無視した結果ヤバい攻撃を受けたので仕方なく承認した結果→
こんなの、人間の仕業じゃない。
俺は震える左手で携帯電話を握り、とても片手では操作できず右手の一指し指の助けを借りて、友達リクエストとやらのメールを開いた。
「神さまから友達リクエストが届きました。
このリクエストを承認しますか?
是 YES」
馬鹿にしていやがる。
しかしもう己の行為の是非を問うている余裕はない。
「ピー、ピー、ピー」
俺は決断を急かすように電子音を奏でている電話線を抜いてある固定電話を振り返って戦慄を深めた。そこから吐き出され続けるファクシミリの紙束は我が家の床を織物問屋のように白い用紙の反物で埋め尽くしてしまっていた。そこに印刷されたメッセージは、五分ほど前までは、
「無視するな」
「我は神であるぞ」
「神の呼び声に応えぬとは、なんたる不届き者」
「このまま放置するというのなら、神罰が下ろうぞ」
など居丈高な内容が多かった。内容を吟味するよりも恐ろしさが先に立った俺は、できるだけ電話機から遠ざかり壁際で耳と目を塞いでいたのだが、ファックスは止まるどころか増える一方だった。そして新たに飛び出てきた紙に印刷されていたのは、
「かまちょ」
だ。
ここで、お茶目な神め! などと思えるほど俺の神経は太くない。明らかに壁から電話線は抜けているし、ファックス用のロール紙はとっくに切れているはずなのだ。ものの数分で三百通を超えるメールを受信したことでキレた俺が見ている幻覚かもと思ったが、自己診断の結果それは否定された。だがこの状況を打開しなければ、俺の中枢が本気で現実逃避を計りかねない。ただでさえ鬱に近い状態が続いているんだ。
「神さまから友達リクエストが届きました。
このリクエストを承認しますか?
是 YES」
是!
俺の右手は人ならざる何者かのリクエストを承認するボタンをタップした。
「ぴー、ぴー、ぴー」
「なぜだあッ!?」
「うっそぴょ~ん」
「…………」
ヒトは視覚器が捉えた情報を瞬時に大脳に蓄えられた記憶と照合し、それがなにものであるかを判断する。該当する情報がストックされていない場合は、似た形状のものを列記して連想させることも可能だ。ここまではほぼ無意識、反射的に起きる現象であると言っていい。聴覚情報についてもほぼ同様のことが言えるだろう。
俺の脳は、ファックスの電子音を口真似して俺を驚かせた存在の姿を捉えた視神経からの情報を吟味し、それがなにものかを認識する前に、こう命令した。
「110番!」
「なぜじゃあッ!?」
刷り込みを基本としてきた日本の教育が正しいことかどうかわからない。だが幼い頃から教え込まれてきたじゃないか。怪しい人を見たら、110番。危険! と思ったら110番。この顔に、ピンときたら――
「ワシの顔のどこに『ピン』ときたというのじゃ!? この不心得者ッ!」
「わっ! こっちくんな!」
床に散らばった白い恐怖新聞をさらに踏み散らかして近づいてくるのは、神社でおみくじを売っている巫女さんのような恰好をした――小学生くらいの女の子だった。
「まったく、話にならんのじゃ」
「こ、子供がなにを偉そうに――いッ!?」
少女――恐らく高学年だろう――の不思議な圧力を湛えたアーモンド形の目の中心に鎮座する黒い瞳が俺を射抜くと、身体が意志に反して動き始めた。
「あががが!!」
ガクガクと震える顎のせいで妙な悲鳴を上げた俺だったが、突然身体が言うことを聞かなくなり、少女の前に跪かされたと想像してみてほしい。恐怖のあまり失禁してもおかしくないだろう。だが尿道括約筋の動きも支配されているのか、俺が床を尿素たっぷりしかし肌には塗りたくない液体で汚してしまうことはなかった。
「お前の粗末なモノの筋肉など触れておらぬわ!! 神の御前に在ってなんたる不埒!!」
少女が後ろで束ねた長い黒髪をかき分け、うなじの辺りに右手をさし入れた――と思った次の瞬間その手に出現した白い物体が視界を埋め尽くし、
すぱーん!
「ぶひあッ!?」
俺の視界は左から右へ大きくぶれた。どうやら殴られたらしい。強制的な平伏によって、顔の高さは少女と同じ位置に在った。さぞかし叩きやすかったことだろう。
「ふん。悲鳴まで不細工じゃの」
顔面を叩いたものを右肩に担ぐようにして持ち、幼女が眉を上げてみせた。あれは――まろ眉だ。
「“引眉”じゃ。愚か者」
「こいつ……心が読め――へぐッ!?」
「神さまを前にして『こいつ』とはなんじゃ」
今度は正面から顔を張られた。かなりの衝撃だが、痛みはさほどでもなかった。手加減しているのか、そんな温い手じゃ俺は口を割らないぜ。なんちゃって。
「この期に及んでまだ世迷言をほざきおるか!?」
すぱーん!
再び顔面を襲った衝撃の正体は、ハリセンだった。相当丈夫な紙で作られているらしく、思い切り俺の横っ面を叩いたそれは折り目一つ乱れておらず、角もピンと張ったままだった。
「君はいったい……」
少女がそれをどこから取り出したのかという疑問は忘れ、突然現れた存在――不可思議な力を持っているらしい――の正体を確かめるべきだと思った。だがわざわざ訊ねるまでもない。俺には分かっていた。こいつの正体は――
すぱぱぱぱぱーん!
「ぐおをッ!?」
「我は幻覚ではないのじゃッ! 愚か者!!」
「うぐぐぐ……ちゃんと痛いな。夢でもないのか」
俺の思考に合わせて期待した表情で頷いていた少女が、脳内で導き出された結論を読み取ったらしく、それをハリセンによる連続殴打でもって否定した。
「そう。夢でも幻でもない。我こそは神さまであるぞ?」
「かみ……さま?」
「いかにもたこにも」
自称神さまはハリセンを持ったまま腕を組み、背筋も凍るようなダジャレを吐いた。
「そんな……」
徒真理。犯罪に手を染める前に病院へ行こう。
スパパパパパパパパパパーーン!!!!
「ぐああああッ!?」
「はあ、はあ……こやつ、これだけ責めてもまだわからぬか!」
目にも留まらぬ速さでハリセンを振るって疲れたのか、自称神さまが荒い呼気を吐いた。同時に、硬直していた身体の自由が戻ってきた。
「よいか徒真理。我は日ノ本を救うべく、天照大明神より遣わされた神である。我を信じ、我の教えを実践せよ。さすれば泥濘を這いずる歳経たウナギのような其方は滝を遡り点に至る竜へと――どこへ行くのじゃ?」
「病院」
「待てえぃ!!」
幻覚と会話するようになったら終わりだ。在りもしないものの姿が見え、聞こえないはずの声が聞こえる。俺の脳は正常な認知機能を失ってしまったらしい。スエットのズボンの裾に取りすがる少女を引きずり――やはり幻覚だ。重さを全く感じない――保険証はどこへやったかと記憶をたどる。
考えてみれば生活保護の世話になっていないのも、自分たちと俺、両方の世間体を気にかけてくれている両親のおかげだ。
「…………」
足が止まった。ジタバタと暴れていた神も動きを止めた。
病院に行く?
夜中や明け方の人気の少ない時間帯を狙ってコンビニに食料品と日用品を買いに行く以外、ほとんど出歩かなくなった俺が、白昼堂々外へ出るだと?
考えただけで背筋が寒くなった。
動悸が激しくなり、額にふつふつと汗が浮かんでくる。
クソったれ。
まあ、目立った身体症状があるわけでもない。自殺念慮もないし食欲はある。早急に投薬や入院が必要な状態とは思えない。だいたい、医者になんと言うのだ?
「先生、俺には小学生くらいの巫女さん衣装のおにゃのこが見えるんです。そいつが『我は神さまじゃ』って言うんですが……」
なんて言えるか。保険証から俺の職業が医者だと知れてしまうし、同業者を診察するのは嫌なものだ。ましてや精神を病んでいる上にアブナイ妄想をもっているとなれば、診察するどころか通報されかねない。
「色々と言い訳をこねるのが上手いようじゃが、要するに医者には行かぬのじゃろ?」
いつの間に移動したのか、神は手入れをするものがいなくなってくすんだ色になってしまったフェイクレザーのソファーに座り、聞こえるはずのない音声を耳に届けてきた。
「……君は、神さまなのか」
「そうじゃ」
「俺は、神さまなんて嫌いだ」
ガーン。
神さまは、そんな擬音がぴったりくる顔になった。
だが知ったことか。もし神さまとかいうやつがいるなら、家族の命がなぜ失われてしまったのか。妻と息子は俺の全てだった。
お前が今座っているソファーは、いつも海斗が座ってテレビを見ていたものだ。寝転がって見るなとか、画面に近づきすぎるなと叱ることもあったが、そこはあいつの特等席だったんだ。
ちくしょう。
息子の姿がちょこんと座る少女と重なる。それはすぐに目じりに溜まった生温かい液体のせいでぼやけてしまった。
「其方の家族を想う気持ちは、ようく、わかっておる」
「なら、放っといてくれ」
「そうはいかん。先にも言うたとおり、我は天照大神の――」
「うるさいッ! 神の助けなんざいらねえんだよ!」
ガーン。
自称神さまは再びそんな顔になった。いや、今度は明後日の方を向いて白目を剥いている。さっきよりショックを受けたようだが知ったことか。しばらくその姿を睨みつけていると、ギギギ、とゼンマイ仕掛けのからくり人形の様な動きで向き直った。
「しかしのう……其方は我の友達リクエストを承認してしまったのじゃ。どうにか形を付けてもらわんと、我も帰るに帰れぬのじゃよ」
「知ったことか」
「むう……このようなことを誘い文句にしてはいかんのじゃが、致し方あるまい」
口惜しや、そう言いながら衣の袖をまさぐる自称神。彼女がそこから取り出したのは、
「ぅおっほん。其方が見事、我の試練を乗り越えたなら――」
スマホだった。こいつ、ぜったい神さまじゃない。
「何故そうなるのじゃ? 今どきガラケーなんて使っておるのは平将門公くらいぞ!?」
そんなトリビア要らないから早く帰ってください。
「ぬぬ……いくら心を読めるといってもじゃな、きちんと会話してもらえないのは嫌なのじゃ」
寂しいなら神さまの国にでも帰ってください。
「そうか、そうか……こうも嫌われてしまっては仕方ないのぅ……」
少女姿の神さまはがっくりと肩を落としてしまった。見た目が愛らしい少女であるためわずかに罪悪感があるが、この幻覚だか夢だかわからないものと早くお別れしなくては。
「見事我の試練を乗り越えた暁には、亡き家族と話す機会をやれたのにのぅ……」
何が試練だ。
俺は今人生で一番の――ちょっと待て、今なんて!?
「ん? 我の試練を見事――いっ!?」
「その先は!?」
俺は猛禽の如き勢いで少女に迫り、その細い両肩を掴んでいた。
「じゃから……亡き妻と息子の二人と――」
「会えるのか!?」
「いや、話すだけじゃ」
会えなくてもいい! 声だけでも!
「なんじゃ、乗り気になったか」
ニタリ、と口角を吊りあげて少女らしからぬ笑みを浮かべる。
「信じられない下衆だな。神さまってのは」
「ふん。其方が素直に言うことを聞かぬからよ。兎に角、我の試練を受けるのじゃな?」
「やってやるさ」
もう一度、愛子と海斗の声が聴けるのなら。たとえこれが幻覚でも夢でもいい。もう一度、俺の最愛の人の声が聴きたい!!
「まだ幻覚などと言うて。まあ、やる気を出してくれたようで一安心じゃ。では手始めに――」
自称神さまはきょろきょろと辺りを見回し、その視線を埃が積もった姿見に固定した。一体何をさせる気だ。
「裸になってもらおうか」
「は?」
海斗。パパは少女に裸に剝かれるという幻覚を見ています。