終章 完結
終章
日曜日の午後、新幹線で東京に帰る大野綾子を見送りに、和田がモハンマドとマリアの三人でホームまで来ていた。
「フィリピンでは少数ですが、南のほうにイスラム教徒がいるんです。このマリアが教えてくれました。フィリピンの南はインドネシアでイスラム教徒が多いんですが、大半のフィリピン人はキリスト教徒だから見逃すところでした」
「ありがとう」
大野がマリアに握手を求めた。マリアは、はにかんだように微笑んだ。
「今回のテロ工作員は二人いたんです。一人目はイラン人青年。彼は来日してからすぐに、ダイナマイトを使うような危険な肉体労働に就いた。何か変だと気がついてくれたのは、ここにいるモハンマドです。彼は真面目で男気もある男でね。新参者や困っている人を見ると、助けてやる好青年です」
「和田さんは、良いお友達をお持ちですね」
そう言いながら、大野はモハンマドと握手した。
「いや、巡り合わせでしょう。現場からダイナマイトを調達した工作員が国際センターで自爆テロをすれば彼らの目的は達成しますが、警備体制が厳しくて容易ではない。だから、この男は突撃は試みるが、失敗しても囮でいいと計画されたのではないでしょうか」
「そう考えると、筋道がたちます。もっとも、彼の所持していたパスポートは偽造で、国籍は不明ですが」
大野が答えた。
「そして、本命は天然痘の生物兵器。これは金属探知機でも持ち物検査機でも引っかかりません。おまけに天然痘は三十年も前に撲滅されたので、今はワクチンも希少です。これを女が、国際センターに持ち込んで拡散する計画だったようですね」
「女の身分証も偽造で国籍不明ですが、今までの取調べの結果ではそのとおりです」
「天然痘は免疫を持つ人が少ないですから、感染すれば多くの人が死ぬでしょう。治療する手立てもないから非常に危険な伝染病です」
「恐ろしいことですね」
大野綾子が乗る新幹線が轟音と共にホームに滑り込んできた。
「和田さんは、東京へ戻るつもりはないのですか?」
列車に乗り込む大野が、和田に振り返って尋ねた。
「さあ、ここでの友人も増えたし、もう少し頑張ってみますよ。私は窓際族ですから、呼び戻されることもないでしょう」
和田が笑って答えた。
「もったいない気がします」
「いやあ、私には出世に縁がないことが分相応って思います。最近」
列車の発車ベルが鳴って、ドアが閉まろうとした。
「何かあったら、また電話します」
大野は叫んだ。和田が「え?」と耳に手をやったところで扉が閉まった。聞こえたかどうか、大野にはわからなかった。和田が、モハンマドとマリアと一緒に「ごきげんよう」とニッコリして手を振った。大野も手を振ると、列車は発車した。
三人が駅を出ると、街は日曜日の午後で買い物客や旅行者などでにぎわっていた。
「ミスター、食事に行こう。プレゼントを持ってきた」
モハンマドとマリアが笑って和田に声をかけた。
「え、プレゼント?」
「だって、今日はミスターの誕生日だろ。祝ってやるよ」
モハンマドがニコニコして言った。和田は、すっかり自分の誕生日を忘れていた。
「私はケーキを焼いたよ。死ぬほどまずくても、食べてもらうよ」
マリアが明るく笑った。
「俺はチキンを焼いて持ってきた。まずくても食べてもらうよ」
モハンマドが紙の手提げを目の高さに持ち上げた。
「二人とも、ありがとう」
和田が嬉しそうに笑って、彼らの肩を抱いた。肩を組んで歩く三人は、華やかな都会に仲良く溶け込んでいった。