神さまから友達リクエストが届きましたので無視しました。
カーテンの隙間から差し込んでくる光――けして爽やかな陽光などではない。あれは、人間の煩悩を汲み取って火を付けたような桃色のネオンライトだ。
磯貝徒真理はぼんやりとそれを見て自分のいる場所を認識し、おおよその時間の見当を付けた。
ベッド脇に一本足の丸テーブルがあり、安っぽいランプの下にはこれまた安っぽい――家電量販店のワゴンセール品にしか見えないデジタル表示の時計もあるのだが、視力が小数点第二位の徒真理がどんなに目を細めてもその数字を読み取ることはできない。しかし身体を起こすのは億劫だった。
昨晩――六月二十日の夜における自分の行動を思い返せば、この半身を起こすことすら憚られる頭痛の原因を知るのは容易なことだった。
酒は怖い。
特に、就職のために上京したばかりの新人と二人きりで飲む酒は。
徒真理は己の愚かさをしみじみ感じながら、仰向けに寝転がったまま左手を動かして汗で湿った枕の周辺を弄る。
せんせぇ。眼鏡、外してよ。
大切な視力矯正装置とお別れしていた徒真理がそれを探そうとすれば、自然とそうなった原因である昨晩の行為が脳裏にフラッシュバックしてくる。
なんで? 見えなくなっちゃうだろ。
やだぁ。
徒真理はそのまま女の股に顔を埋めようとするが、彼女は太腿で顔を挟み込んで阻止しようとする。これもちょっとした嗜虐だ。徒真理はそれを無理やり押し広げ――
眼鏡があった。
右上腕に頭を乗せて眠っている人物を起こさないよう、左手だけでそれを装着する。そうしてから首を捻って左を見れば、正しく焦点を結ぶことに成功した網膜にデジタル表示を正確に投影できた。
「03:55」
思った通り、ようやく太陽が水平線の向こうに陣取った時間だ。
もう一眠りしてからシャワーを浴びて帰ろう。
今日が日曜日で本当によかった。午前中はゆっくりと家で寝て、午後は少し研究データをまとめる時間を取る。
いや、どうせ自宅でノートパソコンを広げることはあるまい。
「ん……」
徒真理が頭の中で日曜の予定を大雑把に組んでいると、右腕に浜辺に打ち上げられたワカメのように黒い髪を絡ませていた女が動いた。徒真理は後頭部の高まりと固いマットレスに挟まれた二の腕の肉が発する救難信号に顔をしかめる。
「んっ!?」
女が頭を上げた。べりべりと腕から髪の毛が剥がれていく様は、家の壁に住み着いた蔦植物を引き剥がしていく光景に似ていた。
彼女は右ひじを支点に半身を起こすと、潜望鏡のようにきょろきょろと頭を動かした。やがて徒真理の顔を見つけると、ぽやん、と笑って胸に顔を押し付けてきた。
「せんせぇ、起きてたんだ……」
寝ぼけ眼を擦りながらふわあ、と欠伸する姿はネコ科の小動物を彷彿とさせた。無意識に緩くウェーブがかかった髪を撫でると湯上りとは違った湿り気と汗その他が混じった匂いが鼻を突いた。それは睡眠欲求とはちがう本能を呼び覚まそうとするものだった。
「ああ。飲んだ時は眠りが浅いんだよ」
我ながらつまらない返事をしたものだ。その証拠に川本……ええと、下の名前はなんだったか。とにかく川本は「ふぅん」と言うと旋毛をこちらに向けてしまった。
つまらなかろうがおもしろかろうが、静かになってくれたのはいいことだ。
昨晩十二時近くまで酒を飲み、そのままホテル街へ来てしまった徒真理は実質二時間弱しか眠っていない。
食生活と性生活は多少乱れても、休日くらいは正常な身体のサイクルを取り戻さないと明日の仕事に響く。二十代の活力を生み出していた臓器は一つも失っていないはずなのに、あの頃の体力はもうない。徒真理は本格的に夜が明けるまで少しでも睡眠時間を稼いでおきたかった。
「んふふ……」
唐突に含み笑いを洩らした川本――そうだ香織だ。
川本香織は薄掛けを頭から被って身体を密着させてきた。室内は程よく冷房が利いていたのでそれ自体は心地よい。
「……川本」
「んー?」
布団の塊と化した香織が、胸元から下腹部へと移動していく。徒真理はよせ、という言葉を飲み込んだ。やがて白い塊の内部に潜む淫魔は、冷房の風で冷えた息子を温かい口中へと導いて――
◇
夢か。
このところ、五年くらい前の夢をよく見る。
妻と中距離恋愛をしていたころの夢だ。
俺が母校の付属病院で研修を終えたあと、地元の大学病院に職を得たことでそうなった。狙ってそうしたわけではない。クリニックを継承する前に大病院の診療というものを経験しておけという父の意志に従っただけのことだった。
大学病院というものは、権力争いや研究費等の獲得に興味がなく、修行を積んで開業を目指すだけの人間にとって理想郷だ。そこにはメディカルスタッフだけで倍近い年頃の女性職員が務めており、しかも毎年三桁の新人が入職してくる。出逢いがないと嘆く男女は皆、医者か歯医者か看護師を志すといいと個人的には思う。ナースは女性の仕事などという風潮は古い。ナースマンの活躍と頼られっぷりは、見ていて悔しいくらいだ。
だが医業を志し、大病院で働くということはストレスとの戦いに自ら身を投じるのと同義だった。ゴテゴテに理論武装したものや逆に病識が無さ過ぎてコンプライアンスが得られない患者も多数やって来る。全てがそうだとは言わないが、さんざんドクターショッピングをした挙句地域のクリニックでは対応できないと匙を投げられた患者もその中には含まれる。
そうした患者たちの人格はさておき悩める病人であることは間違いない。丹念に医療面接を行い必要な検査や処置を行っていると、昼食をとることも忘れて気がつけば夕方だ。
外来診療が終われば、病棟に入院している患者のケアが待っている。術後の経過はどうか、放射線治療・化学療法の効果は出ているか、副作用は出ていないか。多様に変化する患者たちの訴えや症状に対応して看護師と共に悪戦苦闘していると、気がつけば病院の食堂は終了しており、食事はコンビニかファミレス、または昨晩の残りを温めて食べる羽目になる。そんな気力も沸かずどうにか雑菌だらけの身体をシャワーで清めてベッドに倒れ込む日もざらであった。
だからこそ、早々に引き揚げられそうな日や定期的に催されるイベント(飲み会)の盛り上がりは尋常ではない。
ここで盛り上がれないようなよほどの根暗か仕事の虫でない限り、大病院で働くものは出逢いの場に困るようなことはない。もちろん、医療関係者をそういう対象に見られないのだという奴は除外する。
当時の俺は堕落してはいたが、充足した日々を過ごしていたことは間違いない。複数の女と関係を持ちながら、最低月に二度は妻と中間地点である東京に出てデートをした。幸い収入だけはあったので、毎回シティホテルを予約してあちこちで美味しいものを食べたり買い物をしたりした。
そんな生活が三年ほど続いたある日、彼女の妊娠を機に結婚した。
結婚生活は順調だった。妻は身重の体にも関わらず俺の地元へ越してきてくれた。臨月が近づくと里帰り出産のために田舎へ帰って行ったので、わずか三か月足らずの二人だけの生活だった。
子供が生まれても二か月は実家に居たので当直がない週末は妻の実家に通って我が子の顔を見た。
出産直後の息子の顔は真っ赤でしわくちゃであり、年老いた猿のようだった。徐々にそれがホモサピエンスの子だとわかるようになっていく過程で、俺の人生観は大きく変わった。
ありきたりと言ってもらって構わない。
人生の転機なんてそうそう訪れるものじゃないんだ。
俺は妻の出産を機に変わった。
◇
「あなたは禿げても太ってもいいと思う。いっそクマさんみたいに太っちゃえば?」
「よせよ。医者が太っていたら説得力に欠ける」
「そうかなぁ。私は好きだけどなあ、大きいお医者さん。なんか安心感、みたいな」
妻の言葉を真に受けたわけではないが、結婚を機に変わったのは内面だけではなかった。
結婚当初は完食するのに並々ならぬ努力を要した料理の腕前も、今では外食する方が面倒だと思わせるほどに上達した。誕生日や結婚記念日、ホワイトデーにクリスマス、いい夫婦の日と母の日それにシーズンごとに一度は洋服を買いにデパートに付き合ってやれば、安定して美味しいご飯が供給されたのだ。
月々の支払――家賃、生活費、学資保険に生命保険、国民健康保険、種々の税金や年金――贅沢をしなくとも有名クリニックの院長でもない限り、中途半端な収入帯に暮らす俺たちにとって、そうした支払いの額はかなりの負担だった。子供もやんちゃで手がかかる。俺は休日昼間のファミレスや回転すし以外の外食をほとんどしなくなった。
大好きな酒は家で飲む方が断然安上がりだ。俺は後輩やスタッフの誘いにあまり乗らなくなった。
やんちゃなくせに体力がない息子は、半日遊ぶと家に帰りたくなってしまう。休日の過ごし方はレジャーよりも映画鑑賞やお料理など、インドアが多くなった。趣味だったテニスも月に一度行くか行かないかだ。
結果として体重は結婚から五年で十キロ増加した。ティーシャツ一枚ではたるんだボディラインを隠せない。月に一度は白衣のボタンが飛んだ。風呂に入った後鏡を見るたび、敗残兵のように後退していく額に生薬をたっぷり刷り込む生活にも慣れたものだ。幸せは「劣化」を楽しむという新しい境地に俺を導いていったのだった。彼女の妊娠という偶然というか不始末というか、とにかく息子の誕生というプレゼントをくれた神さまというやつに、俺は心から感謝して暮らしていた。
◇
人生の転機なんてそうそう訪れるものじゃない。
しかしそれは、突然やって来た。
忘れもしない、二年前の六月十日。
前日に関東の梅雨入り宣言がなされ、湿り気の多い、寝苦しい夜だった。
四歳になる息子は俺の血を濃く受け継いだらしく、虫一匹殺せないくせに内弁慶で甘えん坊だ。可愛さ余って憎さ百倍と思うときもあるが、概ねかわいいわが子だ。
ベッドから起き出して川の字をリに変えた俺は、絡み合うように眠る二人の家族の姿をしばらく眺めてから、サイドボードの上の眼鏡を取って装着した。
朝食は俺の担当だった。別にそう取り決めたわけではないのだが、いつの間にかそうなっていた。
「海斗! 幼稚園に遅れるわよっ!」
最近職場に復帰した妻が、朝食を終えて教育テレビにかじりつく息子に着替えを促す。
「ようちえん、いかないっ!」
息子が甲高い声でそれを拒否した。
だいたいは、「いかない」だが、最近は「おなかいたい」という詐病と使い分けるようになった。時間に余裕があるときは詐病を使い、2LDKのリビングダイニングに焦りが満ちている時は「いきたくない」と言うのだ。どちらにしても、かまってほしいだけだったと思うが、園バスの皆さん――全員が年上で、行儀のいい子ばかりだ――を待たせてしまうわけにはいかない妻は、携帯電話をエプロンのポケットから取り出して、
「じゃあ、園長先生に電話するからね?」
「やだぁ~!」
妻の必殺技に簡単に屈服する息子の姿はやはりかわいいものだった。
大学病院を辞めて、拘束時間が短い実家のクリニックへ勤務するようになった俺は余裕で二人を送り出した。
その十分後、人生の転機という奴がおれのもとへやって来た。
「園児の列に暴走車突っ込む! 母子二人死亡」
犠牲になったのは俺の大切な家族だった。
犯人は拘留され、現在裁判中だ。
テレビ局なんかがコメントを求めて取材にやって来たが、全て拒否した。
その後の俺がどんな風になったか。
ニュースを見た知人や訃報を受け取った近しいものたちから慰められ、どうにか仕事に復帰しようと試みた。しかし妻や息子と同年代の患者をまともに診察できなかった。心的外傷の癒し方など教科書に載っているようなことは何の効果もなかった。カウンセリングに薬物服用、グループセラピーも効果なし。アメリカ人なら犬のケツにでも突っ込んでおけ、なんて言うだろう。
意味もなく心はささくれ立ち、誰との関わりも持ちたくなかった。
そんな状態で仕事などできる訳もない。
俺は両親に済まない、あるいは社会、ご近所さんに申し訳ないと思う気持ちに蓋をして、家族の想い出が詰まったマンションに引きこもった。
◇
「ピリリリ」
それが、携帯電話の着信音だと気付くのにたっぷり一分はかかっただろう。大量発生した藻類に埋もれて濁った沼のようになった思考の表面が、ほんの少しだけ揺れる。
携帯の番号は新規に取得していて、両親以外誰もそれを知らない。その両親も最近じゃ電話もかけて来なくなった。
従って、あれは間違い電話か迷惑メールだ。
かつて難解な生体応力について考察していた脳が、放っておけばいいという結論を導き出すのに時間など必要ない。俺は敷きっぱなしの布団の上で携帯に背を向けた。
「ピリリリ」
無視していれば鳴り止む。
両親が伝言を残せるからと留守電サービスに加入しているのだ。コール音十五回で転送される設定にしてあるそうだ。面倒なので変更していないことが仇になった。たった三十秒ほど一秒おきに電子音が繰り返されるだけのことに耐えられないほど、俺の心は尖っているようだ。例えようもないいら立ちが十二指腸あたりからせり上がってきたところで、それは止まった。
「ちっ……」
やり場を失った怒りの矛先を収めることができず、とりあえず手近にあったティッシュ箱に拳を叩きつけた。中身が少なかったらしく箱は簡単に潰れた。だがそれだけだった。むなしさが怒りを食い荒らして、糞を垂れるように自己嫌悪をまき散らしていった。
実は番号を変えてもメールアドレスだけは変えていない。始めのうちは昔の仲間が連絡してくれたものだ。ことごとく無視したせいで今はそれもない。
だけどもしかして。
そんなみみっちい希望というか、誰とも関わりたくないくせに構ってほしい俺の心の膿みたいなものが、俺に携帯の画面を確認させた。
「新着メール 1件」
誰が盗み見る訳でもないのに設定した暗証番号を入力して、メールを開いた。そして後悔した。
「“神さま”から友達リクエストが届いています」
これで釣れる阿呆に効く薬を開発しよう。などと一念発起することもなく、携帯を放り投げて布団に寝転んだ。
一件の迷惑メールから始まる奇跡がすぐそこまで来ているとも知らずに。