髪を切れ 御託編
「ハァ、ハァ……ん、んくっ、フゥ……ど、どうじゃ徒真理。こ、これで落ち着いたか」
神さまのつぶらな瞳が俺を見上げる。今更だが、小学生とは思えないほど大人っぽいというか、獣の様な行為の後の彼女は身体に似合わぬ艶っぽさがあった。成長すれば、男を惑わすカマキリ夫人のようになると思われた。事実、俺は彼女の激しい口撃だけで何度果てそうになったことか――
すぱーん!
「ひでゅッ!?」
「頭の中で誤解を与える描写をするな! うつけ者ォッ!!」
再び神さまのハリセンが飛んだ。俺はもんどりうって床に転がり張られた頬を抑えて彼女の目に訴えかけた。
ほんの少しだけだけど……か・い・か――
スパパパパパパパパパパッパパパッパッパパパパパッパパーン、ゴスッ!!!!
「はぐッ!? か、神さま、最後、蹴りが……」
「やかましいわッ! 妙な嗜好に目覚める前に腐って落ちてしまえばよいのじゃ!」
金玉を抑えて蹲る俺の背中に、神さまの無慈悲な言葉が突き刺さる。まったく、ちょっとした冗談も通じないとは。
「そのうち冗談では済まなくなるぞ。我としても友達が警察に捕まるのは忍びないのじゃ」
「そ、その恰好で交番に行けば、捕まるのは神さまの方ですよ」
「ギロリ」
「ひっ」
神さまの存在を受け入れ、つい飛びついてしまった俺をさんざひっぱたいたハリセン――ひと打ちごとに煩悩を払うという――を振り上げ、少女のものとは思えない、さすがは神さまとでも言うしかないプレッシャーがその目から発せられた。
「……まったく、あまり気概のない様を見せつけてくれるな。そんなことではこれからの試練を乗り越えられぬぞ」
情けなくも小さく悲鳴を上げてしまった俺を見下し、神さまは引き眉を下げて言った。少女姿の前に裸体を晒し、これ以上傷つくプライドなんてないと思っていたが、俺はその言葉で少なからず傷ついた。なるほど、これが要らないプライドというやつなのか。俺みたいなやつにもまだ、自分を誇りたいという虚栄心が――
すぱーん!
「なんでだ!?」
少し謙虚な考えが浮かんだというのに、神さまのハリセンが飛んだ。抗議の目を向ける俺に神様は嘆息を一つ返して口を開いた。
「ついでじゃから教えてやるが、無駄に卑屈になるのは禁物じゃ。謙虚とそれはまったくの別物じゃからの」
「謙虚と卑屈は別物……」
そんなこと言われなくても分かって――
「そうじゃ。其方の腹には卑屈の鬼が住み着いておるのよ」
無視か。
それにしても卑屈の鬼……か。
どうせ俺なんて。
こんなセリフがいつの間にか心の呟きの枕詞になっていたかもしれない。だが虚栄心を持っていることを自覚し、自分を偽らないスタイルを目指すことは悪いことじゃないだろうし、これを卑屈とは言わないだろう。
「其方、ぜんぜんわかっておらんなぁ……」
俺の思考を読むときの神さまは、俺の目を見ているようで見ていない。彼女は大きな目をより目がちにして、俺の眉間のあたりをジッと見つめていた。
「ぜんぜん、わかってないですか」
外見はともかく中身まで見透かされ、見た目小学生に何度もため息をつかれるというのはなかなか堪える。俺はそっぽを向いて、自分でもわかるほど憮然とした顔を作っていた。
そこへ、神さまのお告げが直接届けられる。
「はあ。よいか徒真理。武士は食わねど高楊枝、などと言うじゃろう? 飢えで死人が出るような時代に生きたものたちですら、いや、だからこそであったかもしれぬが、虚栄心を持っておった。其方が生きる社会がまったく見栄を張らないで生きて行けるものとは思えぬ。我が考える謙虚な者とは、己を知り、分を知る者のことじゃ」
さすれば、わざわざ謙虚になろうなどと感奮興起する必要はない。分際をわきまえる者は、自ずと謙虚な態度になろう。
神さまはそう言うと、ややふんぞり返って鼻の穴を膨らませた。もっともらしいことを言ってドヤ顔している小学生にしか見えないが、言っていることの筋は通っていると感じられた。
俺が神さまの言葉に聞き入っていることは伝わっているのだろう。「ドヤ顔~」のあたりで一瞬ハリセンが動いたように見えたが、神さまはすぐに満足そうに頷いた。
「わかったか。過剰に謙虚であろうとする必要はない。其方に必要なことはまず、己の現状を客観的に捉えることじゃ。ほれ、鏡を見るがよい」
再び鏡に向き直る。
相も変わらずたるんだ三十路の男がそこには映っていた。
「外見はさて置いて、徒真理よ。其方は何者じゃ?」
「何者と言われても」
「……察しの悪い奴じゃのう。では少し手伝ってやる故、我の質問に偽りなく答えよ」
「はぁ」
すぱーん!
後方で飛び上がった神さまのハリセンが後頭部に炸裂した。目から火花が出る――ほどには痛くない。頬を張られるより後頭部の方が楽だな。
「くだらんことを考えるな。よいか、返事は『はい』! 短く、語尾を飲み込むように口を引き結ぶのじゃ! やってみい!」
「はひっ――ぐうッ!?」
「なぜ舌を噛んでしまうのじゃ……」
◇
「では徒真理よ。我の質問に偽りなく答えよ」
「ひゃい!」
噛んでしまった舌先の痛みは大分マシになったものの、声を出すとまだ痛む。ここは一つ、心を読んでもらえないだろうかとお願いしたのだが、それは叶わなかった。
神様の一問一答をしている間は、鏡の前で自分の姿を見つめていろと言われたし、心を読むためには神さまが正面に立って前頭部――神さま曰く意志の中枢がそこにある。脳のことかと聞けば違うと言って笑った――を見ていないといけないのだそうだ。
兎にも角にも、舌の痛みに耐えながらの一問一答が始まった。
「其方の名は?」
「磯貝徒真理と申します」
「歳は?」
「三十三になります」
「国籍は?」
「日本です」
「職業は?」
「医者です」
すぱーん!
「……ニートです」
神さまがニンマリと頷いた。
「其方、何故仕事をしておらぬ?」
「…………」
手に付かないから、です。
心の表面では、そんな答えを導き出していた。内科と整形外科を標榜する実家の診療所には老若男女、たくさんの人が訪れる。
熱を出した我が子を連れ、不安げに時計と診察室の入り口を交互に見ている母親の姿。公園で自転車を運転する練習をしていてけがをした息子を連れた父親の姿。 退職後に夫婦で健康診断に訪れて、幸せそうに孫の話を語る老夫婦。
何を見ても、聞いても、海斗と愛子の姿を重ね、共に歳を重ねることができなくなった彼らを想い涙してしまう。とても患者を診察できる心理状態じゃなかった。
俺は神さまにそう説明した。すると神さまは「それは、一年前の話じゃろう。今はなぜ、仕事をしておらぬのじゃ?」と質問を重ねてきた。
今?
海斗と愛子の命を奪った交通事故の発生から一年と少しが経過した今。
俺はなぜ仕事をしていないのか。
俺の脳は、自問に対する答えをあっという間にはじき出した。
それは――
「――わかりません」
てっきりハリセンかと思ったのだが、それは飛んでこなかった。
俺は本当に、ただ飯を食って、糞を垂れて生きているだけだ。それではだめだと考えなかったわけではない。だがいつも、家族を失った悲しみが俺を思考の迷路に誘い込み、気がつけば酒を飲んで眠っていた。そんな俺の答えを聞いた神さまは「ほう」と言って片眉を上げてみせた。
「では質問を変えよう。今、医者をやれと命じたら……できるか?」
「…………できません」
今度こそやられる!
俺は首を竦めたがハリセンは飛んでこなかった。神さまは俺の後ろに佇んだまま、「左様か」と呟くように言うと沈黙した。彼女は微笑みと無表情の中間のような顔で俺を見つめていた。考える時間をくれているのだろうか。
目を閉じて考えた。
外に出るだけでも一苦労な俺が、他人の病悩など癒せるわけもない。考えてみればこの一年まともに話をしたこともなかったのだ。様々な症状に悩む患者の話をきくどころか、良好な意思疎通関係を築くこともままならないだろう。
俺は医師として、人間としてすっかり自信を無くしてしまっていた。
「気がついたか」
「うわあッ!?」
目を開けるといつの間に移動したのか、神さまが目の前に居た。明らかに床から足が浮いているが、そんなことではもう驚かない。
「徒真理よ。其方はようやく、大事なことを一つ悟ったのじゃ」
「大事なこと……ですか?」
神さまは深く頷いて続ける。
「左様。始まりは悲しみに暮れていただけかもしれぬ。しかしいつの間にやらそれは其方の心を閉ざし、希望の光を覆い隠してしまった。其方は自分というものに自信を持てないでいる。その根源にある思いを断ち切れぬ限り、其方は一生、泥濘の底から逃れることはできぬ」
「そんなこと言われても……」
神さまが床に降りた。
俺はなぜかそれにつられて床に座った。神さまの黒い大きな瞳がしっかりと俺を見据えている。相手が小学生フォルムであることも忘れてそれに見入っていると、形のよい鼻の下にある唇が動いた。
「徒真理よ。家族が冥府へ旅立ったのは、其方のせいではない」
「!!」
「図星であろう。其方は人の命を救う医師であるにも関わらず、最愛の家族を助けられなかった」
「やめてくれ」
あの日の詳細を思い出したくない。
狂ったように鳴らされる呼び鈴。
ドアを開けるとたまたま早出してゴミ出しをしていたマンションの管理人が駈け込んで来た。
磯貝さん――事故!!
その言葉で何が起きたか瞬時にわかった。
管理人が尻餅をつくほどの勢いで跳ね除け、サンダルのまま階段を駆け下る。
道路には現場を囲むように人だかりができつつあった。
子供たちの鳴き声。
野次馬どもの騒ぎ立てる声。
俺の姿を認めて走り寄って来たのは妻ではなかった。
歪んだガードレール。その先には歩道に乗り上げた軽トラック。よくバス停周辺の自販機の商品の補充をするために路上駐車して道路を塞いでしまう迷惑なやつだった。
車の向こうには向かいのマンションの植え込みだ。毎年見事な花を咲かせるツツジが無残に引き裂かれていた。
磯貝さん、救急車は呼んでいるの! 呼んでいるのよ!
ああ、あの、愛子さんと、海斗くんが――
ヒステリックに状況を伝えようとする主婦たちを押しのけ、彼女らが必死に指し示す車とツツジの間を覗き込んだ。
「ああああ!!」
「落ち着け、徒真理」
「触らないでくれぇッ!!」
神様の手が肩に触れそうになった。俺は相手の体躯も考えずにそれを払い飛ばした。
「徒真理……」
「俺がいけないんだ! あのとき俺が、二人を助け出せていたら!!」
「無理じゃ」
「無理じゃなかった! 野次馬どもが、遠巻きに見ていないで力を貸してくれていれば!!」
「重要な血管を損傷していたかもしれん。下手に事故車を動かすことの危険性くらい、わからぬ其方ではあるまい? あの時、声をかけて励ます以外に何ができたというのじゃ」
神さまの両眉が下がり、悲しげな表情になった。冗談じゃない。お前に何がわかる!?
「俺はあの日、玄関まであいつらを見送りに行かなかった! 自分の身支度があったからな! 海斗は何度か俺を呼んでいたが、俺はクローゼットの! この部屋から『早く行きなさい』と返したんだ! 俺がきちんと出て行って、ゆっくり送り出していれば――!!」
「徒真理……」
目の前が真っ暗になった。ふわり、と麝香の香りが鼻をくすぐった。神さまに抱きすくめられたのだと気付くのに数秒かかった。
小学生の肩を借りて、俺はむせび泣いた。
「お、俺は……俺は海斗に……『行ってらっしゃい』って……」
情けなくて、悔しくて、悲しくて、愛しくて。
神さまは黙って俺の頭をポンポンと撫でるように叩いていた。
どのくらいそうしていたのだろうか。俺は絵的に非常にまずい状態であることに気がつくくらいには落ち着いた。
ある科学者が、涙の中にストレス物質を発見したという論文を発表したのを思い出した。
「つまらん雑学など披露せんでよいのじゃ」
照れ隠しにそいつを話そうとすると、神さまは釘を刺してきた。
「神さま……」
「なんじゃ」
「海斗……パパを恨んでないかな」
「自分で聞いてみるのじゃな」
「…………」
いつの間にやら日が傾き始めたらしく、姿見が西日を反射していた。神さまの教えは俺の心を深く抉った。少女の姿をしてはいるが、こいつはやはり本物なのだ。半信半疑――50:50くらいだった信頼度が70:30くらいになった気がする。
「神さま。俺、試練を頑張りたいと思います」
「結構、結構」
神さまが偉そうに、それはもう偉そうにふんぞり返って鼻の穴を膨らませた。
「では、さっそく教えを」
「うむ、よかろう」
神様が右手をうなじに持っていく。あそこからハリセンが飛び出してくるのを何度見たことか。
今度は何を取り出すつもりだ――
「くっくっく。徒真理よ。覚悟はいいか」
「か、神さま……あんた、いったい何を」
豊かな黒髪の中から取り出されたのは、刃渡り三十センチはあろうかという巨大な裁ちばさみだった。
「決まっておろう? ちょん切るのじゃ」
「だだだ、だから何をッ!?」
鋏を両手に持ち、切っ先をこちらに向けてシャキシャキと鳴らす神さま。西日を浴びていることでその不気味さは神というより伝説のシザーマンを彷彿とさせた。
「其方、何をビビっておるのじゃ? 切るといったら髪の毛にきまっておろう?」
「え?」
神さまは髪結いさんでもあるのだろうか。俺は思わず自分の頭に手をやり、三日洗っていない蓬髪の感触に顔をしかめた。