講義録 一
教授は、ドクターズバッグからチョークを取り出すと、黒板に大きく荒れた文字で「堀内校舎」と書きなぐった。雨蛙と友人蛙は、よくわからないまま、それをノートにメモした。
手に付いたチョークの粉を払いながら、教授は話し始めた。
「堀内校舎。これは我々が今居る校舎だと言うことは言うまでもないな? では、何故我がニンゲン学科だけが、こんな辺鄙なド田舎で研究をさせられているか、わかる奴はいるか?」
教授の突然の質問に、教室の蛙たちは各々ソワソワしたものの、答えられる者は居なかった。わからないのではなく、教授への畏怖が強すぎたためだった。
「フン、まあいい」
教授は教卓の椅子に座り、続けた。
「このド田舎はな、我々蛙にとっては鄙だが、ニンゲンにとっては都なのだよ。ニンゲンがたくさん生息しているから、ニンゲンを研究するにはもってこいの場所なのだ。まあ、愚問だったな」
友人蛙はきょとんとして口元に手を当てた。少しだけ顔を動かして、雨蛙の方を見ると、雨蛙のノートに「ヒナ? トリのこと?」と書いた。
雨蛙は目を見開いて、笑い出しそうになるのを一生懸命こらえて震えた。そして、「鄙。田舎のことをさす、古い言葉さ」とノートに書いて答えた。
それを見た友人蛙は、すっぱいものを食べた時のような変な顔をして二度うなずくと、教授の方に向きなおした。
教授は教卓を指でトントン叩きながら、講義室の蛙たちを見渡した。
「……だが、このド田舎も、昔からド田舎だったわけではない。ほんの一〇〇年前は、豊かな自然に溢れた、我々の都だった。では何故こんな何もないド田舎に落ちぶれたか。おい、そこの蛙、わかるか?」
教授は友人蛙を指すと、蛇のようにジッとこちらを見てきた。指された友人蛙は、想定外のことだったらしく、小さく「ピギッ」と鳴いたが、左手をギュッと握りしめて答えた。
「……はい。先生。ニンゲンが住み着いたからであると考えます」
「フン。よろしい。今そこの蛙が答えてくれたとおり、ニンゲンが住み着いたことによって、堀内校舎周辺の環境は著しく変化した。たった一〇〇年でだ」
まだ若い雨蛙には「たった一〇〇年」がとても想像できなかった。しかし、一〇〇年とはどの程度のものなのか、そんなことを考える余地すら与えないかのように、教授はどんどん話を続けた。
「もちろん、一〇〇年前は俺も産まれてすらいない。だが、残されている文献には、ニンゲンが急速に増えた話、以前は互いに尊重していたはずなのに急に酷い扱いを受けるようになった話がある。
もちろん、その文献の数は一つや二つじゃないので、信憑性も非常に高い。特に、酷い扱いに関しては、現在まで続いている問題だ。最近では、我々はニンゲンにとって、最早居ない者とされているからな」
雨蛙の胸がキュッと痛んだ。「最早居ない者」という教授の言葉が、図星に感じたからだ。
我々は、常にそこにいるのに、あたかも居ない者として扱われている。雨蛙はそんな風に思うことがあった。たまにニンゲンの目につくと、逃げられるか、おもちゃにされるだけである。友人蛙の事故も、ニンゲンのエゴイズムにによって引き起こされたものに違いない。
雨蛙がチラリと隣の友人蛙をみると、彼は眉間に皺を寄せて、左手を先ほどよりも強く握りしめていた。彼の中で様々な感情が交錯しているようだった。
雨蛙はニンゲンのせいで生死をさ迷った友人蛙を思うと、更に胸が苦しくなって利き手が震えた。
「これからもニンゲンは増え続けるだろう」
そう言って教授は椅子からガタリと立ち、教卓に両手をついて、続けた。
「我々蛙には、もうあの危険生物を減らすことは不可能だ。俺は運命という言葉が大嫌いだが、ここであえて使う。これはもう受け入れざるを得ない運命なのだ。
だが、ニンゲンが我々にするように、我々もきゃつ等を居ない者として扱うことは出来る。ニンゲンを見て真っ先に逃げる者をあざ笑う者が居るが、愚か者は後者だ。撤退は断じて敗北ではない。
己の一つしかない命は、どんな手段を使ってでも、どんなに恥ずかしいことをしてでもいいから守れ。死んでは元も子もない」
そう言うと、教授はうつむいて沈黙した。講義室の蛙たちも、みな何かを思い出し、寂しそうな顔をした。
教授は顔を上げると、ドクターズバッグを触りながら、続けた。
「ニンゲンの侵食速度は非常に早い。今後別の都会がやられるまでに五〇年もかからないかもしれない。その時に、一匹でも多くの蛙を早い段階から避難させ、生還させることが、ニンゲン学の研究の使命だ。肝に銘じておけ。
……明日からは、より詳しくニンゲンの種類について講義していく。本日は初回だからこの程度でいいだろう。貴様等もとっとと帰って、明日の予習でもしておけ」
教授は「堀内校舎」としか書かなかった板書を大雑把に消すと、ドクターズバッグにドカドカと荷物を詰めてさっさと講義室から出ていった。
「居ない者か……」友人蛙はぐったりと机に伏せった。
「幸い君は生きているからいいが、……いや、よくないな。もう……」雨蛙も鞄を枕にして机に伏せった。友人蛙の事故時の緊迫感が、雨蛙の脳裏を駆けめぐり、目頭が熱くなったからだ。
友人蛙は、ヒュウと一つため息をつくと、起きあがって話を続けた。
「あの先生、変な蛙だけども、言っていることがおかしいわけではなかったね。昔、ニンゲンとなんかあったのだろうか……」
「推測の域は出ないけれど、そうかもしれないね」
二匹はしばらく講義室に留まっていたが、次の講義の邪魔になることに気づき、帰路についた。
「そうだ、ねえ、雨蛙。この後ぼくの家で明日の予習でもしようよ。美味しいどんぐりクッキーとお茶を手に入れたんだ」
友人蛙がにっこりと微笑むのを、雨蛙は目を細めて見た。
「ああ。それは良い。是非ともお邪魔させてもらうよ」
雨蛙が嬉しそうに答えると、友人蛙はフニャリと笑顔になって、「よかった」と言った。