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トシアキが気持ちよく眠っていると、意識のどこか遠くのほうから、なにやら規則的な電子音が鳴り響いてきた。
「・・・・・・」
おぼろげな意識の中でも、それが目覚ましのためにセットしたアラーム音であることはわかる。面倒くさいので無視していると、その音はだんだんと大きくなってきた。
トシアキは少しいらついた。自分で設定したアラームとはいえ、すこやかな睡眠を邪魔されるのは気持ちのいいものではない。さらに無視を続ける。そんな彼の気分などは全く意に介さず、電子音は鳴り続ける。
「んっ・・・」
そろそろ止めないとまずくなってきた。彼は寝っ転がったまま、頭上に腕を伸ばした。残念ながら手は目的のものには届かず、虚しく空を掴んだ。
仕方なく、全身をずるずるとくねらせ、少しずつ身体を上に持っていく。やがて指先が固いものに触れた。おそらく彼がアラームをセットしたスマートフォンだろう。これを操作して停止ボタンを押せば音は鳴り止む。彼はそれを指で手繰り寄せ、手にとった。
「ん?」
そのとき、ほんのかすかな違和感が彼を襲った。
手に持ったスマートフォンがいつもより幾らか大きくなっているような感じがした。普段は手にすっぽり収まるサイズだったのが、今持っているそれはどうも収まりが悪かった。気のせいといえなくもない微妙な差ではあったが、なんとなく引っかかった。
しかし、その違和感はすぐに記憶から放り出された。普通に考えればスマホが大きくなるはずがない。きっと目が覚めたばかりで感覚がおかしくなっているのだろう、と半ば無意識に思った。
スマートフォンの画面に表示されている停止ボタンを押し、アラームを止める。
鳴りやんだスマホを枕元に戻すと、再び眠気が襲いかかってきた。このまま二度寝を決め込むのもいいかも、と一瞬だけ甘い誘惑に流されそうになったが、まぶたを閉じかけたあたりで、どうして自分がこんな朝早くから起きたのかを思い出した。
そういえば、今日は部活の練習試合があるのだった。寝ほうけている場合ではない。
慌てて布団から上体を起こして立ち上がった。
すると、
「おわっ」
不意に身体がぐらつき、あやうく前方に倒れそうになった。とっさに側にあった椅子に手をつく。
立ちくらみだろうか。起きたばかりでいきなり立ち上がると、頭がふらふらして上手く立てないことがある。貧血気味なトシアキにはよく起こることだった。
ただ、立ちくらみにしてはおかしい部分がある。今朝は身体を起こしたときから、上半身の胸のあたりに妙な重量感があった。そのせいで、立ち上がったときに重心が前に傾き、危うく転びそうになってしまったのだ。まるで身体の一部に重りがついていて、その重みに引っ張られるような感じだった。
結局、トシアキは大して気にとめなかった。気にならないわけではなかったが、今はとりあえず部活へ行く準備をすることを優先した。単に眠くて頭がよく回らなかったというのもあるが。
後頭部を掻きながら部屋の出入り口まで歩いていき、ドアノブに手をかけた。
これを回して手前に引けばドアは開く。毎朝のようにする当たり前の行動だ。
ところが、
「あれ?」
ドアノブに触れたとき、またしても違和感を覚えた。心なしか、ノブが前より大きくなっているような気がする。
スマホの時と同じだ。昨日よりも大きくなっている。しかも、一度ならず二度までも・・・。
一旦ノブから手を離し、もう一度掴み直してみたが、結果はさっきと同じだった。やはり違和感がある。さらに、ノブが大きいだけでなく、少し位置が高くなっているのにも気がついた。
「・・・?」
度重なる妙な感覚に、さすがに不安になってきた。今日はなんか調子がおかしい。きっと、変な時間に起きたせいだ。さっさと顔を洗って目を覚まそう。
そう自分に言い聞かせながら部屋を後にした。
文就寮の流しは各階の廊下に2つずつ設置されている。トシアキが住む203号室からは部屋を出たすぐ先にある。
トシアキが向かった流しには、既に先客がいた。ひとりは鏡を凝視しながらヒゲを剃っている。もうひとりはぼんやりとした顔つきで歯を磨いていた。ふたりともTシャツにトランクスという、なんともだらしのない格好だった。
蛇口はまだいくつも空いていたので、適当に近くの流しで顔を洗うことにした。この流しは複数人が同時に使えるようにかなり長くスペースが取られている。
流し台に近づくと、それまで歯ブラシをシャコシャコ動かしていた奴がこちらに気づき、手を止めて視線を向けてきた。
反射的にそちらを一瞥したところ、トシアキは思わず仰天した。歯を磨いていた男の表情は尋常ではなかった。目を見開き、口をぽかんと空け、まるで未知の生き物に遭遇したかのような顔つきをしている。彼はトシアキの視線に気付くと、さっと目を逸らし、わざとらしく歯ブラシを動かし始めた。その後も、こちらが気になるようで横目を向けてきている。
露骨に怪しかった。明らかに、普通の人を見る目ではない。あそこまで奇異の目を向けられる理由が思いつかなかった。トシアキという男は、特に目立った特徴もない、ごくありふれた背格好の若者だと、少なくとも自分ではそう思っている。
人そのものではなく服装がおかしいのかもしれない。昨日の夜、蒸し暑くてパンツ一丁になって寝たので、今もその格好のまま着替えていない。ただ、下着姿で廊下をうろつく男はここでは別に珍しくもなんともなかった。
考えたところで何もわからなかった。これに限らず、今日は朝から腑に落ちない出来事が多すぎる。一体自分はどうしてしまったんだろうか。もしかして変な病気にでもかかったんじゃないか? そう思うと背筋がぞっとした。
暗い想像を洗い流さんとするように彼は蛇口をひねり、水をすくい上げて何度も顔にかけた。ひんやりとした冷たさが頬を潤す。水を浴びるたびに、少しずつ意識がはっきりしていく。
だんだんと頭が冴えてくるにつれて、不安も少しずつ落ち着いてきた。整然とした考えもできるようになってくる。
ものが大きく感じられたり、身体バランスがおかしくなったりというのは、確かに不気味ではある。ただひとつひとつを見れば大した出来事じゃないし、日常生活に支障が出てから考え直せばいいだろう、と思い直した。さきほど不穏な目で見られた件については、とりあえず鏡で顔を確認して、すぐに判別できるような異常がなければとりあえずは大丈夫だ。
顔を洗い終えると、手前の壁に嵌められている鏡を覗き込んだ。もし、よほど目立つほどの傷やたんこぶといったものがあるのならすぐにわかる。何もなければ、それはそれで普通に生活すればいいだけだ。
しかし、そこに写っていたのは、まるっきり予想していないものだった。
「・・・?」
鏡の向こう側に、自分がよく知っている男子高校生の姿はなかった。
映っていたのは、なんと。見慣れない少女の姿だ。どこの誰とも知らない女の子が、きょとんとした顔でこちらを見つめていた。
「・・・うぇっ?!」
あまりに予想外の出来事に、つい声が出てしまった。すると、女の子もそれに呼応するように口を開けて驚いた素振りを見せた。
戸惑いながらも右手を開いた口に当てると、今度は女の子も左手を口に当てた。思わず口にやった手を離すと、女の子も同じしぐさをした。
「えっ・・・えっ・・・?」
脳の処理が追いつかず、ただただ絶句する。頭の中がぐるんぐるん回っている。
その混乱の中で、ふと嫌な予感がした。決して考えたくないような予感だ。
試しに右の頬をつねってみた。やはりというべきか、女の子も同じポーズをとった。今度は思い切り頬を引っ張る。皮膚がじーんとした。女の子も頬を引っ張っていた。
できれば夢であってほしかったのだが、どうやらそうはいかないらしい。
鏡に映っているこの子は、まさか自分自身なのか。いや、そんな馬鹿な。そもそも俺は男なんだ。鏡の中にいるのはどうみても少女である。でも、さっきから彼女は自分と全く同じ動きをしていた。ということは・・・
混乱しながらも、一方で、トシアキの眼は目の前にいる女の子を観察していた。
栗色の髪を肩より長く伸ばした、可愛らしい少女だった。中学生くらいだろうか。まだ幼さが抜けきらない顔つきだ。目元はぱっちりとしていて、どことなく見覚えのあるような気がした。
女の子は肩下あたりまで映っていたが、上には何も身につけていないようだった。あらわになった肩まわりの曲線に、思わずどきっとしてしまった。さらにほんの一部だけではあるものの、胸の谷間が確認できた。
ふつふつと、男としての好奇心が湧いてきた。彼は鏡から数歩遠ざかったみた。
鏡に女の子の肢体が映り込む。幼げな顔とは裏腹に、意外にも豊満なボディの持ち主だった。特に、その立派なふたつの乳房には、トシアキもつい我を忘れて見入ってしまうほどだった。
・・・いや、今はそれどころではない。男として目に焼き付けておくべきものはあるが、それよりも、今は自分の身体がどうなっているのかを確かめるのが先だった。
彼はすぐに視線を下に向けた。
案の定、そこには二つの大きな山があった。それらは、なぜ今まで気がつかなかったのかというほどに存在感を放っている。
すかさず左右の手で掴んでみた。それはとてもやわらかく、手の動きに合わせてむにゅむにゅと形を変えていく。
肌から伝わる手の感触が、その脂肪が本物であることを告げていた。間違いない。今の自分には乳房がついている。
これまでとは違い、確たる物証を突きつけられた気分だった。明確に己が女子であると宣言されているようだった。悪い予感は当たっていた。
やはり女に――
にわかに現実感が湧いてきた。背筋がさっと凍っていく。
性転換。そんな空想めいた現象が、まさに今、自分の身に起こっている。
ふざけた話だった。あまりに馬鹿馬鹿しい。
トシアキは目線を下げ、下半身に目をやった。もし男のままなら、立派な一物が生えているはずの場所だ。
せめて、ここが無事なら。
ひと思いでトランクスをめくり、藁にもすがる思いで中を覗き込んだ。
「・・・・・・」
「・・・・・・な、ない」
無念。
そこにはもう何もなかった。雄としてのシンボルは消え失せ、ただ平坦な丘があるだけだった。
トシアキは全身の力が抜けるのを感じた。最後の砦が無情にも崩れ去っていく。
地面に膝をつき、『彼女』はその場に崩れ落ちた。
上半身裸にトランクス一丁という、女子としてはあまりに奇抜すぎる格好で。