第一章 3
定時の五時ちょうどに、和田は愛用のベージュのビジネスコートを羽織って国際センターを後にした。いつも出入りする裏口が封鎖されているので、ビルの正面から出てグルリと回って裏の駐車場に行き自分の古いカローラに乗り込んだ。故障知らずの車を、和田はたいそう気に入っていた。
少し考えてから車のエンジンを始動させた和田は、出口付近の路上に横付けされた県警機動隊のバスを横目に幹線道路に出た。渋滞した中央駅北口の交差点をノロノロと西へ抜け五分ほど走ると、大きな交差点の南側にモスクがこじんまりと建っていた。戦前からあるこのモスクは日本最古で、第二次大戦の大空襲で焼失したが間もなく信者の募金で再建されて今日に至っている。
その交差点を左折すると南下すると、道路の両側を古いビルが建ち並ぶ街並みになる。和田は、その中にある小さな寿司屋の角を、一方通行の狭い道路へ向けて左折した。それから二つめの小さな交差点にある小さな公園脇に車を停めると、ネクタイをはずして車から降り立った。あたりは暗くなり始めて気温が下がり、和田はコートの襟を立てた。ビルの谷間にある公園には、外灯がボウと灯った。
ここから南に徒歩五分ほどの大通りには公立職業安定所がある。公園の北側の区画にはイラン人が、南東側には多くの食い詰めた日本人が住んでいる。和田はコートのポケットから煙草を取り出すと、火をつけて紫煙を吸い込んだ。
やがて和田は、南の方から歩いてくる一人の男を見つけると、「モハンマド!」と声をかけた。
「やあ、ミスター」
モハンマドと呼ばれた端正で浅黒い顔をした男が、歯を見せて笑った後「ミスター、そんなもの吸うと早く死ぬよ」と和田に言った。
「ああ、わかってる。考え事をするときの癖でね、わかっていて吸っている」
和田は煙を吐き出してそう言うと、モハンマドは「どうしようもない」と言って肩をすくめた。
「今日は、何か良いニュースを持ってきた?」
モハンマドがニコニコして和田に言った。この地域へ、和田は人道支援のNPOを連れて月に一回ほど訪れている。ボランティア団体が集めた生活物資を分けるのが、主な業務だ。
「残念だったな。良いニュースは、いつもあるものではないよ。今日は君と話したくて来た」
和田は彼らと話す時、なるべく簡単な単語をゆっくり話す。煙草をもみ消した。
「ほう、何?」
三十代半ばとおぼしきモハンマドが、澄んだ黒い瞳で和田の顔を見た。
「近くの焼き鳥屋へ行こう。先月オープンしたばかりだ。もちろん、俺が金を出す」
「ブタは食べないよ」
モハンマドは答えた。
和田は「もちろん知ってる」と答えながら、昨年の秋にコンビニのおにぎりで失敗したことを思い出した。彼らはブタを食べない。おかかのおにぎりならと思って一緒に食べていたら、おかかを固めるゼラチンにブタが使われていると人道支援のボランティアの女性が教えてくれた。彼女は栄養士なので食品成分に詳しかったのだが、よもやそんなこととは知らなかった和田はモハンマドにその事実を伝えて謝罪した。
彼は一瞬、困った顔をしたが、すぐに和田の肩を叩いて「親切には感謝する。何、ミスターの善意には、神も許してくれるさ」と笑ってくれた。
五分ほど歩いた通りに面したビルの一階に、焼き鳥屋があった。四つあった四人がけの席の一番奥まで進むと、二人は向かい合わせて座った。カウンターでは、労務者風の男が二人ほど、ビールを飲みながら焼き鳥を食べて談笑していた。
やってきた若い男性店員が、「まず、お飲み物は?」と訊いたので、和田は「水を二つ」と答えた。モハンマドは酒を飲まないし、和田も強くない。それから、焼き鳥を塩焼きで五本ずつとご飯を二つ注文した。タレには何が混ざっているかわからないし、おにぎりやお茶漬けも同様だったからだ。
すぐに運ばれた水を一口飲んだ和田は、前に座るモハンマドに「最近になって、ここらに新しく来た奴はいないか?」と尋ねた。
かつてイラン人は市内各所にいたが、入国管理法が厳しくなり日本の景気も低迷を始めると、その数はぐっと減少した。モハンマドは、この地域の古株で主に日雇いの重労働で地味に身を立てて祖国に送金している。
「ああ、いる」
モハンマドが数秒間、視線を宙に浮かせてから答えた。
「何者か、わかるか?」
和田が尋ねた。
「先週、アフマドという男がイランから来た。知人を頼ってきたというが、その知人は見つからなかった」
「ほう。ちょっと待て。メモしないと忘れる。最近はどうも忘れっぽくて」
うすら寒い店内で、コートを着たままの和田がシャツの胸ポケットから手帳とボールペンを出した。
「何て言った?」
手帳のページをパラパラめくりながら、和田がもう一度訊いた。
「アフマド。本名か、どうか知らない」
モハンモドが肩をすくめた。
「ああ、かまわない。それで?」
「それで、俺がブローカーに紹介した。よっぽど金に困っているのか、彼は危ない仕事を選んで喜んでやっている」
「危ない仕事?」
「ああ、港のコンビナートで海底トンネルを掘る仕事だ。ダイナマイトは使うし、事故でも起きたら危ないよ。その代わり、給料はいい」
モハンマドは親指と人差し指で円を作って笑った。
「何歳くらいの男だ?」
和田は何事か手帳にメモしながら、上目遣いで質問した。
「三十歳くらいかな」
モハンマドは、整った顔を少し傾けて答えた。アジアと西洋との接点である中東の人には、エキゾチックな雰囲気がある。
「君くらいハンサムか?」
短い黒髪に彫りの深い整った顔立ちのモハンマドに、和田は尋ねた。
「俺? アハハ、冗談はやめてくれ」
モハンマドが笑うと、焼き鳥が運ばれてきた。
二人で一本ずつ取って目の高さに上げると、「いただきます」と言って食べ始めた。炭で焼いているせいか、あっさりとした肉に塩味がきいて美味かった。モハンマドは、すぐに一本食べ終わると、手羽先を解体し始めた。
「君は、行かないのか?」
和田が、夢中でトリを解体して頬張るモハンマドに言った。
「どこに?」
両手で手羽先を持ったまま、モハンマドが訊いた。
「海底トンネルの工事だよ」
和田が器用に手羽先の骨から身をむいて頬張った。
「お金はたくさんもらえるけど、命も大切だ。それに、俺は泳げない」
その言葉に和田が思わず噴き出すと、モハンマドも笑った。
「何も海の中で作業するわけではないだろ」
「そのとおりだ。冗談だよ。ミスター」
「……そいつと、行ってみてくれないか?」
「へ?」
トリの油で汚れた両手の指をしゃぶっていたモハンマドが、驚いたように和田を見た。
「その何とかという奴と」
和田は、さっき聞いた男の名前を、もう思い出せない様子だ。
「アフマドか?」
モハンマドが確認した。
「そうだ。……そうだな、そいつを一日でいいから見張ってくれ」
和田は頼むとばかりに手を合わせた。
「……オーケー。やっていたビルの解体工事が今日終わったから、明日は時間がある。ミスターの役に立つなら行ってみるよ。サラリーも悪くないから」
手羽先を食べ終わったモハンマドが、今度はトリの皮焼きを口に入れながらニヤリと笑った。
「何かあったら、俺の携帯に電話してくれ。テレホンカードは持っているか?」
「ああ、前にミスターにもらったのが、まだある。夕方に一度、連絡する」
「悪いな。頼むよ」
カウンターに置いてあるテレビが、お笑いタレントのトーク番組を流していた。緊迫した状況を隠すとき、テレビは敢えて意味のない番組を流すと政府関係の誰かが言っていたのを、和田はふと思い出した。目の前で、モハンマドが白いご飯を美味そうに食べていた。