぱいありましたが、一つずつ気になる箇所を改稿するうちにやっと今の形にまでもっていくことができました。
それでもとてもじゃありませんが筆力があるという領域にはまだまだ到達できていません。(圧倒的な経験不足)
ですので今回中村さんの活動報告を読ませて頂き、共感するとともに勇気付けてもらいました!
ありがとうございます!!!
◇
お心に共感を呼ぶことができましたこと、まこと喜ばしく感じております。
そしてお褒めのお言葉、誠にありがとうございますm(_ _)m!
そう、“ワクワクを発想する力”と“(観客に)伝える技量”は全く独立した能力なのです。
そこに着眼してみれば、“才能”(天賦の才と訓練で身につける能力を含めた総合力)にまつわる暗澹たる想いが晴れるのではないかと推察しました次第。
お喜びいただけまして、こちらこそ至上の悦びを味わっております。誠にありがとうございます!
◇
天元突破いたしました(何)
ずいぶん自分も気が楽になりました。
あとは書くのみ!です。
◇
天元突破! これは何よりの朗報ですね。←
お心に響くものをお届けできましたこと、まこと喜ばしく感じております。
胸のつかえを取る一助となりましたなら、これに勝る悦びはありません。
ぜひとも持てるお力を存分に伸ばしてくださいませ。
◇
ひとまず書いてみないことには、何も始まらないですからね。ただ、他人の足を引っ張ったり貶したりするのに異様な才能を持つ人もいますよね……お近づきにはなりたくないですが(笑)。
◇
そうなんですよね。実は創作の経験を積まないことには、上達するはずなどないのです。
なのに、そこを無視して可能性を手折るような所業がまかり通っているのには、私も眉をひそめるものがあります。
ただ、心ないヒトに理を説いても暖簾に腕押し、馬の耳に念仏というものです。いずれ関わってもいいことは一つもなさそうですし。
なら作者の皆様のお心を救うことはできないか、と思い至っての考察となりました。作者の皆様のお心に響くものがあれば幸いです。
◇
【コメント】
更新おつかれさまです。
「書きたいものを書きたい様に詰め込む」というのが、実は基本なのではなかろうかと、常々思っております。
なので、「そうすればポイントが増える」「注目を集めるにはこういうヒロインがBest」とかいう指南エッセイを見ると?マークが頭に浮かんでしまいます。
書いた文章は、不良在庫となって内部留保を圧迫するわけじゃないので、好きなものを好きなだけ書けばいいんです。コストもかからない。頭の運動にもなる。いいことづくめです。
で、釣り糸を多く垂らせば垂らすほど、書籍化という魚がかかる可能性も高まる。
どんどん、コンテストに応募して、腕試しすればいいんです。
私はそんな風に考えていました。
◇
私には大いに頷かされるものがあります。
やはり私も、おっしゃる通り“書きたいものを書きたいように詰め込む”ことこそ基本であると考えます。
それこそが“発想する力”の幅を拡げ、さらには“発想を面白く魅せる技量”をも磨いていくものと信じて疑いません。
攻略法など、“限られたルートを辿るための小手先のテクニック”に過ぎません。広く世に問うてみたなら、メッキは見る間に剥がれます。
そして発想に自ら枷を嵌めるのは愚行であるとも私は考えます。ブレインストーミングの基本ですね。
例え発想の一つがボツろうとも、それで鍛えられた発想力は決して無駄になりませんし、発想そのものにしたってストックしておけば済むだけの話です。うまくすればその発想を踏み台にさらなる発想が浮かぶことだってあり得ます。
なので、好きに考えて好きに書けば、それが何よりの上達法になると、私も考えます。
生の説得力に満ちたお考え、お聞かせいただきまして誠にありがとうございますm(_ _)m。
◇
【コメント】
書き続けていくこと。それは何よりも大切なことなのですね。簡単なようで難しいことですね。「継続は力なり」とも言いますが、一つのことを継続することは大変です。でもそういうことこそ自分にとって本当の力になることなのですね。
◇
まさしく“継続は力”。続けることは何よりの上達法であると心得ます。
そして続けるには、それこそ“好きこそものの上手なれ”と申すものでありましょう。
嫌いなことをやっても続くはずはありません。
であれば、“好きなことを続ける”方が、“嫌いなことを我慢する”より身になること遥かに大であろう――と考えます私です。
ゆえにこそ、“自分は何が好きか”を追求し貫く価値は小さくないと、私は考えるのです。
◇◇◇
と、このように、皆様から非常に熱いご反響をいただきました。
“才能”という言葉に対しては、皆様非常に敏感であるように、私には窺えました。
同時に感じられたのは、“才能=天賦の才≒能力の上限”という誤解が広く根強く意識されているであろうことです。
「才能ないよ」という心ない言葉も、この誤解に基づくものと、私は推察しております。
ですが、私のご提示した感覚は、非常に深い共感を皆様に覚えていただけたものと推察します。
再掲するなら、
“観客に伝わるもの”=“発想”ד観客に伝える技量”
技量がまだ発展途上のうちは、観客の皆様も発想の素晴らしさを汲み取れないでしょうし、それを“才能”と断定しがちです。
ですが、単に発想のワクワクを伝えきれていないだけとしたら。つまり“技量さえ磨けば、発想のワクワクは伝わる”わけです。
というわけで、この金言をもって結論に代えさせていただきたいと存じます。
「自分の限界を決めるのは、自分自身!」
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。