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十四話 臓腑

季節外れの蠅が止まっている。

蠅は落ち着きなくその上を歩き回っているが、如何にそれが歩こうとも手を擦ろうとも「それ」は微動だにしない。

弱々しくではあるが確かに宿っていた光は、今やそれから完全に失われている。

内面からの意思の光を失い周囲の光を微かに反射するだけになったそれは、まるでガラス玉である。

椎名の光無き瞳はただじっと虚空を眺めていた。蠅がその上をまるで何かの儀式のように、歩いては手を擦り歩いては手を擦り、何かを待っているかのように同じリズムで繰り返し動いている。

医師が手を振ると、蠅は飛び立ちいずくへ行ったか見えなくなった。

椎名の眼窩はそれが茶番劇であるかのように、じっと宙を見つめている。

その首にはロープがぐるりと、絡み付いた蛇のように幾重にも巻きつけられている。その蛇は肉を喰らおうとでもするかのように、首へと食い込んでいた。

死体はベッドに横たわっていた。



「先生、やはり死因は絞殺でしょうか」

探偵が確認するかのように問いかける。

「あ、ああ。この擦過痕を見るとそう考えられるが……問題は」

「問題はこちらですね」

そう言うと探偵は死体の下腹部へと目を向けた。

「う……」

入口から覗き込んでいる俺たち。誰からともなく呻き声が漏れる。

死体の下腹部は一面切り裂かれていた。

一番目立つのは切腹のように横一文字に裂かれた傷。そして何度も斬り付けられたような細長い傷、刺されたらしく一見小さいが、少し注意してみると明らかに他の傷口よりも深いとわかる傷。あらゆる傷がそこには一面に付けられていた。

血と肌と内臓が織りなすモザイク模様。切り裂かれた大きな傷口からは、腹部の圧迫から解放された小腸や大腸その他の器官が顔を覗かせている。外気に触れ、電灯の光を反射するそれらは鮮やかなピンク色。

胃の内容物が食堂まで上がって来るのを感じながら、俺が連想したのは不思議にも焼肉で食べたタンやミノであった。

「おえぇぇぇぇぇ」

覗き込んだメイドが引き攣ったような声を上げて廊下の隅にしゃがみこむ。そのまま耐え切れなくなったのか嘔吐を始めた。釣られて何人かが足早にその場を去っていく。冷静なのは探偵と医者くらいか。

その二人は死体から離れ、今は壁に張り付けられたものを注視している。

それは外から差し込む朧な雪明りに照らされ、薄紅色に輝いている。それは奇妙に神々しく、まるで聖遺物のように思えた。

両横からそれを覗き込む探偵と医師は、まるでそれに仕える司祭。まるで一枚の宗教画の様に見える。

そしてその中心にあるのは、赤黒くぶよぶよとした塊。付着する血が明かりを照り返し、それはまるで宝石のように輝いていた。


「先生……これは」

「……子宮じゃな」

そこには子宮が壁に打ち付けられていた。壁に留めているのは包丁、柄まで通れとばかり差し込まれたそれは、犯人の並々ならぬ意思を示しているかのようであった。


特に普段と変わった様子の無い探偵に対して、顔色を青白く染め上げている医者。

「探偵さん、一体どういう事じゃ。儂も以前は病院に勤めておった。そこには色々事件に関係した人も運び込まれてきた事もある。刺された人間、殴られた人間、中には自分で自分に火を付けた奴もいた。医者というのは多かれ少なかれ、そういったものには不感症になるもんじゃ。じゃがな」

医師はそこで言葉を切り、吐き捨てるように残りの言葉を口に出す。

「じゃがな、こんなのは初めてじゃ。どうして死体をこんなに傷つける必要がある。これじゃまるで猟奇殺人そのものではないか。しかも子宮を……」

そこで言葉は途切れた。医師は何かに怯えるよう、体を大きく震わせて深く溜息をついた。

そうすると落ち着いた様子を取り戻したかに見える。あくまで表面上は……。

しかし目だけは依然として落ち着きなく、いや前以上に怯えたような不自然な光を帯びていた。

「さあ、犯人の考えている事まではわかりかねますが」

探偵はあくまで冷静な声でそれにこたえる。その声は医師の激情を前にして、まるで氷を含んでいるかのようにさえ思える。

「しかしこれは先の事件と比べて随分と犯行の手順が違います。まず和人氏の場合は現場にあれほどの血の跡を残しているにも拘らず、遺体を隠す事についてはあのようなトリックを使ってまで非常に細心に気を配っているように見られます。翻ってこの場合……」

そうして椎名の遺体にちらっと目をやって続ける。その眼はあくまで冷徹そのもの。

「椎名氏の場合は逆に遺体を見せびらかすような真似までしている。しかも死体を弄ぶような真似までして」

「……………」

「この違いが何を意味しているかはわかりませんが、和人氏の場合は死体を人目に晒したくない理由が、それで椎名氏は晒し者に、一体何故……」

ぶつぶつと呟きながら思考の海へと沈み込もうとした探偵。そんな彼女を引き戻したのは、入口から聞こえた大声だった。

「こ、これはどういうことだ」

そこには顔を真っ青に染め上げた秀雄が立っていた。

「わ、私はこんな風に……ま、まさか彼女が……こんな事を」

「彼女?」

思わず口に出たという呟き。それでもその中には看過できない単語が含まれていた。

彼女。

椎名亡き今、館内にいる女性は高木と景子だけ。しかし高木には動機が無い。その上昨日の様子を見ると岡村と同じ部屋にいる、つまりアリバイもあると言えよう。

一方の景子はそれに対して。いや昨夜二人が見た白い女の問題もある。もし景子が白い服の女だとしたら……昨夜椎名の部屋で何が話し合われたのか、いや、何が起こったのか。

「い、今の言葉はどういう」

おや、普段探偵の腰巾着に徹している助手君が珍しく口を開いた。普段はそれは探偵の役割なのに。

一方の探偵というと今まで見せた事の無いような表情で秀雄を見つめている。

「な、何でもない。君は黙っていたまえ」

そう助手に怒鳴りつけるように言うも、珍しく主体性を出した助手は一向に止まろうとしない。

普段空気を読めないのがいい方向に働いてるのかなー。

「でも今の言葉、ひょっとして吉岡さんは犯人に心当たりが」

「もういいわ、松本君」

そこで探偵が叱りつけるように助手を留める。

その瞬間、それまで助手に張りつめていた何かが音を立てて抜けていったな。すげー、風船みたい。

「誰にも人前では話にくい事もあるのよ。吉岡さんには後でお話を伺います。」

いや、事件に関係する事だったらここで喋らせろよ。俺らも巻き込まれてるんだぞ。

秀雄は秀雄で

「い、いや今のは、まさか彼女がこんな事に。と言ったんだ。まさか吉江がこんな事になるとは」

とか見苦しい事いいだしてるし。

妙に不自然な何かを感じるな。

彼女……か。

「そ、それと澤木先生。少し話したい事があるので後で私の部屋に来てください」

そう吐き捨てるように言うと、秀雄は返事も聞かず部屋を後にした。

探偵はしかめっ面して考え込んでいるし、助手は相変わらず空気が抜けたかのように凹んでいる。医者の顔色は青を通り越して白に変わっているし、岡村・高木ペアとメイドは気分が悪くなったのか立ち去っている。

柊を見ると俺の視線に気が付いたのか、お手上げだ。というかの如く首をすくめて見せた。

どこかで雪の落ちる音が聞こえた。



朝食はメイドが寝込んせいか、カップラーメンで済ませる事となった。

まああんなグロシーンを、若い娘さんがリアルで目撃したのだから無理もない。

同様の理由で岡村と高木も朝食は欠席。秀雄と医師は別室で話している最中で、夫人は相変わらず部屋から出てこない。

人数が減って、というか飯を食べているのは俺と柊だけという状況で、食堂はひどく寒々しい。まあ柊は相変わらず空気を読むことなく、気楽な調子で麺を啜っているわけではあるが。

それにしても柊の麺の啜り方、妙に上品だな。

ぼんやりとその様子を見ていると、俺の視線に気が付いたのか顔を上げてこちらを見た。

「何か?」

そう言ってこちらを向いて首を傾げるその様子に。上品な陶器人形が絡繰細工で動く様を思わせるその様子に。俺は我知らず心を奪われそうになって、心臓を高鳴らせた。

おいおい、落ち着け。相手が相手だぞ。

それにしても綺麗な顔してるな、こいつ。

「?」

俺の混乱する心中には気付かず、もう一度首を傾げる柊。

「ん、ああ。いや、なに、随分きれいに麺を食べるんだなと思って」

「ああ」

何だ、そんな事か。という風に微かに微笑んだ後、言葉を続ける。

「僕は元々養子でしてね」

そう言って立ち上がると暖炉に近づいた。

「だから作法とかには常に気を配らざるを得ませんでしたから。いつの間にかそれが習慣になってたんでしょう」

新聞紙に火を付けて、それを小さな枝に。枝から薪へと手慣れた様子で火を大きくしていく。

暖炉に火が付くと、その周囲は暖かな橙色に染め上げられる。

そんな中、後ろを向いているので表情は窺えないが、その小さな背中には寂しさが漂っているような気がした。

何かを忘れたいように次から次へと薪を放り込んで、その火をいつも以上に大きくしていく。

薪の焼ける匂いと微かな煙が、食堂の中に立ち込めてきた。

「家の中だと肩身の狭い思いを何時もしていたものです。養父母も僕を望んでしたわけじゃなく、まあ浮世の義理ですか、そういうのに負けて養子縁組したようなものですしね」

そう言うと手に持った薪を暖炉に投げ込む。

俺はそれが燃え始めるのを黙ってみているだけだった。

「ま、両親も誰だかわかっているんですが、正直親子の名乗りをするつもりもありませんしね。向こうも今更蒸し返されても困るだけだろうし」

火はいよいよ激しく燃え上がり、風はいよいよ激しく吹き付ける。その音を聞いているだけで、暖かな邸内にいるはずなのに寒さが忍び寄ってくるように感じた。

「あれ?二人だけですか」

食堂に沈黙が満ちる中、のんきな声を上げて岡村が入ってきた。

「あ、岡村君ですか。彼女はもう大丈夫?」

何となく気詰まりな空気が和らいで、ほっとしつつ彼に声をかける。

「ええ、何か見たものが見たものでしょう。今寝込んじゃってますよ」

「あなたは大丈夫ですか」

「ええ、俺は直接見たわけじゃないから。昨日の女もよく考えると、幽霊じゃなく犯人が化けてたって考えた方がしっくりくるし」

精神的に意外とタフなのか、そう喋りながらラーメンを手に取る。

「お湯は、お湯はと」

「ああ、そこのストーブにかかっている薬缶を使ってください。それにしても凄い風だ。雪もまた一段とひどくなってきたみたいだし」

柊の声に岡村と二人、窓の外を眺める。確かに吹き付ける雪は激しさを増している。

その時、窓の外を何か赤黒いものが落ちて行った。

「ん?」

「あれっ」

思わず二人で顔を見合わせる。

「今の見えました?」

「ええ、何か落ちて行ったような……」

確認しようと窓を開けるも、吹き付ける風雪のため下は全然見えない。

「今のって」

悪戦苦闘している俺らの後ろから、柊が珍しく焦ったような声を上げた。



「今のって生首に見えませんでしたか」

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