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第一章 1

 三月になったばかりの木曜日は、晴れていたが寒気がまだ残っていた。愛知県庁のある愛知市中央駅から徒歩十分の場所に、二十九階建ての中部国際センターが建っている。その三階にある和田郁夫次長のデスクに、受付嬢の安藤真紀子が一直線にやって来た。

「次長、警視庁の方が面会を求めています」

 安藤が緊張した面持ちで告げた。まさに晴天のへきれき、意味がわからないと言わんばかりに和田が両手を広げた。

「愛知県警ではなく、警視庁?」

 地味なグレーのスーツに、少しくたびれたシャツを着た和田が安藤に聞き返した。

「はい」

 事務服に身を包んだ若い安藤は、直立不動で答えた。

「所長は?」

「国際会議の準備で席をはずしています」

 この建物の七階ホールで開かれる環境問題国際会議の事前協議は明後日に迫っていた。国際センタービルは、二階までが飲食店やコンビニ、三階から八階までを財団法人、中部国際センターが使い、その上階には外国の領事館や公館、国際専門機関などがある。十三階以上は貸事務所になっていて、外資系を中心にさまざまな企業がオフィスを構えていた。

「所長がいないなら、俺が会うしかないか」

 和田は冴えない表情でブツブツ言いながら、緩んだネクタイを締め直して席を立った。安藤は、ホッとしたように和田の後に従った。

 二人が入り口に向かって事務室を縦断して表に出ると、安藤のいつも座るカウンターの前に黒いスーツを着たスマートな女性が立っていた。警視庁と聞いて、いかつい男が来訪したのだと勝手に思い込んでいた和田は、キョロキョロと辺りを見回したが他に人がいなかった。

「次長の和田です。あなたが警視庁の?」

 ようやく和田が、その女性に言った。

「はい。大野綾子と申します」

 和田と同じくらいの背丈の女性は、手に持っていた写真入身分証を和田の目の前にまっすぐ呈示した。

「警視庁公安部……。それで、ご用件は?」

 和田は少し老眼なのか、やぶにらみに彼女の身分証を見つめたまま尋ねた。

「ここではちょっと」

 大野が身分証をショルダーバッグに仕舞うと、後方のエレベーターホールを振り返るように言った。

「ああ、そうですね。そこの小会議室は空いている?」

 和田が、後ろに立っていた安藤に振り返って尋ねると、彼女はコクンとうなずいた。

「では、こちらに」

 和田が大野の先に立って、廊下を隔てて反対側にある部屋へ大野を案内した。扉を開けると、そこは十人ほどが座れる長い机と椅子が並んだ会議室だった。窓からは春めいた太陽光がさんさんと降り注いでいる。

 入り口近くの席に、大野と和田は向かい合わせて腰かけた。座りかけた和田は「そうそう」と言いながら、腰を浮かせて尻ポケットにある二つ折り財布から自分の名刺を一枚出した。

「次長の和田郁夫です」と大野に手渡して軽く会釈をした。大野は、少し端の曲がった名刺を受け取り一瞥すると「よろしくお願いします」と返礼した。

「では、改めてご用件をうかがいましょう」

 和田が両手を揉みながら、黒いストレートヘアの大野を目を細めて眺めながら言った。

「実は在日アメリカ施設がテロ攻撃を受けるという精度の高い情報があります」

 清楚な身なりにはしているが、目鼻の整った顔立ちの大野が深刻な表情で言った。

「ああ」

 和田が、やっと少し事情がわかったという表情をした。つまり、そのような事案だから、県警ではなく警視庁の係官がわざわざ愛知くんだりまで来たのだと察した。

「確かに、ここにはアメリカ領事館がありますが、とても小さなオフィスです。東京の大使館を警備されたほうがいいのではないですか」

 そう和田が言うと、大野はキッとした表情で「すでに厳戒態勢を敷いています」と即答した。

「そのほか、国際空港と在日米軍の施設も厳戒態勢に入っています」

 大野が続けた。

「なるほど。それは完璧ですな」

 和田が大野に、すまないと言いたげに片手を上げた。

「私は警視庁公安部の外事捜査課から派遣されました。警視庁は東京で手一杯なので、私一人が愛知に派遣されました。このビルは県警と協力して、できるだけ早く厳戒態勢を敷きたいと思います」

 大野がハキハキと言った。

 アメリカの同時多発テロ発生以来、この国際センタービルの横手にも県警機動隊の紺色のバスが常駐するようになっていた。その機動隊が雲霞のごとく増える光景を想像した和田が「穏やかに願いますよ。ここは、いろいろ悩みごとのある外国人が相談に来る場でもあるのです」と言った。

「わかっています。ですが、セキュリティを優先します。まずは、正面入り口以外の出入り口をすべて閉鎖して施錠して下さい」

 大野が言った。

「そこまでしますか」

 和田が、まいったというように頭に手をやった。

「正面入り口にはゲート式の金属探知機を設置して、ビルに入る全員の持ち物検査も警察官を配置して行います。空港の搭乗口をイメージしていただければいいです」

 大野は頭の回転が速いようで、要領よく要点をまとめて端的に説明した。

「それは、いささか物々しいですね。……すると、われわれが出入りするときもチェックを受けるのですか?」

 和田が訊いた。

「当然です」

 大野が胸を張った。

「まいったなぁ。駐車場へは裏口から出入りするのですが、いちいち表に回らなきゃいかんのですね」と和田が頭をかいた。

「そのとおりです。蟻の這い出る隙もないようにいたします」

 大野が決然と言い切った。

「厳しいなあ。何もそこまでしなくても……」

「和田さんは外務省出身でしょ。そのくらいのことは、外国で当たり前の警備です」

 大野はたたみかけた。

「ああ、確かにここの管理者には外務省OBが多い。でも私はね、厚労省出身なんです」

 和田が、大野の勢いをはぐらかすように柔和な声で答えた。

「厚労省?」

 大野は意外そうな顔をした。彼女はここが外務省の天下り先だとばかり認識していたようだ。

「はい。私はここで、世界の予防接種普及事業をやってるんです」

 和田がとつとつと言った。

「予防接種?」

「予防接種ほど多くの人の命を救った技術はないです。例えばかつて死ぬ病気だった天然痘が撲滅されたことは、ご存知で?」

「も、もちろん知っています」

 大野にとっては専門外の話だったが、それくらいのことは知っているとばかりにやや気色ばんで答えた。

「日本は恵まれているから、人々が重病で死ぬのを間近に目撃する機会が少なすぎるんです。子供への予防接種を拒否する親が増えて、実地医療の現場は説得に大変だ。ただでさえ忙しいって言うのにね」

 和田が窓の外を見ながら話した。

「拒否する親が増えているのですか?」

「はい。残念ながら。副作用が怖いとか、人工的な免疫を獲得するのが嫌だとか言ってね」

「へー」

「確かに、予防接種に副作用がないことはないのです。でも、そのリスクを冒して接種率が高くなれば感染症は減るんです」

「なるほど」

「日本では多くの人々がリスク冒して予防接種を受け続けてくれた結果、伝染性感染症が非常に少ない国になってきました」

「そうだったんですね」

「それを自分の子供だけリスクをとらないなんて、言わば安全のただ乗りですよね。私は若い頃、救急医をやっていたんですが、そういう不毛な現場のストレスに何だか嫌気がさしていたところ、厚労省が医官を募集していたんで転職しました」

 和田の話は、いつしか熱を帯びてきた。大野はつい、彼に引き込まれるように聞き入っていた。

「ところが私は、あなたと違ってキャリア官僚ではありません。三年前に出向命令が出て、こっちに赴任しました。本庁では出世が見込めない者は、お払い箱なんでしょう」

 和田が指摘したように、確かに大野綾子はT大を卒業して公務員試験のほか、国際通訳の資格も持つキャリアだった。彼女にとっての外事課は働き甲斐があり、気がつくと五年が経っていた。在日外国人の情報収集や諜報活動をするのが、彼女の得意分野だった。

「それで今の私の仕事はですね、世界中の子供たちに予防接種を受けてもらえるよう普及させる事業なんです」

 和田が話を続けた。

「世界中にですか?」

「はい。現場が好きな私は、これこそ自分が求めていた仕事だと勇んでやっていたんです。ところが運が悪いですなあ。折り悪く不況がやってきて、どこの企業にも政府にもお金に余裕がなくなりました。かなりの難事業になってしまった今は、ボランティアや寄付を集めて細々と展開しています」

「大変ですね」

 大野は、うだつの上がらない天下り役人と思っていた和田の、意外な一面に同情するようにうなずいた。

「まあ、各所に頭を下げてお願いするのが、主な仕事ですね。幸い私は足と口が丈夫なんで、地道にやっています。その他にも、在日外国人を人道支援する活動にも首を突っ込んだり口を出したりしています」

「どうして、余分な仕事まで?」

「お金がない以上、人の情に訴えるしかないですから。言うなればイソップの北風と太陽。人の真心とか暖かい気持ちってのは、めぐり巡って返ってくると信じてやっています。……ああ、話がすっかり横道にそれましたね。私の悪い癖でして」

 和田が頭をかいた。

「いえ、そういう考え方もあるのだと勉強になりました」

「それで、私は何をするんでしたっけ?」

「ああ、この建物の正面以外の出入り口を封鎖してください」

 大野が我に返って、和田に命令口調で言った。

「そうでしたね。わかりました」

 和田が人差し指を立てて人懐っこい笑みを浮かべると、立ち上がった。壁掛け時計は十時十五分を指していた。

<a href="http://www.alphapolis.co.jp/site_access2.php?citi_id=492122920" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/site_access.php?citi_id=492122920&size=300" width="300" height="45" border="0"></a>

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