講義録 三
黙って廊下を歩く教授に続いて、学生蛙たちも口を真一文字に結んでゾロゾロと歩く。全員が校舎の地下に着くと、教授は石で造られた重そうな扉を力一杯に開けた。雨蛙が部屋の看板をチラリと見ると、そこには「ニンゲン学科 倉庫」と書いてあった。
教授は少し埃っぽい倉庫に明かりを点け、学生蛙たちの方を向いた。
「先程言った装備はここにある。外敵から我々を隠す、優秀な迷彩服だ。今から貴様等のために取り出してやるから、破損が無いか点検しろ」
棚にあった箱をガタガタと取り出した教授は、中身をヒョイヒョイと取り出して学生蛙たちに渡し始めた。雨蛙と友人蛙も装備を受け取ると、壊れていないか入念にチェックをし始めた。
「雨合羽?」
雨蛙が不思議そうな顔をしながら点検をしていると、友人蛙が装備を羽織ってこっちを向いた。
「形はそうだね。でも、葉っぱの切れ端で迷彩になってるから、これでいいんじゃないかな……。うーん……、雨蛙、悪いんだけれど、ぼくの装備の背中が破れていやしないか、確認してくれない?」
雨蛙は友人蛙の背中をまじまじと見ると、「うん」と頷いて言った。
「大丈夫。破れていないよ」
それを聞いた友人蛙はニッと笑った。雨蛙も釣られてフニャリと笑った。
教授は、学生蛙全員が装備を整えたことを確認すると、フンと鼻を一つ鳴らしてから、全員を校門の前まで誘導した。
「では学生諸君。これから実習に行く。貴様等が賽の河原に行く羽目にならないよう、注意事項を述べてやる。一度しか言わないから、良く聞いておけ」
雨蛙は、教授からオタマ扱いを受けていることに少しばかりむっとした。だが、隣に居た友人蛙は、教授の悪態に慣れたのか、顔色を変えずにジッと教授を見ていた。
「俺は今まで、この実習で死者を出したことは無い。だからこそ、この実習は学校側に許可されている。つまり、今回の実習で貴様等にウッカリ死なれでもすると、ニンゲン学の真理到達に支障が出るのだ」
教授は学生蛙たちをジロリと見て続けた。
「前置きが長くなったが、注意事項はただ一つ。俺の言うことは絶対だ。
例え、どんなに良い研究素材が、あとほんの一ミリの所で自らの手に入れられそうでも、俺が撤退と言ったら問答無用で撤退だ。常に俺の判断を信じろ。迷うな。貴様等はこれから一時間、意思無き蛙となれ」
学生蛙たちは、おのおのしっかりと頷くと、皆教授をジッと見つめた。
「よろしい。では行くぞ」
教授に続いて他の学生蛙たちが歩き始めたので、雨蛙と友人蛙も後に続いた。何やらニヤニヤしてる友人蛙は、隣に居る雨蛙にだけ聞こえるくらいの小さな声で呟いた。
「ケモーセの、一戒」
それを聞いた雨蛙は、笑いをこらえてブルブルと震えた。
ペタペタと連なるみんなの足音を聞きながら、雨蛙は黙って歩いた。木漏れ日がきらめき、まだ少し冷たい春風が頬を撫でる。
時折、風のいたずらで草むらがサワサワ鳴ることに、前の蛙がビクッと肩を揺らす。雨蛙はそれを、ぼんやりした気持ちで見つめた。
隣を歩いている友人蛙も、珍しく何も言ってこない。彼なりに何か思うことがあるのだろう。雨蛙は、一瞬悲しい目で友人蛙を見たが、悟られるのを恐れてすぐに俯いた。その瞬間、雨蛙はとてつもなく怖くなった。
何を恐れることがあろう。教授はベテランだ。一度だって死者を出したことは無いんだ。でも、だからと言って、今回も出ないとは限らない。
ああ、後ろにニンゲンが居やしないだろうか。
前は。
上は。
雨蛙は脳裏にグルグルと不安が駆け巡り、じょじょに息が苦しくなった。胸に手を当てて、酷い動悸を感じた雨蛙は、ヒュウと一つため息のような深呼吸をした。それを聞いた教授が足を止めた。雨蛙は胸がキュッと縮むような錯覚を覚えた。
「後ろのお前、怖いのか」
教授がこちらを向いた。雨蛙は悪い動悸が増すのを感じた。ドッドドッド言う胸の音すら、教授に聞かれている気がした。
「……申し訳ありません。先生を信頼しておりますが、こればかりは本能でして」
「フン。構わん。恐怖を忘れた奴が、一番最初に死ぬ。だから恥じることは無い。
時にお前、その恐怖は、危機に瀕したときにお前の足をためらいなく動かしてくれるモノか? そうでないのなら、お前は今ここで帰れ」
雨蛙はドキッとして考えた。僕は僕のために、何もかも捨てて逃げられるのだろうか。
心の底から自信を持って、「はい」とは言えないが、このまま一匹で帰ることの方が怖いと思った雨蛙は、本心を悟られないように答えた。
「はい。出来ます。何もかもを捨てて逃げます」
それを聞いた教授は、いつもより少し優しい顔で「フン」と鼻を鳴らした。