髪を切れ。 御託編2
ジョギン!
神さまが裁ち鋏の刃をこすり合わせるたび、背筋を虫でも這いまわっているかのような嫌な感じがした。
「か、神さまが、切ってくれるんですか?」
「なんじゃ、嫌なのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「……『そんな鋏でまともに散髪できるわけないだろ。何考えてんだ』と、其方の心が言うておるわ」
持ち手の丸く穴が開いている部分に指を入れてクルクルと回しながら、神さまは軽く頬を膨らませた。
危ないなぁ。すっぽ抜けて飛んできたらどうし――
「――ひっ!?」
どんどん回転数を上げて扇風機のプロペラよろしく回転していた裁ち鋏。
それはわが身を案じる俺の心に呼応したかのように神さまの小さな人差指からすっぽ抜け、ブゥゥン、という低い風切音を残して俺の左耳を掠めて飛んでいった。
ゴスッ! ガチャン!
「…………」
壁に激突。フローリングに落下。振り返らなくても神さまの目線が全てを物語っていた。おしろいを塗っているかのように白い肌に差し込む赤味が可愛らしい頬を一筋の汗が伝う。
やがて、彼女の視線は俺の左後上方の壁辺りに固定された。
「だ、大丈夫じゃ徒真理。小麦粉でも水に溶いて塗っておけば」
壁に出現した幅五ミリ、長さ二センチ弱、深さ一センチほどの溝――壁紙を越えて鉄筋コンクリートに至る――の下で崩れ落ちる俺の背中に、神さまの御言葉が追い打ちをかける。
「……後からカビが生えたら?」
俺は振り返らず、床に膝立ちになって裁ち鋏の黒い持ち手を握り締めた。梅雨入り宣言はとうの昔に行われている。今日はたまたま晴れているが、夕焼け空の向こう、水平線の上にはむくむくと明日の雨を予想させる雲が成長していた。
「い、いや、たしか歯磨き粉でもイケると聞いたことがあるのじゃ」
神さまは退去前の学生の様な豆知識を披露する。
「……うちにあるのは三色混ざっているやつなんですけど」
「…………」
神さまは小さく「ぐぬぬ」と言って口をつぐんだようだ。俺は立ち上がり、裁ち鋏の柄の方を彼女に差し出した。
「はい。小さい子が、危ないもので遊んじゃだめだよ?」
「おのれ徒真理、我を愚弄するか――」
「ん?」
「ご、ごめんなさいなのじゃ」
壁を振り返ってから笑顔を作ってみせると、神さまは素直に謝罪した。
ふっ。さんざ引っ叩かれたお返しだ。
「其方、大人気ないのう……」
「そうですかね。ま、それはともかく本当にそんな無骨な鋏で髪を切るんですか?」
あまりしつこくイジメると何をされるかわからないからな。この辺で話を戻そう。
「バサッと切るだけならこれで十分じゃろう。しかし不満じゃと言うのであれば、我が所有している鋏と言えばあとは……」
神さまがうなじの辺りに手をやり、黒髪の中から何かを掴んで引っ張り出す。猟銃のような持ち手、長く伸びる柄――
「神さま、それは」
「うむ。これなら其方が立ったままでも髪を刈ることができるやも――」
「そ、それは高いところの枝を切るやつだ!」
早く仕舞ってください!
俺はバタバタと手を振り懇願した。
発売以来ウン十年。未だに改良型や新型が開発されるたびに売れ行き好調だというそれは、小さな体で操れる代物ではない。うっかり壁に傷を付けられてはたまらない。
そんな俺の様子を見た神さまは、鶯豆のような形の引き眉を少しだけ上げた。
「ほう、タカエダノキリバサミノミコトを知っておるのか?」
「いや、勝手に神格化するな! さっきの裁ち鋏にしても、髪を切る道具じゃない!」
「左様か? じゃが、取扱い説明書に『髪を切ってはならない』とは書いてなかったのじゃ」
「だからって『髪を切ってもいい』とはならないでしょ!?」
訴訟大国として名高い連邦国家の国民のようなことを言い始めた神さまは、「意外と使えんのぅ……」などと呟きながらタカエダノキリバサミノミコトを髪の毛の中に仕舞った。そして、手持無沙汰になったのか代わりにハリセンを取り出して肩に担いだ。
「しかしのぅ、徒真理。我に髪を切らせないとなると……」
神様はニヤリと笑ってこちらを見ている。
やられた。
俺は人ならざる神の手で踊らされていたことを知り、戦慄を覚えた。
自分で髪など切れるはずもない。
こればかりは誰かに切ってもらわなければどうしようもない。
だが。
俺は姿見に映る自身の姿を見る。
美容院に通っていた頃とはかけ離れた見た目。あの頃のように美容師さんの他愛無い会話に応じながら、洒落た内装に色を添える観葉植物やアロマの香りに囲まれて、無駄にイケメンだったり美女だったりする彼らに髪と頭皮を触られる――脂っこいオッサンと化した自分。
想像するだけで冷や汗が出る。
ならばオヤジの聖地――床屋はどうだ。
要らぬ洒落っ気を排し、酸いも甘いも噛み分けた主人が一人で切り盛りしているような、タバコと整髪料の匂いが染みついたガタつくチェアが二台だけ。そんな床屋なら。
「ふふん。徒真理よ。其方が恐れておるのはそこではあるまい」
「…………そうだ」
神様の言う通り。
美容院だろうが床屋だろうが流行りの千円カットだろうが、外に出ないことには髪を切ってもらえないのだ。
だが、彼らが営業している時間帯、街は人で溢れている。
なんの、出張美容室がある。
俺は姿見がある部屋――かつての夫婦の寝室――を出てリビングダイニングを見渡す。
こんな部屋に他人を入れることはできない。
これは見栄とかそういう感情ではない。常識的な尺度でもって、この部屋は人を招くための条件を満たしていないのだ。
ゴミで埋め尽くされ、正直なところ異臭がする。俺一人が移動する部分が獣道のように作られてはいるが、ベタつくフローリングの感触は不快極まりないものだ。
単純に言って、この部屋に床屋さんに来てもらうのは失礼にあたる。俺の身体は不健康であっても、片付けることができないわけじゃないんだからな。
「ふん。片付けて出張理容を頼む――か」
部屋に大量のFAX用紙をばら撒いて状況を悪化させた神さまが鼻で笑った。
「出張理容の料金はそれなりに割高じゃ。其方ニートとやらのくせに、それを利用する余裕があるのか?」
「…………」
金はある。
両親が定期的に口座に金を振り込んでくれているからな。出張理容どころか高級サロンにだって行ける。
「親とは悲しいものよ。其方がどんなに関わりを断とうとしても、こうやって手を差し伸べようとしておる。銀行に入金に行くたび、残高の変動を見て其方の暮らしぶりを予想するしかない彼らの心情を鑑みると、我でも胸が苦しゅうなる」
「…………」
神さまは小さな冊子をパラパラとめくりながら嘆息した。俺の預金通帳をどこから取り出したのかという疑問よりも、銀行のATMに並ぶ両親の姿が脳裏に浮かんできた。
残高が減っている限り、金を引き出した俺が生きていることを知る。その多寡でもって俺が何をしているのかを想像するのだろう。
俺が自宅に引きこもるようになった当初は、大きな引き落としがあればカードを盗まれたのではないかと心配になり電話をかけてきた。反省して節約してみれば「きちんと食べているのか」「病気しているのじゃないか」そんな風に電話やらメールやら送り付けてくることが堪らなく鬱陶しく感じられた。
その裏にあったのは情けなさだ。
いい年をして親に金の心配をしてもらわねばならない。
始めのうちは、家族を亡くした悲しみに暮れていた。
何故愛子と海斗は死ななければならなかった。
何故俺ばかりこんな情けない目に遭わなければならない。
何故両親はいちいちいちいち電話してこなけりゃ気が済まない。
何故何故ナゼ何故なぜ何故なゼ…………
「徒真理、徒真理よ、帰って来い」
すぱーん!
「はっ!?」
神さまの一撃で、俺は現実に帰ってきた。
「よいか徒真理。今の其方は生活の糧を親に頼らねばならぬ身よ。元々稼ぎがよかった故に、其方がそれを恥じる気持ちは相当に大きかろう」
「……いや、それよりも」
「ふむ?」
神様は右だけ眉を上げて先を促してきた。
「いや……」
俺は言い淀んだ。
神さまの試練は「髪を切れ」だ。
切るだけなら神さまの裁ち鋏にズバッとやってもらえばいい。
ゲスッ!
「はうッ!?」
クリーンヒット! 身長百二十センチほどの彼女のやくざキックが見事に俺の左脛骨を打ち抜いた。かの武蔵坊ですら膝を突いたという人類共通の弱点だ。キックボクサーはさらしを撒いてビール瓶でそれを叩いて鍛えるというが、残念ながら俺はそんなことをしたことはない。
「痛ぅ……」
「徒真理よ。其方、本気で我に髪を切らせるつもりか?」
「『髪を切る』って鋏を取り出したのはそっちじゃ――」
「…………」
脛を抑えて蹲る俺を見下ろす神さまの目は笑っていない。その迫力に痛みも忘れて息を飲むと、彼女の顔にははっきりと侮蔑の色が浮かんだ。
「よいか徒真理……ヒトとて所詮は獣じゃ。しかして意味もなく己を飾りたて、自己満足に過ぎぬ悪臭を身に纏う獣は其方らくらいのもの。猫はきれい好きというが、確かに自分で毛繕いをして毛玉を吐いておる。対して其方らは自分で髪を切ることさえできぬくせにやたらと整容を気にかけておる。其方この違いをなんと心得る? 生物としてどちらが上等だとかそのようなことを問うているのではないぞ」
猫の毛繕いと人間がおしゃれを楽しむのとは意味が違う。というか、それとあんたに髪を切ってもらおうと思った俺の脛を蹴るのとなんの関係がある。
始めに頭に浮かんだのはそんな反論だった。
たしかに俺は自分で髪を切ることはできない。さらに、あんな無骨な鋏で髪を切られたくないと思った。適当に切られて失敗した盆栽のようになった自分の頭を想像するだけで空恐ろしく思え、そうなったら余計に外に出たくなくなるだろうと考えられた。
只でさえ外に出るのが怖いのだ。
世界は広い。
そこには日中診療所にやって来る人間とは比較にならない数の、種類の人々が蠢いている。
彼らの姿を見るだけでも辛いのに、奇異な髪形をした薄汚い中年を見る嫌悪と好奇心がない交ぜになった視線を浴びなければならないなんて。
無理だ。
やはり考えただけで冷や汗ものだ。隣近所の連中や管理人に目撃されたらどうする。一年前とは比べ物にならないほどに肥大し、乱れ髪でたるんだ顔を隠すように背中を丸めて歩く俺を。
「八方塞がりじゃのう、徒真理よ」
「…………」
ぐうの音も出ないとはこのことだ。
神様の試練を受けなければ、家族の声を聞くことはできない。
現在神さまが課したのは「髪を切れ」という一般的に言えば簡単なもの。
神様は髪を切ってくれる気はないらしく、俺は外に出ることはできない。
このままでは試練を達成できない。
このままでは――
「ふん。そうじゃ。其のままでは永遠に不可能じゃろうて」
鼻で笑ってそう言うと、神さまはクルリと回って俺に背を向けた。足袋を履いて床を滑るように移動する様は、能楽師の動きを連想させた。
このまま見捨てられてしまうのか。何か手立てを打てと気持ちは逸るが、俺の脳は何一つ打開策を打ち出せないでいた。
どうした徒真理。
たかが髪を切るだけだ。
何を偉そうに……外に出ることもできないくせに。
下唇を噛んで立ち上がろうとしたとき、心の奥底に溜まったヘドロの様な暗い淀みから声がした。
そんなことはない。もうすぐ日が落ちる。駅前の千円カットなら夜八時まで営業しているんだ。帰宅ラッシュが過ぎるのを待ってからそっと家を出れば――
それでも、誰にも会わないわけじゃないさ。たしか左隣の旦那さんは七時半~八時くらいに御帰宅だったな。電車通勤だからほとんどその時間は狂わない。ばったり会って、帰宅したら家内に話すぞ。「隣のご主人を久しぶりに見たけど、ありゃ完全に参ってるな。娘を外に出すときは気を付けろ」とな。
だったら、今日は諦めて明日の日中にするさ。主婦どもが家で昼飯を食いながらワイドショーを見ている時間帯だ。働いている連中も昼飯時だから、繁華街を避けて路地を進んで行けばすれ違うのは猫くらいのもんだ。
ああ、そうだろうさ。そしてお前は昼の休憩に入ろうとしていた床屋へ行くんだ。とんでもない迷惑だよな。昼飯前にお前に汚れた頭皮を触らされる理容師に同情するよ。そいつは先に休憩に入った奴に必ず愚痴るぜ。しかも髪を切るってのは一生に一度のイベントじゃないんだ。どう考えても三か月に一回――年に四回は切りに行かなきゃならん。その度に理容師はどんな顔でお前さんを迎えるだろうな。
だったら――
第一、お前いったい誰の金で髪を切りに行こうとしているんだ?
「…………」
泥沼の底に潜む主の勝ちだ。
俺は自分じゃ何もできないでくのぼう――
ゴスッ!!
「ぐわああッ!?」
目の前が真っ暗になった瞬間、何かが脳天に衝突した。神さまのハリセンとはまったく違う衝撃だった。まるで、靴下にこぶし大の石でも入れて振り下ろされたような――そんな経験はないが――感触だった。
「何をしておる徒真理! 面を上げぬか!!」
追撃に備えて両手で頭頂部をガードしつつ、痛みに呻く俺の頭上から神さまの凛とした声が響いた。
「…………?」
恐る恐る顔を上げると、神さまは両手を腰に当てて目を吊り上げていた。
「其方の心に巣くう闇に囚われ、奮起の芽を摘み取られる感覚はどうじゃ? 心地よいか?」
「か、神さま……?」
神さまの小さな右手が俺の顎下に伸びる。
「よいか徒真理。其方ら人間の社会において誰しもが持っておる通念を教えてやろう。それは、『模範的でありたい』という念じゃ。倫理観、正義感などと一緒に考えてよい。其方らは社会という群れを作って暮らす中で、そのような概念あるいは感情をもつことを美徳とする――美徳などという言葉自体が人間特有のものじゃが――通念を育ててきたのじゃ」
「美徳……」
「それを貴ばぬものは排斥される。其方らは弱い。ひとたび社会からはじき出されてしまえば自活していく能力全てを奪われてしまったかのように絶望し、打ちひしがれて再起できなくなってしまうのじゃ」
其方の場合ははじき出されたのではなく、自ら壁を作って閉じこもった故余計に始末が悪い。
神さまは吐き捨てるように言うと、顎クイを解いた。
「人は今言ったような美徳を貴ぶことを良しとする一方、ゴシップや醜聞に強い興味を惹かれるもの。其方の心の声が言うような陰口をたたくものも少なからずおるじゃろう。じゃが、それがどうした? 周りを見るのじゃ徒真理。BMIが26を越え、体脂肪率は27%以上を常にキープし、高脂血症に高血圧、糖尿病を患い、受診の度にどれほど指導しても受け入れない患者をどれだけ診てきた? よく考えるのじゃ。其方だけが特別か? 逃げるな、徒真理!」
背中に電流でも流されたようだった。
俺だけが特別じゃない。
悲しみと不健康な身体を背負った人はいくらでもいて、俺はかつて彼らの心身を健康へ導こうと奮闘していた。しかし、いつしかそれは食い扶持を得るための手段となり果て、俺の妄想に登場したご近所さんのように愚痴をこぼしていた。どれだけ指導しても無駄なんだよ。薬を飲めば健康だと思っていやがる。こんなのはまだかわいい方だ。もっと辛辣で、彼らの人生を否定する様な陰口をいくらでも叩いてきた。
俺のもとを訪れた患者はどんな気持ちだったろう。
俺が昼休みに愚痴るのを聞いていたスタッフはどんな目で俺を見ていたのか。
俺は、自分の内面の汚い部分を他人に投射することで目を背けていたんだ。
俺の敵は、俺の中に居た。
「わかったか、徒真理よ。其方が他者を恐れるのは、そのまま其方の内面の闇を恐れておるからよ。己を知り分際を知る者は、卑屈と言う名の鬼とは無縁なのじゃ」
「わかった……ような気がします」
「ほう、初めてそのような言を吐いたの。……では、どうする?」
「……風呂に、入ろうと思います」
神さまは一瞬目を丸くしたが、ニンマリと笑って頷いてくれた。