第二章 5
和田は再び自分の車に乗り込むと、繁華街の東端にある池田公園へと向かった。夜中の十二時が近づいた繁華街に入ると、酔客や若者たちやタクシーが群れをなしていた。世の中の景気はあまり良いとは言えないが、多くの飲み屋が閉まるこの時間帯だけは一時的に混雑するようだ。
人ごみを横目に、車を東から南に向けて池田公園への道に入る。さっき、モハンマドを乗せた公園の南側に停車して、マリアを待つことにした。すぐに、和田の携帯が鳴った。マリアかと思ったら、モハンマドからだった。
「アフマドが消えた」
モハンマドの声が焦っていた。
「消えた?」
「ああ、帰ってきて彼の泊まっていた部屋に行ったが、彼も荷物もない」
「どういうことだ?」
「わからない。こんな夜遅い時間には遠くに移動できない。どこへ、どうやって消えたのか、全然わからない」
何が起きたのかは、和田にもわからなかった。金を稼いで帰国するにしても、こんな時刻には飛行機はおろか、空港に行く電車もない。
「うーん。明日また調べよう。とにかく、知らせてくれて、ありがとう」
「俺も探してみる。じゃあ」
モハンマドは電話を切った。
和田も電話を切ってから考えているうちに時間は過ぎ、マリアが約束どおり十二時五分に現れた。
「ヘイ、ミスター。久しぶりぃ」
走ってきたのか息を弾ませて助手席に乗り込んできたマリアからは、香水とタバコの混じった香りがした。豊かな胸を強調するような黒っぽいドレスの上から、襟足に毛のついた白いコートを羽織っていた。
「俺に愛嬌を振りまかなくていい」
和田は、笑った。
「いいじゃない。男は度胸、女は愛嬌よ」
「いい言葉だが、古い。さては、君の客は歳をとった男が多いのかな」
「ひどいな。でも間違ってはいない。若い男より、あなたくらいの年齢の男のほうがお金を持っているから」
マリアが屈託なく笑った。
「お金を持っていない中年もいるさ。まあ、いい。どこかでお茶でも飲まないか」
和田が笑顔で返した。
「デートの誘い?」
「そうじゃない。君に教えて欲しいことがあるんだ。この街のフィリピン人のことを、よく知っている君に」
「よく? 違うよ」
「え、違う?」
「よくではなく、すべてを知っている」
マリアが、赤い唇をニィと伸ばして悪戯っぽく笑った。
「……深夜営業の喫茶店に行こう」
和田が、やれやれといった表情をして車を発進させた。二つ目の信号の先には、昨夜モハンマドと走った都市高速道路の橋梁が見える。
「ちょっと待って。私はお腹が空いたよ」
マリアが不満そうに言った。
「ああ、そうか……。遅くまで開いている店は……」
「あそこの高速道路の下を右に回ると、牛丼屋とファミリーレストランがある」
「どっちがいい?」
「そうね。ミスターのおごりなら、ファミリーレストラン」
「割り勘なら牛丼か? しっかりしてるなぁ」
和田が軽く笑うと、マリアは可笑しそうに笑った。とにかく、明るい女だ。信号を右折して三分も走ると、左手にファミリーレストランがあった。
「いっらしゃいませ」
店員がマニュアル通りに、二人を窓際の喫煙席に案内した。水が出され、和田がラーメンとコーヒーを、マリアが牛肉のソテーを店員に頼んだ。
「それで、何の用?」
マリアはバッグからメンソール煙草を取り出すと、火をつけてから向かい側に座る和田に尋ねた。
「うん。女を探している」
和田も自分の煙草をポケットから出すと、マリアが火をつけてくれた。
「いや、もう止めようと思う煙草が、なかなか止められないんだ。愛知に単身赴任をしてから、ついつい吸っている」
和田は弁解がましくマリアに断った。
「女を探してるって、ミスターに好きな人ができた?」
マリアが、クスクスと笑った。
「違う。イラン人と仲の良いフィリピン女性だ」
「そんな女性はいない」
彼女が即答すると、料理とコーヒーが運ばれてきた。マリアが、ナイフとフォークで牛肉をきれいに切ってから香味ソースをかけると、鉄板の上の肉がジュウジュウと音を立てた。
「そんな女性はいないか……。じゃあ、最近になって、この街に来た女は?」
和田が、美味しそうに肉を食べるマリアに訊いた。
「最近って、いつ? 一日前? 一週間前? それとも一ヶ月前?」
「そうだな……。一週間以内」
和田は天井を見上げて、考えながら言った。
「そうね……。ああ、一人いる。不思議な女」
マリアも宙を見て、それから思いついたように答えた。
「不思議?」
「ええ、とてもきれいな女だけど、夜の街へ働きに来たわけじゃないインテリ」
「インテリ?」
「フィリピン通信の記者だと言っていた。繁華街のビジネスホテルに泊まっていて、フィリピン食材店へ買い物に来る。昨日、その店で会ってちょっと話した」
「へー、何の取材をしてるんだろう?」
「わからない。でも、ホテルから外に出るのは食材を買うときだけ。あとは、ずっと部屋にいると言っていた」
「確かに不思議だな」
「ね、そうでしょ」
マリアはウインクをした後、肉を残さずきれいに平らげた。
「どこのホテルだ?」
食べ終わった彼女に、和田は訊いた。
「私の店の近くにあるTKホテル」
「ああ、あそこか」
そのホテルは、モハンマドがアフマドと女を見失った場所でもある。これは偶然の一致なのだろうか?
「名前とか顔はわかるか?」
和田が手帳をポケットから出すと、メモを取りながら質問を続けた。
「美人と聞いて、興味を持ったの?」
マリアがクスクス笑った。
「そうじゃない。あるイラン人が、フィリピン美人とTKホテルで姿を消した」
マリアの茶化しを無視して、和田はまじめに答えた。
「……そのイラン人は、どういう人?」
マリアも、まじめな顔になって訊いた。
「最近、駅裏に現れて肉体労働をしていた男だ」
和田は、テロについてマリアに言おうかどうか迷ったが、やめた。機密事項だったし、マリアには直接関係のない話だ。
「ふーん」
マリアが唇をとがらせて、何か考えていた。そして、おもむろにタバコをもう一本取り出すと火をつけて丸く輪になった紫煙を吐いた。
「何を考えてる?」
和田もタバコに火をつけてから、待ちきれなくなって尋ねた。
「いや、その二人はここに来る前から関係があったんじゃないかなぁと思った」
「何だって?」
「だって数日の間に知り合ってホテルに消えるなんて、おかしいじゃない?」
マリアは男女関係には鋭い嗅覚を持っている。
「……なるほど」
「そして、二人そろって消えたのだったら、何かが終わったのか、これから始まる」
マリアがタバコを灰皿でもみ消してから言った。彼女の言葉に、和田はうなって考え込んだ。
自分の手帳を出して見ながらしばらく考えていた和田が、「君たちフィリピン人って、インドネシア人と区別できる?」と、形にならない考えを整理するように訊いた。
「何を突然。あなたがた日本人と、韓国人や中国人とを区別するようなものよ」
マリアが微笑んだ。
「……なるほど。日本人とは遺伝子学上、四分の一は中国系、四分の一は韓国系、残りは混血、一部にアイヌ系が混ざっている」
和田が自分の知識を呼び起こすように言った。
「フィリピン人も多分、同じ。隣の国とミックスされていると思う」
「……消えた美人を君は、なぜフィリピン人だと思った?」
「ああ、言葉と食生活ね」
「そうか……」
そう言ってから、和田が思案顔でコーヒーを飲み干した。