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まさか、女になるなんて・・・
蛇口の前で膝をついたトシアキは、四つん這いになったまま地面と顔を合わせていた。
最悪な気分だ。
胸の中には黒い煙がもうもうと立ちこめている。薄暗い絶望感が、トシアキの心臓を鷲掴みにする。
一体、俺はどうしてしまったんだろう・・・
ひたすら夢が覚めるのを待つように、ただ虚ろに地を見つめていた。
どのくらいの間そうしていたかはわからない。トシアキにはずいぶん長いような気がしたが、実際はほんの短い間だったかもしれない。
「あ、あのー・・・」
頭上から、おそらく自分に向けられたと思しき声がした。その一声が、沈んでいたトシアキをぐんと現実に引き上げた。
顔を上げると、バリカンを片手に持った男が不安そうにこちらを見ていた。隣でヒゲを剃っていた人だ。
近くに人がいたことを今更ながら思い出した。慌てて立ち上がる。
「・・・え、えーと、その」
恐る恐るといった感じで尋ねられた。
「だ、大丈夫ですか?」
「え? あ、はい」
何が大丈夫かわからず、適当に頷く。
「あ、そうですか・・・。いやその、突然だったんで、ちょっとびっくりしたっていうか・・・」
「はぁ」
「あの、なんか邪魔しちゃったみたいならすみません」
しゃべり終えると、彼はすぐに横を向いてしまった。顔を赤くしているのが見えた。緊張しているのだろうか。
不審者か何かだと思われているのだろうか。まあ、そうだとしても仕方のない話だが。
自分の挙動を鑑みるに、不審がられるのも無理はなかった。文就寮には男しか住んでいない。そんな空間に女が現れて、いきなり自分の胸を揉んだあげく床に倒れ込むなんて、とんだ奇人である。
だからといって、まっとうな事情や経緯を説明できるわけでもないのだが・・・。こんな顔や膨らんだ胸で男ですなんて言っても、相手にしてくれる気がしない。
・・・ん、胸?
そこまで考えたところで、ふと自分の格好を思い出した。
性別が変わったというショックですっかり忘れていた。今の自分は、男物のトランクス1枚しか身に着けていないということを。
うわー。俺、おっぱい丸出しじゃん。
そう意識した途端、急激に恥ずかしさがこみ上げてきた。
なんてこった。とんだ痴女じゃないか。こんな格好で他人の前に出ていたなんて・・・。
周りの目を意識したせいか、それまでは何ともなかったのに、なんとなく胸を見られているような感じがしてきた。とっさに両腕でさっと大きな胸を隠した。
ひとまず服を着なくては。
両腕で胸を覆いつつ、逃げるように部屋に駆け込んだ。
「ふう・・・」
自分の部屋に戻ったトシアキはドアを背にしたまま一息ついた。
小走りになったせいか、胸部の付け根あたりが痛かった。痛みのせいで身体の変化を否応なしに自覚させられる。やっぱり女なんだという鬱屈とした気持ちが湧いてきて、大きなため息を吐いた。
どうして胸を見られて恥ずかしがらなきゃいけないんだ。まったく男なのに情けない。
そう、俺は男なんだ、俺はおとこ・・・。
念仏のように胸の内で繰り返しつつ、近くに掛かっていた白いTシャツを取ろうとした。
ふとTシャツのすぐ横に目がいった。そこにはスタンドミラーが立てかけられており、トシアキの現在の容姿をはっきりと映し出していた。
その姿に思わず体の動きが止まる。
「おお・・・」
鏡に映し出された少女は、トランクスのみという情けない格好ではあったが、それでも外見のよさは損なわれていなかった。
小さく整った顔はまだ幼さを残していて、美人というよりは可愛らしいタイプだ。その後ろに、栗色の長い髪を伸ばしている。
体格は男のころよりもかなり華奢になったようだ。ほっそりとした色白の腕が綺麗だった。とはいえやせ体型というほどではなく、女性としてはこれくらいの肉付きが普通なのかもしれない。
胸部のふくらみは、子供っぽい顔やスリムな体型とは不釣り合いなほどに豊かだった。美しいふたつの山の先端には、桃色の突起がささやかに主張している。
腰のラインもゆるやかだがしっかりと曲線が描かれており、男の無骨な身体とはまた違った雰囲気を醸し出していた。また臀部は、トランクスの上からでわかりにくかったが、前よりも肉がついているようだ。
トシアキは唸った。
我ながら魅力的な外見だった。
顔は可愛い。その上スタイル抜群。少し子供っぽいところを除けば異性として文句のつけようがない。同じクラスの女子と比べても全く遜色のない外見レベルだ。
欲を言えば、この子が自分自身ではなく、ごく普通に異性として知り合えていたらもっとよかったのだが。
しばらくの間、彼は己の美貌にうぬぼれていた。
だが、ふとある懸念事項が頭に浮かんできた。
この姿には、元の自分っぽさがほとんど見当たらない。
目の前の女の子は元の肉体とはかけ離れて、男の頃の面影はほとんど見られなかった。性別はもちろん、髪や顔、肌や骨格に到るまで、おしなべて別人になってしまっている。目つきになんとなく面影があるくらいで、これもはっきりとはわかりにくい。
――果たして、こんな自分を周りの人たちは「トシアキ」として認識してくれるのだろうか?
――もしかしたら、知らない女子としか思ってもらえないのではないか?
疑問を認識すると、たちまち不安感が押し寄せてきた。
悪い想像が次々と浮かび上がる。
トシアキという人物はすでに世界から消え、いるのはただの名もなき少女だけ。16年間積み上げてきた男としての人生は、理不尽な突風によって塵芥と化した。
誰にも認識されないまま、男としての自分は死んでいくのだろうか。
改めて、己の不運を呪った。
惨憺たる気分で立ち尽くすトシアキを横から呼ぶ声がした。
「あのー」
完全に虚を突かれ、声がうわずる。
「え?」
びっくりして声がしたほうを向いた。
そこには、寝間着姿の男子がそばに立っていた。ばつが悪そうな目でこちらを見ている。
よく見知った顔を確認したことで、トシアキは安堵した。
彼はハヤトという。トシアキのルームメイトで、この部屋に共同で暮らしている。
パジャマ姿やぼさぼさの髪から察するに、まだ起きたばかりのようだ。眠そうな友人の姿を見て、トシアキの直感がぱっと閃いた。
ハヤトとは寮を通じて知り合った友達で、それなりに気心の知れた仲の人物である。
こいつなら、事情をわかってくれるかもしれない。胸にほのかな期待感が膨らむと、にわかに心拍数が上がるのを感じた。。
「すんません、ちょっといい――」
ハヤトが何か言いかけたが、それを遮ってトシアキは喋った。
「あ、ハヤト! 聞いてくれ、ちょっと大変なんだよ!」
喋りながらハヤトの肩を掴む。
「あのさあ、実は俺、女になっちまったんだよ! そう、女に! 今朝起きたらさ、いきなりこんな見た目になってて、えーと、んー、自分でもよくわからんけど、とにかく本当なんだよ! な!」
「ちょ、ちょっ・・・」
ここでハヤトの顔がぐらぐら揺れているのに気が付いた。どうやら肩を掴んだまま前後に揺らしてしまっていたようだ。
「あ、悪い悪い、つい興奮して」慌てて手を離した。
「ふう・・・。な、なんすかいきなり」
「いやまあその、だいたい今言った通りなんだけど、さっき起きたら女になってたんだよ! ありえないだろ普通? 俺もわけわかんなくて」
「・・・・・・」
ハヤトは目を白黒させ、キツネにつままれたような顔をしている。
「あ、すまん。俺、トシアキなんだよ、トシアキ。この見た目じゃわかんないと思うけどさ」
「・・・え、トシ?」
ピクっとするハヤト。
「ああ、お前と相部屋のサガミトシアキだ。れっきとした男だよ。そう、男、だったんだけど、なんでか急に女になってて」
ハヤトは少し黙っていたが、やがて怪訝そうに口を開いた。
「・・・本気で言ってる? からかってるとか、そういうのじゃなくて?」
「違うって!本気だから!だいたい、なんでこんな嘘をつく必要あるんだ」
本人としては真剣に説明しているつもりだったが、上手く伝わっていないようだ。より真剣味が出るように意識する。
「な、頼む、わかってくれよ! こんなこと言えるのはお前しかいないんだって!」
両手を強く握り、身体を乗り出して力説した。
あまりの熱気にハヤトはたじろいだ。「あーもう、わかったわかった」手を前に出してトシアキを制止する。
「わかったから、落ち着けって」
「本当!?」
「ほんとだって」
「俺だってわかる?」
「わかるよ、この押しの強さはトシそのものだ」
ついに肯定の言葉が聞けた。
理解のある友人を持っていてよかった。彼にはちゃんと感謝をしよう。
舞い上がるトシアキをよそに、ハヤトは若干こちらから目を逸らして言った。
「だからさ・・・とりあえず、服着てくれない?」
そう言われて、トシアキはまたも己が半裸だったことを思い出した。
しまった。またやってしまった。
シャツを着ようとして、そのまま忘れていたのだ。
「いくらトシが男って言ってもさ、胸くらいはしまってくれないとこっちも困るよ」
ハヤトの顔はすっかり紅潮していた。
トシアキは、またしても上半身を露出させたまま、今度は友人に身を乗り出して迫っていたのだった。思春期の男子にとって強すぎる刺激だったのは想像に難くない。
赤らんだ彼の顔を見ていると、なぜか自分まで恥ずかしくなってきた。胸を出して出歩いた時とはまた違う。これまでに感じたことのない、全身がむずがゆくなるような気分だった。
「あ、ああ・・・」
小柄な少女は小さくうなずいて、そばに掛かっていたTシャツを手に取った。