第二章 1
金曜日の朝八時半、大野綾子は中部国際センタービルの前で和田次長と鉢合わせた。
「おはよう。よく眠れましたか?」
コート姿の和田が、人懐こい笑顔で大野に訊いた。
「ええ」
大野は少し充血した目を伏せて答えた。
正面入り口の自動ドアを開けて中に入ると、若い警官とガードマンが金属探知機のゲートの前でニコヤカに立っていた。大野が身分証を右手にかざすと警官は軽く敬礼した。それを横目に大野は、さっさと金属探知ゲートをくぐった。
和田は少しくたびれた書類カバンを、左にあった持ち物透視装置のベルトコンベアの上に置き、大野に続いて金属探知機のゲートをくぐると、すぐにピーという警報音が鳴った。
「ちょっと、こちらへ」
若い警官に呼び止められた和田は、エレベーターホールの壁際でレンズのない大きな虫眼鏡のような探知機でボディチェックを受けた。和田のベルトのところで探知機が反応した。
「これですね」
警官が言った。
「明日からは、これを抜いて金属探知機をくぐったほうがいいね」
和田が、やれやれといった顔つきで言った。
「そのほうがいいでしょう」
警官は冷ややかに答えて、持ち場に戻ろうときびすを返した。
「ああ、君」
和田が警官を呼び止めた。
「何でしょう?」
「たとえばの話なんだけど」
「はい」
「たとえば、僕がダイナマイトを持って通ったらどうなるかな?」
「ダ、ダイナマイト?」
警官が驚いたように目を見開いた。
「だって、ダイナマイトは金属探知機に反応しないだろ?」
「ああ……、でも、持ち物検査装置では引っかかります」
「へえ」
和田はあごに手を当てて、感心するようにうなずいた。
「あのう……、自分は持ち場に戻ります」
警官が言った。
「ああ、引き止めて悪かった。ご苦労さん」
背中を見せて走り去る警官に、和田は右手を上げた。それから、うつむき加減に歩いてエレベーターに乗ろうとする和田の背中を、「和田さん」と大野が呼び止めた。
「カバンを忘れていますよ」
大野が和田のカバンを持って近づいた。
「いけね。いや、すみません。どうも、最近忘れっぽくて」
和田が頭に手をやった。
「いえ、……ところで、ダイナマイトに興味がおありですか?」
大野の涼やかな視線が、和田を捕らえた。
「いやあ、聞かれちゃいましたか。いえね、私はド素人なんで、爆発物って金属探知機でチェックできるのかという素朴な疑問が浮かんだのですよ」
和田は大野から手渡されたカバンを左手に持って「どうも」と頭を小さく下げた。
「さっきの警察官が答えたとおりです。持ち物検査装置は、今までの事件に使われた爆発物をすべて完璧に網羅しています。確実に検知できます」
大野が少し胸を張った。
「今までに……。すると、プラスチック爆弾でしたっけ。ああいう物もですか?」
「はい。そのほかにも対応できますが、これ以上は機密事項ですのでお教えできません」
「ああ、さすがですな。いや、未知なる爆発物を除けば完璧です」
「未知なる?」
「いや、そんなものがあるのかどうか、素人の私にはわかりませんが……。すっかり、お邪魔をしてしまって。それじゃあ」
「はい。それでは」
和田は一階に止まっていたエレベーターに乗っていった。それを見送る大野綾子は、何事かを数秒間考えていたが、やがてクルリと方向転換すると正面脇にあるカウンターの奥に入ってコンピュータを立ち上げた。
コンピュータが立ち上がる間に、驚いたことに大野の目の前に和田が戻ってきた。
「忘れてた。もう一つだけ。ダイナマイトを積んだ自動車が、ここに突っ込んで来たら対処できますか?」
和田はニコヤカな顔つきだったが、言葉の内容はドぎつかった。
「どういうことですか?」
思いがけないことを和田が言ったので、大野は思わず聞き返した。
「いえ、私がテロリストだったら何をやるかなと考えていたら、ふと思いついたのです。歩いて侵入するには検問が厳しい。だったら車で突っ込んでしまえってね。あ、素人の浅知恵だと笑わないで下さい」
和田が柔和な表情で恐ろしいことを言った。大野の脳は目まぐるしく動いた。彼女は、いや、公安部でそういう想定はしてこなかった。
「なるほど。イラクやアフガニスタンでは、そのような大胆な攻撃がかつて見られました。でも日本では、そのような事態が起きていません。でも可能性は否定できませんね。さっそく参考にさせていただきます」
大野は、素直にお礼を言った。
「本当に? いや、お役に立てたら嬉しいかぎりです」
和田が照れたように頭をかいた。
「じゃあ、どうも、お邪魔しました」
和田が、右手を上げて後退して去った。
和田を見送った大野は、すぐに正面からビルの外に出た。目の前は大きな交差点で、地下鉄駅への出入り口が正面をふさいでいる。だが、側面から歩道を走って突入できなくはない。戦場にあるような車止めを置くには、いかにも物々しすぎる。
ふと地面に目をやると、埋め込み式の車止めを見つけた。さっそくガードマンを呼んで、それらをすべて上げるように指示した。正面玄関と歩道の間には、銀色で円筒型の車止めが等間隔に十本立ち並んだ。
中に戻った大野は、このことを警視庁の上司に電話した。間もなく東京のアメリカ大使館前には、物々しい車止めが設置された。