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裸になれ。そして現状を把握せよ

 呆然と立ち尽くす徒真理の前で、人間ドックの検査技師のように冷静沈着さと、平凡またはそれ以下の男子の裸に河原の石ころほどの価値も見出していない看護師の冷徹さを湛えた眼差しを向けた、小学生ボディの神さまの小さな唇が動いた。

 裸になれ。

 そこから紡ぎだされた小鳥のさえずりの様な音声は、徒真理の鼓膜を震わせて脳に届けられ、漢字一文字と平仮名三文字の日本語のメッセージに変換された。

 聞き間違いじゃないのか。

 きっとそうだ。

 徒真理は目の前で見事な仁王立ちを披露している少女の姿を見つめた。

 尊大な態度のおかげで小さい子だという印象はかなり薄れているが、どう見てもその姿は女子だ。徒真理は露出狂でも幼女趣味でもない。若かりし頃はそれなりに女遊びもしたが、妻子に先立たれる直前の四年間ほどは、ウェディングドレスに身を包み神に貞操を守ると誓った花嫁のごとき人生を歩んできた。

 そんな徒真理が二十歳にも満たない巫女服――少なからず神聖なイメージを掻き立てる――を着た女の子の前で全裸になれ、などと言われて素直に脱ぎはじめるはずもない。


「どうした? 我の第一の試練ぞ? 在り難く拝して従わぬか」


 対する少女は自身の上半身を覆い隠すほどのハリセンをうなじの辺りに仕舞い込むという離れ業を披露しつつ、徒真理に公然わいせつ罪(法を犯せ)と催促した。

 日本に限らず、世界には数々の神話が伝わっている。それらを紐解けば神々は意外と性に奔放であることがわかるのだが、徒真理は古今東西の神話に興味を示したことがなかった。彼が朱塗りの鳥居を潜ったもっとも最近にして最初の記憶は、一人息子の端午の節句を祝った日のものだ。そのお参りにしても、妻の指示に従って金を出したに過ぎない。おみくじの結果など気にも留めず、人魂ハンターを鼻で笑い、UFO研究家をペテン師呼ばわりしてきた彼が、目の前の少女が霊的上位存在(わがはいはかみである)と主張してもなかなか受け入れられないのも無理はない。

 だが、徒真理は受け入れなければならない。

 愛する家族を失った悲しみのあまり泣き崩れ、喪主もろくに務められなかった。

 春望を詠んだ杜甫のごとく時に感じ、別れを恨んできた。

 海斗と愛子の声が聴きたい。

 その至上目的のために、目の前で起こる不可思議な現象とそれを引き起こしたらしい人ならざるモノの存在を受け入れるしかなかった。

 だが。

 冗談じゃない。子供の前で裸になるなんてできるもんか。

 徒真理の脳裏には、見慣れた自身の裸体のイメージがありありと浮かんでいた。百歩譲って少女が神であることは認めよう。友達リクエスト(いやがらせ)を通じてではあるが、こうして奇跡を起こしにやって来てくれたのだ。家族に会いたい、少しでも近くに感じたいと願い続けてきた徒真理にようやく差しのべられた救いの手だ。なんとしても掴まなくてはならない。だがどこの世界に小学生相手にたるんだ肉体を披露したい大人がいるだろうか。

 実際にはそういう倒錯した性癖をもつものは存在するのだが、徒真理は腐っても他者の健康を守る医師だ。現在それを生業にしてはいないが、医師免許は今も実家の金庫に保管してある。

 健康とは単に肉体が疾病に侵されていないことを指すのではない。心身ともに健全でなければならないとは世界保健機構の掲げる定義である。ゴミ屋敷とまではいかないが、ゴミや食べかす、抜け毛にフケやらなんやらが絡んだ綿埃が同居する部屋で、四十路手前の男が小学生の前で裸になるなど、誰がどう考えても少女の精神にいい影響を与えるとは思うまい。


「ごちゃごちゃと持論をぶってないで、とっとと脱げ。何も下着まで取れとは言うておらぬ」


 少女の前に色々晒したくない徒真理は、医大を卒業する際の白衣授与式において宣誓された、ヒポクラテスの誓い(医師の倫理・任務についての宣誓)にまで考えを巡らせていたが、その嗜好を読んだ神はうんざりした様子で口を開いたのだった。


「いや、しかし……」

「しかしもかかしもないのじゃ。我はただ服を脱げと言うておるのよ。……できぬのか? なれば其方の家族のことは――」

「わ、わかった。脱ぐから! その……」

「なんじゃ?」


 こっちの思考はとうに読んでいるだろうに、なんて意地の悪いやつだ。

 姿見――愛子の遺品だ――越しに徒真理の顔を見てニヤつく少女の後頭部を睨みつけた。無論、それでばつの悪そうな顔をするわけもなかった。


「脱ぐから! あっちへ行っててくれ!」


 やっとの思いで恥じらいの念を告げた徒真理。しかし少女はますます口角を吊り上げ、


「断るのじゃ」


 自らの信徒となったものの願いを棄却した。


「なんでだ!? とりあえず脱げばいいんだろ!?」

「これも試練、だからじゃ」


 天井を仰いで主の横暴を嘆く徒真理。対する神は真面目な面を作った。


「どういうことだ」


 これじゃ試練じゃなくてただの羞恥プレイじゃないか。

 徒真理の無言の訴えに呆れ顔をするかと思いきや、神は深く頷いて口を開く。


「よいか、試練の始まりは自己を解放し、認識するところから始まるのじゃ。裸になって姿見の前に立ち、己の姿をよぉく見てみるがよい」

「自己を解放し、認識する……?」

「そうじゃ。其方は妙な自尊心(プライド)が邪魔をして己を解放できておらぬのよ。内心小学生の前で服は脱げないとかなんとかほざいておったが、結局のところ我にたるんだ身体を晒すのが恥ずかしいだけ、じゃろ?」


 徒真理は反論できない。

 神の言葉は彼の発言を待たずして続く。


「妻子の葬式を思い出せ。其方のむき出しの感情はどこへ行った? 其方まさか、その腑抜けた姿のまま妻子の声を聞くつもりではあるまいな? 言っておくが、黄泉の世界へ旅立ったものの声を聞くためには一切の雑念を捨てた、仏の教えで言うところの無の境地に至らねばならぬ。其方の自尊心などという取るに足りないものは、他の全てに先んじて、今すぐ捨てねばならぬのじゃ!」


 さあ、脱げ!

 神の目が赤く光ったように見えた。

 徒真理はままよ、とスウェットのゴムに手をかけ一気に引きずりおろす。続いて上着とアンダーシャツを脱ぎ去った。皮脂の匂いが鼻を突いた。


「ほっほ。やればできるではないか……では、鏡を見るのじゃ」

「…………」


 徒真理は埃が積もった姿見に目をやった。そこには三十三歳の男が映っていた。いつの間にか神の姿はそこから消えていたが、徒真理はそれに気づかない。


「応えよ、徒真理。そこに何が映っている?」

「……俺が、映っている」


 見たままを答えた。

 伸び放題でフケが目立つ、油でぺったりと頭皮や首に張り付いた髪は打ち上げられて腐った海草のよう。

 その隙間から覗いているのは目ヤニがこびりつき、光を失った暗い瞳だ。自らの姿に怯えて揺れるそれが下方に移動すると、たるんだ頬肉、頤結節の存在を隠す首と同化した顎下の肉、リンパの流れが滞っている証拠に鎖骨窩は平たんになり、大胸筋に支えられていない胸の脂肪がだらしなく垂れ下がっているのが見えた。

 どんなに力を入れても陥没することはない。小学生が描いた巻糞のようなフォルムを呈する段々腹。よれよれのトランクスのゴムを幅一つ分折り返して下方に突出したそれは、下着の上半分の模様を覆い隠してしまっていた。

 徒真理はその下にどれほどの脂肪細胞が付いているのかを想像し、目の前が暗くなった。

 暗闇の向こうでは、かつて徒真理も働いていた病院の手術室で肥満(オベシティ)の患者の開腹手術を行う際、あまりの皮下脂肪の多さに辟易としている医師たちの姿が在った。手術台の上で寝ているのは徒真理だった。


「いつの間に……俺はこんな風になっちまったんだ」


 ドスン。

 

 徒真理は膝から崩れ落ちて顔を覆った。

 いつの間に。

 違う。

 本当は分かっていた。

 劣化を通り越して崩れていく身体。今は悲しみを癒す方が優先。だいいち整容に気を使って何になる。

 徒真理は週に一度か二度シャワーを浴びていた。身体を洗う際、腫瘍を触知する繊細なセンサーの役割を果たしていた彼の指が、掌の感覚が訴えていたのだ。

 これではまずいぞ、徒真理。

 どうしてこんなになるまで放っておいた。

 医師が医療機関を長く受診せずにいた患者に言いたくても言えないあの台詞が、徒真理の頭の中で反響した。


「神さま……」

「なんじゃ」


 徒真理が顔を上げると、鏡の中に再び神の姿が現れていた。その姿が滲んで見えたのは、鏡に積もった埃のせいだけではあるまい。

 徒真理は思った。神を自称する少女を信じてみよう、と。服を脱いで鏡を見た、ただそれだけで徒真理は自身の現状を認識し、久方ぶりに建設的な考えが浮かんだことに畏れと感謝を同時に抱いていた。


「俺を、導いてください」

「当然じゃ。我は其方の友達じゃからな」


 親指をグッ! と立てた自称神。

 立ち上がった徒真理はもう泣いていなかった。


「神さまッ!」

「おわっ!? やめろ!! 裸で抱き付くな! ベタつくのは嫌いじゃ!!」


 こうして、徒真理と神さまの奇妙な共同生活は幕を開けたのだった。




次話:髪を切れ へ続く。

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