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無題  作者: あきの
3/5

2

 

 まさか、女になるなんて・・・



 蛇口の前で膝をついたトシアキは、四つん這いになったまま地面と顔を合わせていた。

 最悪な気分だ。

 胸の中には黒い煙がもうもうと立ちこめている。薄暗い絶望感が、トシアキの心臓を鷲掴みにする。

 一体、俺はどうしてしまったんだろう・・・

 ひたすら夢が覚めるのを待つように、ただ虚ろに地を見つめていた。


 どのくらいの間そうしていたかはわからない。トシアキにはずいぶん長いような気がしたが、実際はほんの短い間だったかもしれない。

「あ、あのー・・・」

 頭上から、おそらく自分に向けられたと思しき声がした。その一声が、沈んでいたトシアキをぐんと現実に引き上げた。

 顔を上げると、バリカンを片手に持った男が不安そうにこちらを見ていた。隣でヒゲを剃っていた人だ。

 近くに人がいたことを今更ながら思い出した。慌てて立ち上がる。

「・・・え、えーと、その」

 恐る恐るといった感じで尋ねられた。

「だ、大丈夫ですか?」

「え? あ、はい」

 何が大丈夫かわからず、適当に頷く。

「あ、そうですか・・・。いやその、突然だったんで、ちょっとびっくりしたっていうか・・・」

「はぁ」

「あの、なんか邪魔しちゃったみたいならすみません」

 しゃべり終えると、彼はすぐに横を向いてしまった。顔を赤くしているのが見えた。緊張しているのだろうか。

 不審者か何かだと思われているのだろうか。まあ、そうだとしても仕方のない話だが。

自分の挙動を鑑みるに、不審がられるのも無理はなかった。文就寮には男しか住んでいない。そんな空間に女が現れて、いきなり自分の胸を揉んだあげく床に倒れ込むなんて、とんだ奇人である。

 だからといって、まっとうな事情や経緯を説明できるわけでもないのだが・・・。こんな顔や膨らんだ胸で男ですなんて言っても、相手にしてくれる気がしない。

 ・・・ん、胸?

 そこまで考えたところで、ふと自分の格好を思い出した。

性別が変わったというショックですっかり忘れていた。今の自分は、男物のトランクス1枚しか身に着けていないということを。

 うわー。俺、おっぱい丸出しじゃん。

そう意識した途端、急激に恥ずかしさがこみ上げてきた。

なんてこった。とんだ痴女じゃないか。こんな格好で他人の前に出ていたなんて・・・。

 周りの目を意識したせいか、それまでは何ともなかったのに、なんとなく胸を見られているような感じがしてきた。とっさに両腕でさっと大きな胸を隠した。

 ひとまず服を着なくては。

 両腕で胸を覆いつつ、逃げるように部屋に駆け込んだ。



「ふう・・・」

 自分の部屋に戻ったトシアキはドアを背にしたまま一息ついた。

 小走りになったせいか、胸部の付け根あたりが痛かった。痛みのせいで身体の変化を否応なしに自覚させられる。やっぱり女なんだという鬱屈とした気持ちが湧いてきて、大きなため息を吐いた。

 どうして胸を見られて恥ずかしがらなきゃいけないんだ。まったく男なのに情けない。

 そう、俺は男なんだ、俺はおとこ・・・。

 念仏のように胸の内で繰り返しつつ、近くに掛かっていた白いTシャツを取ろうとした。

 ふとTシャツのすぐ横に目がいった。そこにはスタンドミラーが立てかけられており、トシアキの現在の容姿をはっきりと映し出していた。

 その姿に思わず体の動きが止まる。

「おお・・・」

 鏡に映し出された少女は、トランクスのみという情けない格好ではあったが、それでも外見のよさは損なわれていなかった。


 小さく整った顔はまだ幼さを残していて、美人というよりは可愛らしいタイプだ。その後ろに、栗色の長い髪を伸ばしている。

 体格は男のころよりもかなり華奢になったようだ。ほっそりとした色白の腕が綺麗だった。とはいえやせ体型というほどではなく、女性としてはこれくらいの肉付きが普通なのかもしれない。

 胸部のふくらみは、子供っぽい顔やスリムな体型とは不釣り合いなほどに豊かだった。美しいふたつの山の先端には、桃色の突起がささやかに主張している。

 腰のラインもゆるやかだがしっかりと曲線が描かれており、男の無骨な身体とはまた違った雰囲気を醸し出していた。また臀部は、トランクスの上からでわかりにくかったが、前よりも肉がついているようだ。

 

 トシアキは唸った。

 我ながら魅力的な外見だった。

 顔は可愛い。その上スタイル抜群。少し子供っぽいところを除けば異性として文句のつけようがない。同じクラスの女子と比べても全く遜色のない外見レベルだ。

 欲を言えば、この子が自分自身ではなく、ごく普通に異性として知り合えていたらもっとよかったのだが。


 しばらくの間、彼は己の美貌にうぬぼれていた。

 だが、ふとある懸念事項が頭に浮かんできた。

 この姿には、元の自分っぽさがほとんど見当たらない。

 目の前の女の子は元の肉体とはかけ離れて、男の頃の面影はほとんど見られなかった。性別はもちろん、髪や顔、肌や骨格に到るまで、おしなべて別人になってしまっている。目つきになんとなく面影があるくらいで、これもはっきりとはわかりにくい。

 ――果たして、こんな自分を周りの人たちは「トシアキ」として認識してくれるのだろうか?

 ――もしかしたら、知らない女子としか思ってもらえないのではないか?

 疑問を認識すると、たちまち不安感が押し寄せてきた。

 悪い想像が次々と浮かび上がる。

 トシアキという人物はすでに世界から消え、いるのはただの名もなき少女だけ。16年間積み上げてきた男としての人生は、理不尽な突風によって塵芥と化した。

 誰にも認識されないまま、男としての自分は死んでいくのだろうか。

 改めて、己の不運を呪った。


 惨憺たる気分で立ち尽くすトシアキを横から呼ぶ声がした。

「あのー」

 完全に虚を突かれ、声がうわずる。

「え?」

 びっくりして声がしたほうを向いた。

 そこには、寝間着姿の男子がそばに立っていた。ばつが悪そうな目でこちらを見ている。

 よく見知った顔を確認したことで、トシアキは安堵した。

 彼はハヤトという。トシアキのルームメイトで、この部屋に共同で暮らしている。

 パジャマ姿やぼさぼさの髪から察するに、まだ起きたばかりのようだ。眠そうな友人の姿を見て、トシアキの直感がぱっと閃いた。

ハヤトとは寮を通じて知り合った友達で、それなりに気心の知れた仲の人物である。

 こいつなら、事情をわかってくれるかもしれない。胸にほのかな期待感が膨らむと、にわかに心拍数が上がるのを感じた。。

「すんません、ちょっといい――」

 ハヤトが何か言いかけたが、それを遮ってトシアキは喋った。

「あ、ハヤト! 聞いてくれ、ちょっと大変なんだよ!」

 喋りながらハヤトの肩を掴む。

「あのさあ、実は俺、女になっちまったんだよ! そう、女に! 今朝起きたらさ、いきなりこんな見た目になってて、えーと、んー、自分でもよくわからんけど、とにかく本当なんだよ! な!」

「ちょ、ちょっ・・・」

 ここでハヤトの顔がぐらぐら揺れているのに気が付いた。どうやら肩を掴んだまま前後に揺らしてしまっていたようだ。

「あ、悪い悪い、つい興奮して」慌てて手を離した。

「ふう・・・。な、なんすかいきなり」

「いやまあその、だいたい今言った通りなんだけど、さっき起きたら女になってたんだよ! ありえないだろ普通? 俺もわけわかんなくて」

「・・・・・・」

 ハヤトは目を白黒させ、キツネにつままれたような顔をしている。

「あ、すまん。俺、トシアキなんだよ、トシアキ。この見た目じゃわかんないと思うけどさ」

「・・・え、トシ?」

 ピクっとするハヤト。

「ああ、お前と相部屋のサガミトシアキだ。れっきとした男だよ。そう、男、だったんだけど、なんでか急に女になってて」

 ハヤトは少し黙っていたが、やがて怪訝そうに口を開いた。

「・・・本気で言ってる? からかってるとか、そういうのじゃなくて?」

「違うって!本気だから!だいたい、なんでこんな嘘をつく必要あるんだ」

 本人としては真剣に説明しているつもりだったが、上手く伝わっていないようだ。より真剣味が出るように意識する。

「な、頼む、わかってくれよ! こんなこと言えるのはお前しかいないんだって!」

 両手を強く握り、身体を乗り出して力説した。

 あまりの熱気にハヤトはたじろいだ。「あーもう、わかったわかった」手を前に出してトシアキを制止する。

「わかったから、落ち着けって」

「本当!?」

「ほんとだって」

「俺だってわかる?」

「わかるよ、この押しの強さはトシそのものだ」

 ついに肯定の言葉が聞けた。

 理解のある友人を持っていてよかった。彼にはちゃんと感謝をしよう。

 舞い上がるトシアキをよそに、ハヤトは若干こちらから目を逸らして言った。

「だからさ・・・とりあえず、服着てくれない?」

 そう言われて、トシアキはまたも己が半裸だったことを思い出した。

 しまった。またやってしまった。

 シャツを着ようとして、そのまま忘れていたのだ。

「いくらトシが男って言ってもさ、胸くらいはしまってくれないとこっちも困るよ」

 ハヤトの顔はすっかり紅潮していた。

 トシアキは、またしても上半身を露出させたまま、今度は友人に身を乗り出して迫っていたのだった。思春期の男子にとって強すぎる刺激だったのは想像に難くない。

 赤らんだ彼の顔を見ていると、なぜか自分まで恥ずかしくなってきた。胸を出して出歩いた時とはまた違う。これまでに感じたことのない、全身がむずがゆくなるような気分だった。

「あ、ああ・・・」

 小柄な少女は小さくうなずいて、そばに掛かっていたTシャツを手に取った。


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