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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

秋桜学園かぐや戦記

作者: singspieler
掲載日:2025/12/16

ある日、有沢亜美は、学校の礼拝堂の天井に天使の姿を見る。

そこから始まる天使と悪魔の戦いに巻き込まれる有沢と、その相棒の毛利。

ガールズグループ@onefiveの四人をモデルにした、異世界バトル物語です。

序章~天使~



天使がいたんだ。


礼拝堂いっぱいに鳴り響くオルガンと聖歌隊のハーモニー。夏休み明けでまだまだバリバリに元気な日差しが、ステンドグラスの鮮やかな色彩をぎらぎら輝かせて、視覚と聴覚の両方から脳の中心が痺れていく。キリスト教徒でもない私にとって、祝祭日の朝のミサなんて学校行事の一つに過ぎないはずだけど、この陶酔の瞬間は確かに心地よい。胸の中がざわざわするような、逆にどこまでも澄み切っていくような、矛盾する感覚で視界がぐるぐるする。他の同級生同様、私もちょっとうとうとしていたのかもしれないけど。


でも確かに、天使はいた。司祭の立つ祭壇のはるか上、天井近くのアーチの陰に隠れて、透き通った美しい顔が覗いていた。真っ白な翼の一部が、アーチのカーブに沿って折りたたまれていて、朝の光の中に溶けていた。柔らかな金色の波打つ髪の上に、虹色に揺らめく光の輪が見えた。その視線は真っすぐに、オルガンの前に立ち並ぶ聖歌隊に向けられていた。


そんなに冷房も効いていない、蒸し暑い礼拝堂の中だと言うのに、全身に鳥肌が立った。背筋に氷の棒を差し込まれたようだった。見てはいけないものを見てしまった感覚。


そっと聖歌隊の方を振り向いた。なぜか、天使に気づかれるとまずいと思った。目立たないように、気づかれないように、視界の隅の方に聖歌隊が入るぎりぎりまで、ゆっくりと首を後ろに巡らせた。


あの子だ。

天使はあの子を見つめている。


聖歌隊の端で、すっと背筋を伸ばして、ひときわ美しいソプラノを響かせている。30人ほどいる聖歌隊の中で、その子の周りにだけ、美しい金色に輝くオーラが見えた。こんなに神々しいオーラは初めて見た。なんで見えちゃうんだろうって思った。他の人が見えないものまで見えてしまって、得したことなんか一度もない。


そおっと首を元に戻して、顔は動かさずに恐る恐る視線を上にあげると、もう天使は消えていた。背筋に差し込まれた氷の棒がすうっと溶けていく。それでも、全身を覆う鳥肌は消えなかった。


「有沢、どうした?」ミサが終わって、立ち上がった私の顔を、毛利がのぞき込んできた。「なんでもない」笑顔を返した。

「嘘つけ」すっと寄り添って手を繋いでくれた。人の体温って安心するなぁ。「また何か見えたんでしょ?」

「…後で話す」いくら相手が毛利でも、伝えるのに躊躇するものはある。


あれは間違いなくヤバいものだ。

人の世に関係していない、天界とか、神と言われる存在に関わるものだ。

幽霊とか、人の無念とか恨みとかならまだいい。人に関係しているものはあくまで人の世界で完結している。人とはちゃんとコミュニケーションが取れる。それがたとえ、この世にないものであったとしても。


でも天使はヤバい。

天界の生き物には人の言葉は通じない。


なんであいつはあそこにいたんだ。

そしてあの子を見つめていたんだ。

金色に輝くオーラを放っていた、あの美しい生徒を。

明らかに、獲物を狙う狩人のような鋭い視線で、人のものでない凍てついた微笑みを浮かべて。

そして、何度目かの自問自答をする。


どうして私には見えてしまうんだ?




見える



最初に見えたのは、小学校五年生の夏休みだった。

暑いし、体調も悪いしで、気分は最悪だったのだけど、家でゴロゴロしていると余計に体が重くなるから、と、母さんと一緒に買い物に出かけた。

スーパーで、カートに寄りかかるようにしてだらだら歩きながら、レジカウンターに向かうと、レジ打ちのおばさんの後ろに、ぼんやりした影が立っていた。

なんだろう、と思ってまっすぐ見ると消える。目をそらすと、視界の端にふっと現れる。

別に何かをするわけじゃない、ただ立っている。影、としか見えなかったけど、人の形をしているようだった。裾の長い青いワンピースを着た女の人のように見えなくもなかった。

レジ打ちのおばさんは元気な笑顔と明るい大きな声で、商品の名前を読み上げて、買い物かごにキレイに商品を並べていく。その笑顔の後ろにぼやっと影が見える。影の方を見ようとすると消える。


「母さん」と袖を引っ張って見上げると、母さんは私の顔を見て、一瞬真顔になった。

そしてまた、いつもの笑顔に戻って、そっと指を唇に当てた。

「割引20%になります!」レジ打ちのおばさんの元気な声が響いた。


生理が始まったから、ひょっとして亜美にも見えるようになるかも、とは思ってたけどね、と、家に帰ってから母さんは言った。

うちの母方の家系なんだよね。いろいろ見えちゃうの。

拝み屋さんみたいなことをやってた親戚もいたらしいけど、見えるのと、それを取り除いたり、働きかけたりするのは全然違う話だから。

「見える」のには何かしら理由はあるのだろうけど、その理由を色々詮索しても仕方ない。

私も、亜美も、多分見ることしかできない。見ること以外他に何もできないのに、見えたもののことを相手に教えたり、色々詮索するのは失礼なことだと私は思う。

だから、見えたとしても、その人にそのことを伝えるのは、やめた方がいいと思うよ。


そう教えてくれた母さんだったけど、その「見えるもの」が示唆することにそれなりに動きを見せることもあった。よく覚えているのは、中学一年生の初夏、保護者会があった日のことだ。

会合から帰ってきた母さんの顔色が真っ青で、これは何かが見えちゃったんだな、と思った。その頃には、母さんと私の間で、お互いが見たものについて、相手が言ってこない限りは、積極的に情報交換をすることはしない、というルールが出来上がっていたから、私は黙ってテレビを見ていた。母さんは夕飯の支度をしようと台所に立って行ったけど、水音も立てずにシンクの前に立っていた。声をかけるべきじゃない気がして、私は黙っていた。

しばらく考え込んだあと、母さんは意を決したように、スマホを手にして二階に上がっていった。しばらくして降りてきた母さんの顔は、少し紅潮してかすかに微笑んでいた。

「ちょっと出てくるわ。何かデリバリー頼んでおいてくれる?」母さんはそう言って、あたふたと出かけていった。


それから一週間くらい経って、帰りに校門で呼び止められた。「有沢亜美さんよね」と声をかけてきたおばさんに見覚えはなかったけど、あ、この人か、とすぐ合点がいった。大きなおなかを抱えた妊婦さん。顔色はずいぶん悪く見えたけど、弱いながら確かに明るい色彩を帯びたオーラが見えた。何かの危機を潜り抜けた後の生命力の輝き。

「お母様にお礼が言いたいのだけど」とおばさんは言った。「お宅にお邪魔するのもご迷惑だと思って。」

そしてみっしり重量感のある紙袋を差し出した。家に帰って開けてみたら、立派な桃が3つ入っていた。

「桃は邪気を払うからね」母さんは桃の皮を剥きながら言った。

「…聞いてもいい?」私はおずおず言った。「何があったか。」

「…亜美も、もう中学生だもんね」母さんは少し考えた後、まっすぐ私を見て言った。「同じようなことがあるかもしれないから。」


黒い腕が4本、あの人の肩から生えてたのよ。

思わず叫びそうになって、保護者会だって思い出して慌てて口をふさいだ。

あんなにはっきり見えたのは私も初めてだった。誰かの恨みとか、守護霊とか、死んだ人の残留思念とかを背負っている人は何度か見たけど、あんなにはっきり、それも自分の身体から邪なものを生やしている人を見たのは初めてだった。

2本の腕で自分の首を絞めて、2本の腕を自分のお腹に突っ込んでがりがり掻き回していた。これはまずいと思った。この人は死ぬ気だわ。お腹の中の子供を道連れにして。


亜美に言ったと思うけど、見えたところで私たちにはどうにもできないのよ。ひどい不幸を背負った人を見たことは何度もあるけど、あなたは不幸ですねって言ったところでどうにもならないから。

でも、保護者会に出席してたってことは、ひょっとしたら救難信号を出しているのかもって思ったのよ。自分が他のお母さん方と比べてどれだけ不幸か、確かめたいっていう暗い気持ちもあったみたいだけど、誰かが自分の不幸に気づいてくれないかっていう思いも見えたような気がしたの。

保護者会の名簿確かめて、思い切って電話して、「顔色が悪そうだったから気になって」って言ったら、電話口で大泣きされてさ。慌てておうちに行ったわよ。結構間一髪だったみたいで、自動車の中で練炭焚いて意識失いそうになる直前だったみたい。その自動車の中にスマホを持って行ったってこと自体、誰かに止めてほしいってギリギリまで思ってたんだろうね。「命の恩人です」なんて言われて、偶然ですよってごまかしたんだけどさ。


どうして私には見えるんだろうって時々考えるよ。多分亜美も、これから何度もそう思うだろうね。今回はあの人を助けることができたけど、あの人の不幸は全然解決していない。あの人も、生まれる子供も、これからお姉ちゃんになる亜美の同級生も、ずっと不幸を背負って生きていくかもしれない。今明るく輝いているあの人のオーラも、またどす黒く汚れてしまうかもしれない。自分を救うことができるのは、結局は自分だけだから。


それなのに、どうして私たちには見えてしまうんだろうね。その人が背負っているものに対して、なんの救いも与えることはできないのに、どうして神様は私たちに見える力を与えたんだろう。

今でも答えはないの。だから亜美も、ずっと考えていくんだと思うよ。どうして自分には見えるんだろうか。見えたものに対して、自分は何をすればいいのかって。




天使の実在について



「野澤樹里。」

佳乃が見せてくれた聖歌隊の集合写真の中から、あの子の顔を探して指さすと、佳乃の顔色が変わった。「樹里がどうかしたの?」

「…いやその」佳乃の視線が怖い。「…キレイな子だと思ってさ。」


うちの学校の聖歌隊、つまり合唱部に所属している同級生で、一番話しやすいやつ、ということで、同じクラスの藤木佳乃に聞いたんだけどな。こっちに向いた視線が予想外に厳しくてちょっとビビる。佳乃ってこんな怖い顔するんだ。

「あんたには毛利翼がいるでしょうが。」

「いや、そういうことじゃなくて」待て、どういうことだ。じゃなくて、どう言えばいいんだ。「こんなキレイな子なのに、今までなんで気づかなかったのかなって思って。」

「まだ一年生だからね。」

「一年生って、高一?」中高一貫のこの学校の同級生なら、3年以上も一緒にいて知らないはずはないんだが。佳乃と同じで高校からの入学組かな。

「樹里は中一だよ。」

「これで中一!」声が大きくなる。「こんな美人が?」

「キレイで大人びてて目立つからさ」佳乃の目の疑いの影が消えない。「街でスカウトされることも結構あるし、変な男に声かけられることも多いっていうから、この子のお姉ちゃんにボディーガード頼まれてるんだ。あたしが合唱団入ったのもそのせい。」

「そうか」佳乃がボディガードなら安心だろう。キレイな子だからって、いいことばかりじゃないわな。あ、いい言い訳思いついたぞ。「じゃあ、ミスコンとか企画しても出る気ないかなぁ。」

「ミスコン?」佳乃の視線がさらに厳しくなる。あかん、言い訳がへたくそ過ぎたか。佳乃の周りに赤黒い不信のオーラが見える。佳乃のオーラって濃いんだよなぁ。無茶苦茶パワフル。敵に回すとヤバいタイプだ。

「新聞部の文化祭企画に出してみようかなぁ、なんて思ってさ」思い付きの言い訳に深入りしない方がいいな。ちょっと話を逸らすか。「樹里ちゃんのお姉ちゃんも、うちの学校なの?」

「あんた新聞部なんだから知ってるでしょ。中学部の生徒会の。」

「野澤優里か」6月に学校新聞の原稿を頼んだんだった。新生徒会の所信表明文。中学部生徒会の会計担当だったな。無茶苦茶頭のキレそうな子だった。

「優里が中二で、樹里は中一。年子姉妹なんだよ」佳乃が言う。

「頭脳明晰なお姉ちゃんと、眉目秀麗な妹さんねぇ」ちょっとため息が出る。「どっちか半分でも分けてもらいたいもんだ。」

「下心持って近づいたら殺すかんね」赤黒いオーラ背負った佳乃が言う。全然冗談に聞こえない。とりあえずへらへら笑ってごまかしながら退散した。


「天使って、信じる?」部室でPCに顔突っ込みそうになっている毛利翼に言うと、画面の上からじろっとにらまれた。

「天使みたいな下級生追いかけてるらしいじゃん。」

「…なんで知ってるの?」地獄耳かよ。

「佳乃に聞かれた」PCのキーボードを打つ毛利の指の音が高くなる。「新聞部でミスコン企画してるって、ほんとかって。」

「…いい企画だと思うんだがな」とっさの思い付きだったけど、新聞部企画としては悪くない気がしてきた。「文化祭のメインステージ企画でやったら盛り上がると思わない?」

「ジェンダーバイアスかかってるから却下。」

「男装オンリーにするとかどうよ。」

「いずれにせよ、野澤樹里ちゃんは無理だと思うよ」毛利がまたこちらを睨む。「保護者ついてるからね。」

「佳乃か」ため息つく。「お姉ちゃんにボディーガード頼まれたって言ってたな。」

「鉄壁の守備だよね」キーボードのカチャカチャが再開される。「だから樹里ちゃんは諦めなさい。あんたが美少女好きなのは分かったけど。」

「…樹里ちゃんの話はいいから」なんか誤解されてるなぁ。毛利は時々こういうヤキモチモードに入るんだ。別に私は毛利と恋人付き合いしてるつもりはないんだけど。佳乃にまで変なこと言われたし。「天使の実在について信じるかと言う話だよ。」

「…信じるわけないでしょ」キーボードのカチャカチャは止まない。「有沢が見た天使のイメージは、礼拝堂に集まった人の信仰が有沢の見える力で具体化して見えたものだと思うよ。確かに有沢の言うように人ならざるものかもしれないけど、人の思いが作ったという意味では人の世のものだと思うけどな。」

…そうだといいけど、と思ったけど口には出さない。毛利は中学入学以来のマブダチだし、私の見える力のこともある程度理解してくれている唯一の同級生だ。それでも、実際に見える私と見えない毛利の間には、どうしても越えられない壁がある。

あれは人の想いが作り出した存在には見えなかった。何か違う次元の存在、人が見ることも触れることも許されない異世界の存在。

「キリスト教における天使の階級を見ても、神を頂点とした倫理的秩序を天界という分かりやすい比喩で階層化したものと私は思うけどね」毛利はキーボードをカチャカチャ叩きながら淀みなく喋り続けている。「上位天使のセラフィムとかケルビムなんか、もう人とは似ても似つかない抽象的な姿で描かれることが多いから、物理的な実在というよりも正義とか力という概念としてとらえるべきだと思う。」

「…はあ」何を言ってるのか半分も分からない。毛利は時々こうなる。スイッチが入るというか。脳の知識の扉が開いて怒涛のように言葉があふれだす状態。

「我々が、天使、と言う言葉でイメージするのは、西洋絵画に描かれた大天使ミカエルとかガブリエル、いわゆるアークエンジェルだね。この天使達は神の使命を人に伝える役割をするから、人の目に見える具体的な姿をもって描かれる。翼と光輪を持った、いわゆる天使の姿だ。でも大事なのはその物理的な実在や姿がどうであるか、ではなく、神が人に伝えた預言、メッセージの内容そのものなんだよ。」

「…目撃談とかはないのかな」毛利の言葉の奔流に押し流されないように耐えながら、かろうじて言葉を差しはさんでみる。

「1984年にソ連の宇宙ステーションのサリュート7号で宇宙飛行士が宇宙空間を飛翔する7人の天使を目撃した、という話があるね」毛利は立板に水で続ける。こいつの脳はウィキペディアとWiFiでつながってるのか?「1917年のポルトガルで起こったファティマの奇跡でも天使を見たという証言がある。ただ私は天使は実在するとは思っていない。天使はあくまで概念であり、神が人に対して示した意思が人の意識の中で分かりやすい像を結んだ結果に過ぎない。もちろん世界そのものが人の脳が認識する情報の投影に過ぎないという認識論に立つならば目撃者が見た天使はまさに実在すると言えなくはないけれど…」

「…私の脳の認識能力を超えたので、そろそろやめてもらっていいですか。」




紗耶香



保健室のカーテンを開けると、西日がまぶしくて目を細めた。紗耶香はベッドで上半身を起こして、本を読んでいた。古文の教材。この表紙は、竹取物語概説だな。

「亜美」微笑む横顔が西日の中に溶けていくみたいに見える。影が薄いなぁ。「毛利副編集長殿から校正入ったから、持ってきた。」原稿をカバンから出して手渡しながら、紗耶香の透き通った横顔の脇でもぞもぞとうごめいているものから視線を逸らした。


神様って不公平だよなぁ。

光の中に消えてしまいそうな紗耶香の横顔を眺めながら、私は思う。紗耶香を見ると、いつもそう思っちゃうんだよなぁ。毛利みたいに、WEB検索サイト並みの知識量の脳を持っている人もいる。天使に狙われるほどの輝く美貌を持っている子もいる。そして、人の手ではどうにもならない運命を背負ってしまった子もいる。紗耶香みたいに。


紗耶香の肩の後ろから背中にかけて、どす黒い無数の触手を持った塊がぐねぐねとうごめいている。背中にべったり貼り付いた触手が時々脈動するように見えるのは、紗耶香の生気を吸い取っている動きだろう。グロ系の生き物全般NGの毛利が見たら気を失うだろうな。


「竹取物語読んでたの?」もぞもぞぐねぐねのイソギンチャク野郎から目をそらして、なるべく明るい声で言った。「古文の授業なかったのに。今日。」

「なんか好きなんだよね」紗耶香が微笑む。この子はなんて寂しそうに笑うんだろう。「あんなに悲しんでたのに、全部きれいさっぱり忘れて天に昇って行っちゃうのが、なんか清々しいじゃん。」

言いながら、紗耶香が頭を押さえて目を閉じる。慌てて言った。「毛利の赤入れは後で確認すればいいよ。今は寝てな。」

「ごめんね」静かに微笑んで、横になった顔に血の気がない。グロ系イソギンチャク野郎も、シーツの下に隠れて一瞬見えなくなったけど、のたうち回っている触手の先端が時々シーツを突き抜けるのが見える。こいつが元気になればなるほど、紗耶香の具合が悪くなるんだよなぁ。深く息を吸って、カバンから護符を取り出した。護身用に天神さまから母さんがもらってきてくれたもの。


私がまだ小さい頃から、母さんは毎月、家の近所の天神さまに行って護符をもらってきていた。その理由を知ったのも、初めて影を見てからだ。

「私たちみたいに見える人間の近くには、あちらの世界のものも寄ってきやすいんだよ」と母さんは言った。「これは我が家を守ってくれるこの土地の氏神様の護符。これからは亜美の分ももらってきてあげる。この護符は、あんたの身を守るだけじゃない、人の邪気を払う力もある。

「私たち自身には見えるだけで、人の背負ったものを取り除く力はないけどね」母さんは護符を渡してくれた時に言った。「人の心を傷つけるものに、そいつらが嫌うものをかざせば、そいつらの力が少し弱まることがある。特に、沢山の人の祈りを受け取っているようなものにはそういう力がある。神社の護符とかは結構効くんだよ。」

それでも、ただ護符を近づければいい、というものではない、と母さんは言った。特に日本の神様は気まぐれだから、力を貸してくれって真剣に祈らないと、効いてくれない。


紗耶香に力を与えてください。護符を胸にあてて祈る。この子の生きる力を、少しだけ助けてやってください。

そうして、護符で、シーツの上をさぁっと撫ぜた。護符がビリっと震える感じがする。天神様は雷神だから、なにか電気と関係があるのかな。シーツから噴き出してぐねぐねと踊っていた触手が、感電したように一斉にキュッと縮まる。ざまぁみやがれ。

紗耶香が寝息を立て始めた。少しは気分よく眠れるだろう。


紗耶香に初めて会った時は、ただ暗い影を背負ってるみたいにしか見えなかったんだけどな。

中一の体育祭のクラス対抗競技の時、別のクラスの見学席に座っている線の細いひょろっとした女の子が、暗い影を背負っているのが見えたんだ。同じクラスの子じゃなかったけど、影を見ただけで私にはピンときた。ああ、あの妊婦さんの娘さんだ。もう産まれてるだろうから妊婦さんじゃないだろうけど。

「不幸とか、呪いってのは伝染するから」母さんが言っていた。紗耶香の背負っている影のことを母さんに話したら、「どっちが原因か分からないねぇ」と言った。

「母親の不幸が子供に伝染したのかもしれないし、子供が背負っている凶運が家族に影響しているのかもしれないし…」

いずれにせよ、呪いは、その人自身の力で断ち切るしかないんだ、と母さんは言った。私たちにはその人の力を助けてあげることしかできないから。


紗耶香の背負っている影は、断ち切られるどころかどんどん濃くなっている気がする。昔は形もぼんやりしていたのに、最近ははっきりと邪悪な姿を見せるようになってきた。どう見ても幽霊とか生霊といった人起源のものじゃない、妖怪とか魔物みたいな、たちの悪い邪悪なものだ。無数のグロテスクな触手を蠢かしながら、紗耶香の背中に貼り付いて生気を吸い取っている姿があんまり醜悪で、私は腹が立って仕方がない。紗耶香がいつも、静かな微笑みを浮かべて、いろんなことをあきらめているように見えるから余計に腹が立つ。今みたいに、人に気づかれない機会をうかがっては、護符で感電させてやってるんだけど、効果は長続きしないんだよなぁ。


「覚悟しておいた方がいいよ」紗耶香に取りついているモノの話をしたら、母さんは厳しい顔をして言った。「何度も言うけど、私たちにできることは限られてる。その子がどんなにいい子でも、運命からは逃れられない。」

そしてちょっと遠い目をして言った。「悲しいことだけど、そういう運命を背負った人ほど、心優しくてとってもいい人が多いんだよねぇ。」


母さんは、沢山の人たちが、自分の背負っているものと戦っている姿を見てきたんだろうな。運命を克服した人もいる。打ち負かされてしまった人もいる。そういう他の人が気づかない戦いをいくつも見てきて、自分の無力さへの怒りも諦めも、何度も感じてきたんだろう。


本当に、どうして私たちには見えてしまうんだろうなぁ。




プラットフォームにて



「紗耶香は一緒じゃないの?」駅のベンチに座っていた毛利が立ち上がって、言った。

「白井先生が、しばらく保健室で休んだほうがいいって」紗耶香は保健室の常連だから、保健の白井先生も慣れたもんなんだよなぁ。とはいえ、白井先生にイソギンチャク野郎のことは言えないし。「ひょっとしたら、ご家族がお迎えに来るかも。」

「…なかなか厳しいなぁ」毛利がベンチに座りなおした。

身体が弱いせいで帰宅部だった紗耶香を新聞部に誘ったのは私だけど、毛利は紗耶香の書く文章が気に入ってるんだよな。対象に対する愛情があって、読者が決して不愉快にならない、ああいう文章を書ける人はなかなかいないって、スカウトした私を褒めてくれた。

「あんたのナンパ癖もたまには役に立つね」って言われたな。どういう意味だ。

「紗耶香に憑いてるヤツってさ」毛利が言う。「退治できないの?」

「…あんまりタチのいいヤツじゃないから」本当に、私には何もできないんだよなぁ。

「…紗耶香は有沢に感謝してたよ」私が自分の手のひらを見つめていたら、その手を毛利が握ってくれた。「新聞部に誘ってもらえて嬉しかったって。自分の文章が誰かに読んでもらえて、自分が生きてた証が残せるって、すごく幸せなことだと思うって。」

「…悔しいなぁ」呟くように言った。「紗耶香が優しい子だから余計に悔しい。」

「…天使はいないと思うけどさ」毛利が私の手をぎゅっと握って言う。「死ぬときは、天使に迎えに来てほしいよねぇ。悪魔とか、ゾンビみたいな気持ち悪いのじゃなくて、キレイな明るいものに連れていってもらいたい。」

「天使に連れていかれようがゾンビに連れていかれようが、死は死だよ」私は言う。全部きれいさっぱり忘れて月の世界に上ったかぐや姫のことを、ちょっと羨ましそうに言っていた紗耶香の笑顔を思い出す。「死の世界に人を連れていくやつが誰だろうが、そいつらはみんな人殺しだ。」

「…有沢はニヒリストだなぁ」毛利は言う。「もう少しロマンティシズムに学ぼうよ。」

向かいのプラットフォームに、知った顔が見えた。佳乃だ。一緒にいる二人に自然に視線が移る。

「…天使様がご来臨だね」毛利が言った。「ボディーガード付きだ。」


野澤姉妹と佳乃の三人が、並んで向かいのプラットフォームのベンチに座った。樹里ちゃんを真ん中に、佳乃が向かって右、優里ちゃんが左。確かに、SP従えたVIPって感じだなぁ。駅にいる乗客たちが、なんとなく樹里ちゃんに視線を送るのが分かる。ほんとにキレイな子。佳乃に向けた笑顔が、文字通り輝いて見える。

「ミスコンやったらぶっちぎりで優勝だよなぁ。」

「だったら企画の意味もないじゃん。最初から結果が決まってるってことでしょ。」

「男装限定にするってのはどうよ」なかなか諦めがつかない。「そうすりゃ佳乃とか、いい線行きそう。ウチのクラス一のイケメンだし。」

「有沢が出場するなら認めてやってもいい」毛利が言う。「こっちのやる気も出る。」

「やなこった。」

「じゃ却下。」


反対車線に電車到着のアナウンスが流れる。向かいのベンチから、3人が立ち上がろうとした時、佳乃がすっと右手を出して、二人を制止するのが見えた。ゆっくりと佳乃が立ち上がる。座りなおした二人の前に仁王立ちになる。その視線が、こっちを見ている。私を見ている。いや、見ている、なんてもんじゃない。視線そのものが鋭い刃の切っ先のように、こっちを射抜いてくる。これは殺気だ。なんだ。私は別に、下心もって樹里ちゃんに近づいてないぞ。佳乃の赤黒いオーラが、ぶわっと膨らんだような気がした。オーラじゃない。炎だ。巨大な炎が佳乃の後ろに突然燃え上がった。

色んなことがスローモーションのように見えた。佳乃の右手がすっと伸びた、と思ったら、そこに炎の塊が凝縮して、真っ赤にたぎる熱球が、弾丸のように私の顔面に向かって放たれた。死ぬ、と思った。すさまじい高温の熱球が、私の頭を吹き飛ばして、首をなくした身体が痙攣しながらくず折れる姿が見えた。熱が私の肉を焦がす臭いまで感じた。なんで佳乃に殺されるんだ。樹里ちゃんに興味を持ったのがそんなに気に入らないのかよ。それよりも、この佳乃のオーラはなんだ。オーラどころじゃない、人が持っているものじゃない。もっと巨大な破壊力を備えた攻撃兵器。

熱球が私の頬をかすめて、私の後方にいた何者かに命中するのを感じた。後方からの衝撃に前のめりになった私の目の前に、白い羽根が散った。無数の白い輝く羽根。

天使の羽根?

振り向くと、傷ついた天使がいた。片方の羽根の真ん中に穴を開けて、怒りに燃える視線を向かいのプラットフォームに向けていた。歯ぎしりの音まで聞こえる気がした。一瞬、こちらをにらみつけたような気がして、気づいたらもうそこには何もなかった。天使は瞬時に姿を消していた。


周りの音が戻ってきた。駅のアナウンスが流れて、反対車線に電車が滑り込んでくる。三人が乗り込むのが見えた。佳乃の腕に優里ちゃんがしがみついている。腕にしがみつきながら、優里ちゃんは車窓越しに私を凝視している。車内の明るい光に照らされて、佳乃も私を見つめている。頬が紅潮している。

意味もなく、美しいと思った。佳乃って、こんなに美人だったっけ。

そうか、これは戦士の顔だ。戦闘が始まったことを自覚して高揚感に輝く、戦士の顔。

「有沢?」毛利が聞いてくる。「どうした?」

こちらのプラットフォームにも、電車が入ってきた。私は立ち上がった。膝ががくがくする。


私は一体何を見たんだ?




姉妹



よく、「神様に愛された子供」とか言いますよね。

特別キレイな子供とか、賢い子供とか、何かしら人と違う才能や外見を持っている子供に向けて言われる言葉。

樹里は文字通り、「神様に愛された子供」なんです。

というより、「神様に愛されてしまった子供」というべきかな。


年も一つしか違わないから、双子みたいに、自分の半分みたいな感覚で、ずっと一緒に育ってきたんです。

でもどこかで、この子は私と違う、っていうことも分かってた。

ただキレイだっていうだけじゃない。この子はそもそも持っているものが違う。

みんなが振り返って妹を見てしまうのは、この子が美しいからだけじゃない。

有沢先輩ほどじゃないけど、私も感じることがあります。

樹里が持っているオーラ。

華やかで、触れただけで幸せな気分になれる、笑顔のオーラ。


樹里に対して劣等感を感じたことはありません。妹が持っていないものも、私はしっかり持っているから。数学とかね。

私は数学で学年一位譲ったことないけど、樹里の数学の点数は壊滅的だから。

喧嘩もしますよ。お互い泣いちゃうくらい怒鳴りあったり叩きあったりすることもある。

でもね、樹里は私にとって、宝物なんです。

世界に一人しかいない、私の半分。

私の行く先を照らしてくれる光。

私の歩みを支えてくれる杖。

神様に愛されてしまったキレイな妹。


あいつが初めて来たのは、樹里が小学校五年生になった秋でした。

あいつ、というか、あいつら、というか。

私には、有沢先輩ほど、しっかり姿が見えないから、単体なのかどうかもよくわからない。樹里を狙ってくる時はある程度形が凝固するみたいで、かなり姿もはっきりするんですけど。

駅で佳乃ちゃんが攻撃した直後、私にも一瞬見えました。

有沢先輩の後ろ、有沢先輩を包み込むような大きな真っ白な光の塊。

天使だなんてとんでもないと思います。なんでそんな姿に見えるのか。

あいつは樹里を私から奪おうとする、私にとっては間違いなく邪悪なものです。


でも、佳乃ちゃんも、あいつらのことを「天使」って呼ぶんですよね。

そして自分のことを、「悪魔」だと。

人間が作り上げたイメージの中で、一番しっくりくる言葉だからって。

確かに、初めて見た佳乃ちゃんの形は、真っ黒な火の塊でした。

あらゆる光を吸い込んでしまう、黒々とした破壊のエネルギー。


秋と言っても、まだ残暑が厳しくて、小学校の下校時間が辛い時期でした。

樹里に初めて生理が来た翌日で、朝はそれほどしんどくなかったみたいなんだけど、下校時刻に、学校の校門出たあたりから、お腹が痛いって言い出して。

顔をゆがめて、よちよち歩く樹里に、急がなくていいよって声をかけながら、私ものろのろ歩いてました。

手をつなぐと手汗が気持ち悪いからって、ちょっとだけ離れて並んで歩いていた。


家の近くの公園まで来た時に、ちょっと休もうって声をかけました。

もう少しで家だけど、少し息をつかないと、樹里が限界だって思って。

公園の藤棚の下のベンチに二人で並んで座った。

樹里は浅い息をついていた。

ハンカチを出して、顔の汗をぬぐってあげた。陶器みたいに白い、柔らかな肌。


気が付いたら、目の前にあいつがいた。

その時は、私にも、そいつの形がはっきり見えた。

樹里は半分まどろんでいるようで、まるで気づいていない。

あいつは樹里の前に跪いて、頭を下げていた。

頭の上に、ゆらめく七色の光の輪が見えた。

そして体全体を覆いつくすような、巨大な白い羽根。

全身が、日の光ではなく、あいつ自身の内側から光り輝いている。

頭を上げて、樹里を見つめた。透き通った、怖いような瞳が見えた。

これは人ではないって思った。人の形に近いけど、人ではない。

冷たい微笑みを浮かべて、右手を樹里に向かって伸ばしてきた。

右手の指が触手のように、うとうとしている樹里の身体に向かって伸びてきた。

私は固まっていた。悲鳴も出なかった。

触手は無数に枝分かれして、樹里の身体を包み込もうとする。


その右手が肩から吹き飛んだ。

あいつの身体が跳躍するのを、黒い炎の塊が追う。

天空で、白い光と黒い炎がクロスして、白い光が黒い炎に覆われるのが見えた。

絡み合ったまま落ちてくる。のたうち回る白い光は、もう天使の姿を失って、何か不定形のドロドロした塊になって、黒い炎に焼き尽くされていく。


全部一瞬だった。私は動けなかった。

「おねえちゃん?」と、樹里のか細い声がした。

樹里を振り返って、視線を戻すと、そこには黒い炎も、白い光も見えなくなっていた。


佳乃ちゃんが来たのはその日の夜でした。

眠れるわけもなく、布団の中でよみがえってくる恐怖に震えていた私の前に、佳乃ちゃんは立っていた。

そこで私は契約をしたんです。佳乃ちゃんと。悪魔と。


佳乃ちゃんは私の心を食べて、力を得る。

あいつらから、樹里を守るための力を。

あいつらの目的は、樹里に神の種を植え付けること。

樹里の身体を、人ではないものに変質させてしまうこと。

そんなことは絶対にさせない。

佳乃ちゃんは私に約束してくれた。

たとえ私の心が食い尽くされて、私が空っぽになったとしても、佳乃ちゃんは樹里を守ってくれる。

私の宝物を。


それは確かに、よく漫画とかで出てくる、悪魔に魂を売り渡す契約に近いかもしれない。

私にもよく分からない。何が悪で、何が善か。

佳乃ちゃんに色々聞けば聞くほど。


学校の美術の時間に、ルネサンス絵画の授業があって、ある絵を見た時に、私は叫びだしそうになりました。

それはまさに、あの時、樹里のまえに跪いたあいつの姿と、樹里の姿を描いているように見えたんです。

レオナルド・ダ・ヴィンチの、「受胎告知」。


天使は、神の種を植え付ける人間として、樹里を選んだ。

それは、樹里が第二のマリアになる、ということかもしれない。

樹里が産むのは、この世を救う救世主なのかもしれない。

だったら、私が佳乃ちゃんに願ったことはなんだろう。

世界を救う力に逆らおうとしているのなら、天使が樹里を連れていこうとするのが神様の意思だとしたら、

それを拒もうとする私の思いは、悪なのかもしれない。

樹里に神様の種を植え付けようとする天使こそが、善なのかもしれない。


でも昨日、あいつが再び現れて、私ははっきり思いました。

佳乃ちゃんに魂を売ったこと、私は少しも後悔していない。

樹里を私から引き離そうとするもの、樹里を樹里ではないものに変化させようとするもの。

それは私にとって間違いなく悪だ。

戦う相手だ。

たとえ悪魔の力を借りようとも、私はそいつらと命をかけて戦うのだと。

私の妹を守るために。




悪魔との会話



精神的にかなりくたくたになって帰りついた自分の部屋に、佳乃がいた。

「お邪魔してます」ベッドに横になって漫画読んでる。

「…どうやって入ったの」母さんは何も言ってなかったぞ。

「私を誰だと思ってる」漫画を放り投げて起き上がる。人の漫画をぞんざいに扱うなよ。

「…悪魔。」

「まぁそうだね」にやっと笑う。「本当の姿見てみたい?」

「…もうちょっと体力と気力のある時にお願いします。」

「優里から話聞いた?」放り投げた漫画が、すっと宙に浮いて、また佳乃の手の中に戻った。もう何を見ても驚かんぞ。

「…聞いた」勉強机に突っ伏して言う。「疲れた。」

「有沢はぐーたらだからなぁ。」

「…ぐーたらなんです」分かってるじゃん。「だから、天使撃退のお手伝いなんかできません。」


駅での戦闘を目撃した翌日、予想通り、佳乃は学校を休んでいた。正直ほっとした。自分が見たものが何だったのか、知りたい気持ちよりも、恐怖の方が勝っていた。明らかにあれは、人を超えたもの同士の戦いだった。私の理解できる範疇を超えている。

そう思っていたら、優里ちゃんに呼び出された。毛利がじとっと睨んでくるのをへらへら笑いでごまかしながら、面倒はごめんだぞって、心から祈ってたのだけど。


手伝ってくれませんか?

校庭の隅っこのベンチで、天使の最初の襲撃について話してくれた優里ちゃんは、私を見上げてそう言った。真剣な視線。佳乃に魂を売ってまで、妹を守ると自分に誓った優里ちゃん。そんなに悲壮で感動的な物語の後で、そんなに真剣な視線で見上げている相手は、本当にただのぐーたらで非力でちょっとこの世のものじゃないものが見えるだけの普通の女子高生だぞ。


天使の行動パターンは読めないんです。色んな象徴や物語に沿ったゲームのルールを自分で作り上げて、そのルールに沿って行動するらしいんだけど、その理由もよく分からない。その時代に人々が信じている救世主の物語や信仰、伝説や、その時触れた人間の妄想まで、その場で作り上げたルールについて神と合意する。その合意に沿って行動する。そのルールを外れると、神の種を降臨させることはできない。樹里を襲ってくる天使がどんなルールを設定するのか、佳乃ちゃんにも全然読めない。


「色々面倒くさいことを言われましたけど、とにかく私にできることなんかないから」悪魔と天使の戦闘に巻き込まれて五体満足でいられるわけがない。「あなたのことも、天使のことも、樹里ちゃんのことも、誰にも言いません。もう関わりません。これから何を見ても見ないふりします。だから、ほっといてもらえますかね。」

「…まぁ、私はいいんだけどさ」佳乃の右手の爪がすうっと伸びる。右手自体が膨れ上がって、超人ハルクみたいなゴリゴリの筋肉の腕が真っ黒な滑らかな毛で覆われる。お願いだから脅迫するのはやめてくれ。

「大丈夫。悪魔は人の身体を傷つけることはしない。魂をくれた主人を傷つけない限りは」右手がまた女子高生の華奢な手に戻る。「悪魔や魔族は人の心を食う。天使は人そのものを乗っ取ったり、身体に種を植え付けたりする。天使の方がよっぽど危険だろ?」

「…どっちもどっちだと思いますがね。」

「…あんたはその天使に乗っ取られかけたんだよ。」

はぁ?

「…天使がどんなルールに沿って樹里を襲ってくるのかは分からないけど、一つだけ確実なことがある」ベッドから立ち上がって、こっちに歩み寄る。悪魔だと思えば怖いけど、つい昨日までクラスメイトだったんだよなぁ。しかもこの目。蠱惑的な微笑みを浮かべて人を魅了する。優里ちゃんもこの目に騙されてるだけなんじゃないのか。

「あいつらはまず、自分の宿り主を決める。この世界で動きやすい、戦う力を得るために、人間の身体を乗っ取るんだ。天使の身体では戦えない。人の身体を得て戦闘力を上げる。私のような悪魔と戦うために。

「有沢は見える力を持っている。それだけ普通の人間より天界に近い。天界に近い分、心を支配するのが難しい。そういう人間は、逆に取り込んでしまった方がいい」佳乃が私の目をのぞき込む。「あの時私が攻撃しなければ、あんたはあいつに憑依されて、身体を乗っ取られていたんだよ。」

佳乃の視線から目をそらすことができない。これが魔族の力か。「あんたには色んなものが見えているはずだ。天界のものが憑依しやすい人間。学校の生徒で、あんたのように、天界に近づいてしまっている子はいないか?」

「佳乃が自分で探せばいいじゃん」私はかろうじて抵抗した。「あんたにだって見えるだろう?」

「悪魔だって万能じゃない。この姿で接触できる人間の様子しか見えない。そもそも私は人間としてはこの世に存在していないから」佳乃は言った。「そんなに多くの人間と接触すること自体禁じられているんだ。」

「…寂しい悪魔だね」と言ったら、佳乃の目の奥が動いた。あれ、こいつ悪魔の癖に、やけに人間臭い、ちょっと寂しそうな顔をする。これも悪魔が人の心に付け入る手管なのかもしれないけど。

「樹里や優里の周囲には、天界に近そうな子はいなかった」佳乃は言う。「合唱部にもいない。少し対象を広げようと、今のクラスに潜り込んだら、あんたがいた。あんたの近くにいれば、天使が狙ってくると思っていた。」

「…私はエサかよ。」

「いいエサだった」佳乃が言う。「天使がしっかり食いついてくれた。」

この悪魔め。

「一度目は引き分けだった。あいつも有沢に憑依しそこねたし、私もあいつを殺し損ねた」佳乃は目をそらして、ベッドにまた腰かけた。「あいつは次の憑依対象を探している。あんたのような異能を持っている者か、あるいは魔族に呪われている者。」

「魔族に呪われている者?」

「魔族も天界の生き物だ。天使と敵対する存在。人の心を食う生き物。ただ人の心を食うだけの低級な奴もいれば、知性を持って天使と戦う私みたいな高級な悪魔もいる。低級な魔族であっても、取りつかれている子は天界につながっているから、天使の標的になる。」

取りつかれている子。

私は勉強机から立ち上がった。部屋を飛び出す。佳乃が慌てて私に追いついたと思ったら、ふっと見えなくなった。どうせ何かに変身して追いかけてくるだろう。

魔族に取りつかれている子。

光に溶けそうな優しい笑顔の脇で、ぐねぐねもぞもぞの魔族を飼っている友人。

紗耶香。




憑依



紗耶香の家の屋根に、赤いオーラが見える。紗耶香に取りついている魔族のせいだけじゃないんだよなぁ。この家全体を何か不吉なものが覆っていて、この負のオーラが年々深くなっている気がする。

「これは確かに根が深いな」佳乃が足元で言う。「うまそう。」

「…人の不幸をデザートみたいに言うなよ。」

「不幸な人間のオーラはうまいんだぞ」佳乃が言う。「それを食って肥えた魔族というのもなかなかいい味がする。栄養も豊富だし。」

あのぐねぐねもぞもぞが栄養豊富なのか?

「…どうでもいいけどその姿でしゃべるのはやめたら?」足元で耳を前足で整えている黒猫に言ったら、黒猫がこっちを見上げて、佳乃の声でしゃべった。「まだ人間の姿にならない方がいい。天使に見つからないように。」

「…じゃあ私だけで乗り込むのか」紗耶香のお母さんにどう言い訳しよう。「新聞部の原稿取りに来たとか言おうかな。」

「…外で待機してるよ」黒猫の佳乃が言う。「何かあったら心で知らせて。」

「テレパシーもできて、人間の言葉もしゃべる黒猫ねぇ」ため息をつく。「私は平凡な女子高生の生活に戻れるんだろうか。」

「…あきらめなさい」黒猫が吉田家の庭に潜り込んでいくのを見送った。しょうがない。あきらめよう。


玄関先で、紗耶香のママにしどろもどろの言い訳をしていたら、心の中で警戒音が鳴った。すかさず、佳乃の声が頭の中に響く。

「気をつけろ」緊張した声。「家の周りのオーラが消えた。」

私より魔族の方が敏感なんだな。紗耶香のママの肩に淀んでいる黒い影がびくっと身を縮めるのが分かる。この家に取りついているものからすれば天使は天敵なのか。

「ちょっと失礼します」言い捨てて、靴を脱いで紗耶香の部屋に向かって階段を駆け上がる。部屋のドアノブに触れた瞬間、指先に激痛が走った。焼けている?違う。

紗耶香の部屋のドアが真っ白な霜に覆われている。凍っているんだ。周囲の空気まで凍てつき始めて、吐く息が白くなる。私の後ろから階段を上がってきた紗耶香のママが立ちすくんでいる。ええい、かまっていられるか。トレーナーの袖を引っ張って手を防御して、凍り付いたドアノブを力任せに回して、ドアをこじあけた。

冷え切った空気に満たされた紗耶香の部屋。もともとシンプルで、私の部屋みたいにごちゃごちゃしていないし、毛利の部屋みたいに乙女っぽく飾られてもいない寒々しい部屋が、氷点下の凍てついた空気に包まれている。震えが止まらない。窓が開いていて、紗耶香は凍り付いたベッドの上に座って窓の外を見ている。その顔は窓の方に向いていて、表情が読めない。手にしている本をすうっと持ち上げて、窓に向かって掲げた。月を見ているのか?

「…」紗耶香が何かつぶやいた。本当に紗耶香か。紗耶香の声だけど、この声の冷たさはなんだ。

紗耶香か誰かよく分からない者が、ゆっくり首を巡らせて、こっちを見た。

私の後ろで、紗耶香のママが息をのむのが分かった。私も動けなかった。声も出なかった。

なんて綺麗。

夜の街と、それを照らす月明かりを背中に浴びて、内側からぼんやりと全身が真っ白な光を帯びている。陶器のように滑らかな頬の上で、氷のように輝く瞳にかすかな微笑みを浮かべて、紗耶香であった者が、ベッドの上にゆっくりと立ち上がる。身に着けている服がみるみる形を変えて、どこか直線的で平面的な、氷の板を重ねたような真っ白な衣に変じていく。

雪の結晶?

いや、これはまるで、氷でできた着物だ。着物、というには布が幾重にも重なっていて・・・

十二単か?

「逃がすか!」

真っ白な紗耶香の姿がふっと消えた、その空間に、燃えたぎる火球が窓の外から飛んで来て、とっさに伏せた。悲鳴が上がり、振り返ると、炎が紗耶香のママを包んでいた。階段の上に倒れこんでそのまま落ちていきそうになる腕をつかんで引き上げて、抱き留めた。火がママの周りを包んでいる黒い影を焼いている。燃え盛る炎は私の目に見えるだけで熱気は感じないが、気を失った人の身体は重い。お腹に力を入れて支えて、廊下に横たえる。

振り返った紗耶香の部屋は空っぽだ。大きく開いた窓に駆け寄ると、天から真っ白に輝く光の矢が降りそそいだ。無数の炎の塊が地上から飛び、光の矢を蒸発させる。さらに光の矢が降ってくる中、赤黒く燃えるオーラに包まれた佳乃が光の矢をかわし、電信柱を蹴って、一瞬、私の目の前に接近する。戦意に燃える佳乃の瞳と目があった、と思ったら、窓の下の壁を蹴って跳躍した。佳乃のいた壁に光の矢が突き刺さる。矢は壁に刺さったまま薄い煙を上げて消えていく。壁の一部が真っ白に凍り付いているのが見える。光の矢、というより、氷の矢だ。

見上げた空に浮かぶ月の光を背に、その光よりも真っ白に輝く氷の十二単に身を包んで、紗耶香が宙に浮いていた。まるで優雅な舞のように、両腕を広げる。息がつまるほど神々しいその姿に対峙して、電信柱の上に佳乃が降り立つ。その全身を巨大な炎が包む。炎は佳乃が広げた両腕の間に凝縮し、真っ赤な塊になった、と見えた瞬間、紗耶香に向かって砲弾のように放たれた。巨大な炎の塊が紗耶香を直撃する直前、紗耶香が両袖を盾のように自分の前にクロスした。氷の袖の盾に激突した炎の塊が飛散する。氷の袖には傷一つついていない。紗耶香がゆっくり袖を広げた。その氷の瞳に、残忍な殺意が見えた。

「紗耶香、やめて!」思わず叫んだ。その声が届く瞬間、氷の袖が巨大な刃のように佳乃に向かって振り下ろされるのが見えた。全て一瞬のことなのに、どうしてこんなにスローモーションのようにはっきり見えてしまうんだ。これも私の見える力のせいなのか。こんな残酷な瞬間まで、くっきり見えてしまうなんて。

紗耶香の袖から放たれた氷の巨大な刃が、ギロチンのように佳乃の上に落ちてくる。佳乃は避けきれなかった。氷のギロチンの刃が、佳乃の右肩に食い込んで、そのまま右腕を切り飛ばした。

佳乃が夜の街の底に落ちていく。見上げると、輝く月を背に、紗耶香がこっちを見ていた。少し眉をひそめて、そのまま月の影の中に溶けるように消えた。




巻き込む



私は正しいことをしているんだろうか。

自分の中でさっきから、同じ疑問がぐるぐると回っている。

昨夜からの自分の行動。天使に憑依された紗耶香が消えるまでの自分の行動は一貫していたと思う。

自分に憑依しようとした天使から自分自身を守る。

天使が次に標的にした紗耶香を守る。守れなかったけど。


でも、そのあと、私は正しい判断をしてきたと言えるのだろうか。

傷ついて、前足を失って血まみれになった黒猫を抱えて、野澤家に走ったところまでは、ひょっとしたら正しかったかもしれない。

でも、そのあと、優里ちゃんに取りついた佳乃の本性を見たあたりから、心がざわついて仕方ない。

私は本当に、正しいことをしているんだろうか。

そして何より、今、私の前をすたすた歩いている毛利を巻き込んでしまったことが、正しいとは到底思えない。


「…やっぱり」毛利が立ち止まる。手にしたスマホと、手元の紙を見比べている。「こんな住所は存在しない。」

そりゃそうだろうな。

「藤木佳乃という人間は存在しない?」毛利が独り言のように言う。「学校名簿にもスマホのGoogle Mapにも出ている佳乃の自宅住所が、実際には存在しない。でも、まだ別の可能性もある。」

「別の可能性?」

「家庭の事情で自宅住所を偽って入学している」私の声が聞こえないようにぶつぶつ呟きながら、目の前の公園に入っていく。「DV被害にあっている家庭だったらそういうこともありうる。」

「…Google Mapまで改変することはできないよね。」

「そこだな」毛利は公園のベンチに腰掛けて、私を見上げた。「国家レベルの組織が絡んでいるか、あるいは超常現象か。」

「…毛利、やっぱり忘れてくれないかな」私は言う。「あんたには何も関係はない。あんたを巻き込むべきじゃなかった。」

「佳乃はどうやってGoogle Mapを改ざんしたの?」好奇心に目がキラキラ光っている。人の話を聞けや。

「人の心や知性が作り上げた情報を書き換えるのは簡単なんだって。デジタル情報とかは簡単に操れるけど、家をあっという間に建てたり、お金の雨を降らせたり、なんてことは難しいって言ってた。できなくはないけど、人の心を操る方が全然楽だって。」

「人の認知能力を操るのか」鼻息が荒くなっている。「天界と呼ばれている異世界がアストラル界そのものだとしたら、そこでは意識が実体を持つわけで、その意識を操ること自体がその世界で生きる存在の活動そのものなんだ。彼らにとって人の意識は手に取ることも引きちぎることも食べることもできる形あるものなんだな。こちらの世界で彼らが人の意識をコントロールできる範囲は物理的な制約を持たないから、確かに地球規模のデジタル情報の操作も可能になるのかも…」

「…盛り上がっているところ悪いんですが」人の話を聞けと言うのに。「今日はもうおうちにお帰りいただけませんですかね。」

「佳乃と話したい」ベンチから立ち上がる。ほんとに聞いてないな。「今どこにいるの?」

「人と話せる状態じゃない。」

「紗耶香はこれから何をする気なの?」

「…儀式を始める準備に入るらしい」ダメだ、ここまで盛り上がった毛利を止められる人はいない。「樹里ちゃんを奪われた。あとは樹里ちゃんに神の種を降ろす儀式が必要になる。」

「有沢のせいじゃない」私の正面に向き直る。「紗耶香の動きも早かったし、佳乃もやられたんでしょ。樹里ちゃんをさらわれたのは、有沢のせいじゃない。」

「私一人じゃどうにもならない」こぶしを握り締めた。「だからって、あんたを巻き込むべきじゃなかった。」

「もう巻き込まれてる。もう有沢一人じゃないよ」毛利は言って、すたすた歩きだした。

「どこに行くの?」

「図書館!」笑顔で振り返る。なんでそんなに嬉しそうなんだ。


紗耶香と佳乃の戦闘の後、虫の息の黒猫を抱いて、野澤家に向かって走っていたら、スマホが鳴った。電話に出る余裕なんかあるわけない、無視して走っていたら、正面から、スマホを持った優里ちゃんが走ってきた。顔が涙でぐしゃぐしゃだった。

「樹里が」叫ぶように言う。遅かったか。空を見上げて、樹里ちゃんを抱えて輝く十二単の紗耶香が飛翔していないか探そうとしたら、胸の中の黒猫が跳んだ。

優里ちゃんが、手にしたスマホを取り落として、その場にへたり込む。その首筋に、真っ黒い不定形の塊がべったり貼り付いていた。優里ちゃんの血の気がみるみる引いていく。

「佳乃、やめろ!」引きはがそうとしたら、優里ちゃんが押しとどめた。「いいの。」

「佳乃ちゃんを元に戻さなきゃ、あいつと戦えない。」

これが佳乃の本性か。ふらつく優里ちゃんを支えて、野澤家までなんとか連れ帰りながら、嫌悪感で鳥肌が立った。どろどろねばねばの巨大なアメーバーのような塊が、優里ちゃんの肩に取りついている。首筋に貼り付いた触手が脈動している。紗耶香に取りついていた低級な魔族と何が違うっていうんだ。

生気を吸い取られて、優里ちゃんの足取りがどんどん不確かになってくる。優里ちゃんの部屋のベッドにたどり着いた時は、佳乃は黒曜石のような光沢をもつ半透明の人型にまで成長していた。まだ完全な人間体にまではなりきれていない。でも。

「佳乃、もうやめろ!」ぼんやりした佳乃の影に向かって大声で叫ぶ。「優里ちゃんがもたない!」

灰色の佳乃の唇が、優里ちゃんの首筋から離れた。「だめ」優里ちゃんがか細い声で言う。「佳乃ちゃん、やめないで、もっと、もっと、私の、血を」

優里ちゃんの身体から力が抜けた。気を失ったのだ。


「悪魔と天使、という呼び名とか、外見で判断するのはよくないと思うよ」毛利は言った。

「天使の姿をしていた紗耶香が平安の十二単の姫君に変身したように、外見はその時々の彼らのルールによって選択されるんだろう。キリストの降臨と彼らに何か関係があったかもしれないけど、今の彼らは別のルールに沿って自分の外見を選んでいる。そこに善も悪もない。」

「…毛利は強いな」ちょっとうらやましい。「こんな状況にすぐ適応できるんだ。」

「…私は有沢みたいに実際に見てないから言えるのかもしれない」毛利は言った。「魔族って、そんなにグロいの?」

「…毛利って、ミミズとか大丈夫だっけ?」

「…言葉だけでダメ。」


有沢、私に隠し事しないで。

放課後、こそこそ帰ろうとした腕をつかまれて、新聞部の部室に引きずり込まれた。私を見つめる毛利の視線は、怒りよりも好奇心よりも、何より不安そうで、胸がキュンと痛くなった。毛利は私を心底心配してくれているんだ。心配されるだけの状況に追い込まれているのは事実なのだけど。

紗耶香と樹里ちゃんが突然行方不明になったことは、学校ではそれほど話題にはなっていなかったけど、毛利の情報網にはしっかりキャッチされていた。一応病欠ということになっている佳乃も含めて、私の周囲で立て続けに生徒が姿を消したとしたら、そしてそれが、私が突然天使だなんだと超常的なことを言った直後だとすれば、心配するのは当然だろう。

でも、毛利に全部打ち明けて援助を頼んだのは絶対にやっちゃいけないことだった。私自身の弱さのせいだ。私自身の迷いのせいだ。

魔族は人の不幸を食らう。それは佳乃自身も言っていたことだ。そして天使はそんな人の不幸を払う。紗耶香の家の不幸のオーラを消したのは天使の力だ。天使は確かに紗耶香の身体を乗っ取ったけど、優里ちゃんを半死半生になるまでむさぼり食おうとしたのは佳乃だ。一体どちらが善で、どちらが悪なのか。

でも私にはどうしても、佳乃のことを心底嫌いになれない。時々見せる寂しげな目。優里ちゃんの首に食らいついていた唇を離した瞬間、佳乃の透明な灰色の瞳に一瞬浮かんだのは、激しい狼狽だった。自分の力の源泉を吸いつくしてしまいそうになった後悔だったのかもしれないけど、あれはもっと人間的な焦燥感に見えた。誤って恋人を刺し殺してしまった戦士のような。

そして佳乃は今、小さな黒猫の姿になって、優里ちゃんの部屋の隅に身を隠している。優里ちゃんの身体の回復を待っている。丸くなっているその小さな背中に、自分の大切なものを滅ぼしそうになってしまった自責の念を見るのは、佳乃の魔力で自分が洗脳されてしまっている結果なんだろうか。


「天使と悪魔、と呼ぶとどうしても善悪の概念が加わってしまうから、ここは、紗耶香と佳乃、と呼ぼう。それも実体とは違うけど、とりあえず、二人が喧嘩している、ということで。」

「そんな学園日常系のお話じゃないんだがなぁ。」

「いいから」毛利は図書館の机の上に、分厚い本を一冊置いた。日本古典文学全集。

「なんで古典?」


「紗耶香は十二単の平安貴族の姿になったんでしょ?」毛利がページを繰り始める。「紗耶香に取りついたモノがなぜ平安貴族の姿になったのか、まず突き止めないと。その理由が、彼らの儀式のルールと関係しているはずだから」

「…竹取物語。」

「何?」毛利が本から顔を上げた。

「紗耶香が取り付かれた時読んでいた本」あの瞬間が頭の中によみがえる。冴え冴えとした月の光に向かって、紗耶香が掲げていた本。そしてあの時、紗耶香がつぶやいた言葉。

「今はとて」

「…何?」

「憑依された紗耶香が言ったんだ。佳乃に攻撃される前に、竹取物語を読みながら。」

なんか好きなんだよね。寂しそうに、でも優しく微笑んでいた紗耶香。全部きれいさっぱり忘れて天に昇って行っちゃう。

「今はとて天の羽衣着る折ぞ君をあはれと思ひ出でける」毛利が本に顔を突っ込むようにして読み上げる。「かぐや姫が月に帰る直前に詠む和歌だ。」

「竹取物語に儀式の鍵がある」私はつぶやいた。「樹里ちゃんに神の種を植え付ける儀式の鍵が。」




寂しい純愛



「大体なんだって儀式にルールが必要なのさ」毛利が言う。

「知らん」佳乃が優里ちゃんの手首から唇を離して言う。「天使が何を考えてるか、我々魔族にだって謎だ。」

毛利と私で、優里ちゃんの部屋に集まった。樹里ちゃんが行方不明になって、優里ちゃんも体調不良で、野澤家はピリピリした空気に包まれていたけど、優里ちゃんが私たちに会いたがっているとむしろ歓迎してくれた。

「毛利先輩まで助けてくれるなんて」優里ちゃんが夢見てるみたいなぼんやりした口調で言う。「本当にありがとうございます。」

「私もまだ完全回復してない」佳乃が優里ちゃんの手首に吸い付いたままモゴモゴ言う。「今は毛利みたいな知恵が必要だ。紗耶香が次に何をする気か予想しないと。」

「いいけど、もう少し優里ちゃんから離れるわけにはいかないの?」私が言うと、優里ちゃんがとろけそうな視線をこっちに向けた。「私はまだ大丈夫です。」

確かに大丈夫そうなんだけどさ。さっきから、佳乃が優里ちゃんの手首に口をつけて生気を吸い取っている姿が、なんか妙に色っぽくて正視に堪えないんだよなぁ。優里ちゃんを自分の膝の上に座らせて、腰を抱きながら手首に吸い付いている。そんな佳乃に身を任せて、優里ちゃんは目を半分閉じて恍惚とした表情を浮かべている。これじゃほとんどR15指定シーン見てるみたいじゃないかよ。

「いい加減にしないと前みたいに優里ちゃん半殺しにしちゃうよ。」

「あの時は緊急事態だったから」佳乃が目を逸らして言う。「申し訳ないことをした。」

「いいんです。佳乃ちゃんには早く元気になってもらわないと。それに」優里ちゃんがトロンとした目で言う。「佳乃ちゃんに血を吸われるの、すごく気持ちいいから。」

なんかこの2人かなりヤバい関係になってないかい?

「神の種をこちらの世界に降臨させる機会は約千年に一度しかないと聞いた」ぐったりした優里ちゃんを抱っこしながら佳乃が言う。「大事な機会だから彼らなりにしっかり準備もするし、面倒臭い儀式も必要なんだろう。3年も前から樹里に目をつけてたんだから。」

「キリストの降誕が救世主を待ち望む当時の人々の預言をルールとした神の儀式に沿っていたとしたら」毛利がぶつぶつ言い始めた。「ひょっとして竹取物語も天界の物語だったのか。神の種を植え付けられれば聖処女となって天界の子を産み落とす。白鳥の卵を産んだレダ。救世主キリストを降臨させたマリア。種が植え付けられなかった乙女はそのまま天界が召し上げる。羽衣伝説や竹取物語。古代から続く天界と人間界の交流の物語。」

「どうでもいいけど」毛利をこっちの世界に引き戻さねば。「紗耶香が次に何するか、竹取物語に書いてあるの?」

「そんなに明確には書かれてないだろうね」毛利が竹取物語の教科書のページをペラペラめくっている。そこだけ見れば普段のお勉強時間と変わらないんだがなぁ。「紗耶香が天界に近づいて魔物に取り憑かれて、それを目印に天使に憑依される。その紗耶香が魅入られた物語が、天界との交流を描いた竹取物語。偶然なんだろうか。何か鍵が。かぐや姫を巡る儀式。何かの呪法。」最後の方はぶつぶつと独り言になる。またあっちに行ってしまった。

「優里?」ノックの音がして、優里ちゃんのお母さんの声がした。優里ちゃんが気だるそうに立ち上がるのを、佳乃が見送る。優里ちゃんが振り返って微笑んで、部屋を出ていく。なんだかもうすっかり恋人同士の視線のやり取りだな。

「もし神の種の受胎を阻むことができて、樹里ちゃんを取り戻すことができたら」優里ちゃんが出て行ったあとのドアを見つめている佳乃に向かって問いかける。「あんたに魂を売った優里ちゃんはどうなるの?」

「どうにもならないさ」佳乃は目を伏せる。「私は天界に帰る。仕事は終わりだ。」

「優里ちゃんの魂を地獄に持っていくんじゃないの?悪魔に魂を売るってそういうことなんでしょ?」

「…そんなことしない」佳乃は自分のスカートいじりながら言う。「天界に運ばれた魂は未来永劫魔物どもに喰らわれ続けるんだぞ。そんなこと優里にさせられるか。」

「いや、だから悪魔に魂を売るというのはそういうことなんでしょうが。」

「優里は幸せになるんだ。樹里と一緒に。人としての人生を全うする。我々魔族が近づけないくらいに幸せになるんだ。」

こいつ魔物のくせに優里ちゃんに本気になっちゃったのか。

「佳乃がいなくなったら、優里ちゃん寂しがるだろうね。」

「そんなことはない。私はこの世から消えるから」佳乃はそう言いながら、指で自分の唇に触れた。「私の記憶も何もかも、この世から消える。私という存在は無かったことになるんだ。」

「…寂しい純愛だなぁ」毛利が呟く。こいついつのまにこっちの世界に戻ってきたんだ。

扉が開いて、優里ちゃんが入ってきた。空気が張り詰める感じがした。

「…生徒がまた行方不明になりました」硬い震える声。「警察が事情聴取に来ました。高二の生徒が一人、中二の生徒が一人。合計二人。」

「始めやがったな」毛利が言った。




期限



「石橋美久さん、高等部の二年生。茶道部の副部長。部活を終えて帰宅途中、自宅の最寄駅から自宅までの間で行方がわからなくなった。」

「最寄駅までの足取りは追えるんだね?」毛利が分厚い日本文学体系に顔を突っ込みそうにしながら言う。竹取物語を原文から脚注から現代語訳まで舐めるように読みながら、私の取材報告を聞いている。

「同じ電車で部活の仲間と一緒に帰ってる。駅で降りたのは石橋さんだけ。」

「どんな人か知ってる?」毛利が今度はスマホを操作し始めた。何か調べている感じだ。

「文化祭の時にお点前を見た記憶があるな。メガネの真面目そうな人だった。」

「もう一人は?」

「玉木美琴さん。中等部の二年生。優里ちゃんとはクラスが違う。こっちは陸上部だな。帰宅後、部屋で一人でいて、夕飯呼びに行ったら窓が開いていて部屋は空っぽ。」

「石橋さんのご近所なの?」

「全然逆方向。外見も石橋さんとは違って血色のいいスポーツ少女タイプ。学年も違う、部活も違う。」

「共通項なしか」毛利がスマホから顔を上げた。目もこっちに向いているけど焦点は全然合ってない。また思考の森の中を彷徨ってるな。

「人を生贄にするつもりなんだろうか。竹取物語の中で人身御供の話なんかない。儀式である以上何かのルールと役割があって2人を選んだと思うんだけど。」

「竹取の翁と媼かな」適当に言ってみる。

「それであえて女子高生を選ぶかな」毛利は本のページをトントン叩く。「そう、共通項は2人とも秋桜学園の生徒だってことだ。今回のゲーム会場は秋桜学園に設定されてるって考えていい」毛利のトントンが止まった。「とりあえず現場検証からね。」

電車が駅に停まる。石橋さんの最寄駅だ。


駅から石橋さんの家に向かう道の途中で、2人で立ち止まった。「ここに石橋さんのスマホが落ちてた。」

「優里ちゃん情報だね」毛利が周りを見回す。「被害者と繋がってると捜査情報がちらほら漏れてくるからありがたいな。」

「何も見えない」佳乃との戦闘みたいな派手なやり合いがあったのなら、多少なり感じるものがあったかもしれないけど。「多分、仕事は一瞬で終わったんだろうな。」

「そりゃそうだよね」と毛利が言った。「佳乃がいるならともかく、普通の人間と今の紗耶香じゃ抵抗しようがない。スマホを置いていったのは、位置情報をトレースされるのを嫌ったんだろう。」

「平安貴族のカッコしてるのにスマホの使い方も知ってるってこと?」

「紗耶香の知識を乗っ取ってる」毛利が言う。「ITリテラシーは現代日本の女子高生なみ。」

石橋さんの家に着いてしまったけど、家の周りにも特に不審なオーラは見えない。家族が行方不明になったことで、ぼんやりと不安な空気が感じられるけど、魔族や天界の影響は感じられない。

「つまり天界に近い生徒が選ばれているわけじゃない」毛利が石橋家から視線を外して、空を見上げる。東の夕焼け空に月が見える。

「儀式が始まる前に止められるだろうか」私が言うと、毛利は月から目を逸らさず答えた。「時間がないな。」

「…時間?」

「儀式の日が近づいているから。」

「いつ?」びっくりした。「佳乃が言ってたの?」

毛利は首を横に振る。「竹取物語だよ。かぐや姫が月に帰った日。月からの使いが降臨した日。陰暦8月15日の満月の日。」

「陰暦?」現代人の私に分かるように言ってくれ。

「今年でいえば9月8日」毛利は言った。「コーンムーンって言われる満月の日。そしてこの日には皆既月食まである」月から私に向けた視線がギラついている。

「現代のかぐや姫に神の種を降臨させる日として、相応しい日だと思わない?」

こいつワクワクしてるのか?




ターゲット



「どう見ても実体があるみたいに見えるんだがなぁ」毛利が校庭のベンチに座った佳乃の周りをうろうろしながら言う。「この身体もすっかり幻なの?」

「幻じゃない」佳乃は「生物としての組織は持ってないけど、形は認識することで形成することができる。壊れたものを直すこともできる。元の姿のイメージが人間の意識に共有されているから。」

「観測することで形を特定するのか。シュレディンガーの猫みたいだな」毛利の目が好奇心で爛々と光っている。「生物としての組織がないって言うけど一緒にお弁当食べたりしてるよね。」

「それくらいはできるよ。人間のように消化したりしないけど」佳乃は右手で繋いだ優里ちゃんの手の甲に唇をつけた。「味を感じたりもできる。人が感じているものを共有することができるから。」

「好きな食べ物はありますか?」毛利が言う。新聞部のインタビューじゃないんだから。

「優里が好きなものが好きだな」優里ちゃんの手を弄びながら佳乃が言う。優里ちゃんがまたとろけそうな目で佳乃を見ている。

「好きなスナック菓子とかある?」何を聞いてるんだ。

「麦チョコが好き。」

「私が大好物だから」優里ちゃんが嬉しそうに言う。ただのバカップルじゃないかこの2人。

「ノロケ話はいいから」ちょっと我慢できなくなった。「紗耶香の儀式のルールは分かったの?」

「…なんとも言えないなぁ」毛利がソフトボール部の打球を目で追いながら言った。「とりあえず生徒がターゲットなのは確かだから、部活の部員が一番沢山いる校庭を見張ってればいいかなって。」

「…呑気だなぁ」時間がないって言ってたのは毛利だろうがよ。「帰宅部の子とか、屋内競技の部活の子がターゲットだったらどうするのさ。」

「部活のない子達は集団下校してるし、屋内で確保して外に連れ出すのも大変だろうし」毛利が言う。「学校も警戒し始めてるから機会は減ってきてる。佳乃も回復したから紗耶香も慎重になってるはずだ。」

「…回復はしたけど」佳乃は校庭の奥のテニスコートを見ている。「戦い方を考えないと。」

「…紗耶香、強かったもんね」私が言うと、佳乃は頷きながら、私の顔をじっと見た。「…あの時、紗耶香に何か言った?」

「あの時?」

「私がやられた時。」

紗耶香が十二単の袖から氷のギロチンを振り下ろした瞬間。

「…紗耶香、やめて、って言った」あの時の胸が苦しくなる気持ちを思い出す。あの心優しい紗耶香が、冷たい微笑みを浮かべながら佳乃を真っ二つにぶった切ろうとした瞬間。

「紗耶香に、有沢の声が届いたのかもしれない」佳乃はつぶやくように言った。「あいつが取り込み切れなかった紗耶香の心に。あいつは私にとどめを刺そうとした。有沢の声で狙いが狂った。私は避けきれなかった。本当なら私は半分に切断されて、もう再生は不可能だったはずだ。」

優里ちゃんが佳乃の腕にしがみつく。その肩を抱きながら、佳乃は私を見つめた。「あいつの中には紗耶香が残ってる。その紗耶香に、有沢や毛利の声が届けば。」

「紗耶香が憑依されてからもう3日経ってる」毛利が立ち上がって、ソフトボール部のピッチャーを見つめた。ピッチングフォームを真似したりしている。こいつ球技全般壊滅的に苦手だったはずだがな。「もう紗耶香の意識は残ってないかも。」

「人間界にいる限り、憑依した人を完全に食い尽くすことはできない」佳乃が言った。「ただ、心を押し込めることはできるだろうね。神の種を蒔いて、天使がそのまま天界に行ってしまえば、紗耶香は完全に消滅する。」

「そんなことさせるか」思わず声が出た。そんなことさせるか。

「戦い方を変えないと」佳乃はもう一度言って、優里ちゃんを見つめた。優里ちゃんがこわばった表情で佳乃を見上げて頷く。なんだろうな、この悲壮感。

その時、首筋がふっと寒くなった。

まさか。

こんな日中、こんなに人がたくさんいる校庭で?

「…神の奇跡」空を見上げた毛利がつぶやいた。




再戦



校庭の上に、巨大な光の塊が浮かんでいる。見えていたのは私だけじゃない、校庭にいた運動部の生徒が悲鳴を上げて空を指さす。紗耶香のやつ、慎重になってるはずじゃなかったのかよ。

中空に浮かぶ光輝く紗耶香が腕を広げると、夕日が王朝絵巻の豪華な図柄のようにきらきらと十二単を輝かせ、巨大な十字架のように美しくきらめく。校庭の上に、突然冷え切った空気が下りてくる。数人の生徒が腰を抜かしたように、へなへなとその場にしゃがみこむ。その中で、グラウンドにいたソフトボール部のピッチャーが、空を見上げたまま固まっているのが見えた。なんだ?

「毛利、見るな!」佳乃が叫ぶと、毛利が目を覆ってその場にうずくまった。駆け寄って肩を抱くと、ぶるぶる震えている。震えながら何かぶつぶつ呟いている。「…こんなに強いなんて」毛利が呟く。「見なきゃ、行かなきゃ。こんなに引っ張られるなんて。強すぎる。勝てない。」

「有沢、毛利を絶対離すなよ!」佳乃がベンチから立ち上がって叫ぶなり、優里ちゃんを強く抱きしめた、と思ったら、佳乃の身体が黒い霧のように広がって、優里ちゃんの身体の中に一瞬で吸い込まれた。途端に、優里ちゃんが跳躍した。中空に輝く光の塊に向かって一直線に跳んだその体から、炎の塊が紗耶香の十二単に向かって放たれ、氷の袖の上で弾ける。紗耶香の顔が驚愕にゆがむのが見えた。氷の十二単の袖の一部が蒸発している。校庭の上を覆っていた冷気が一瞬遠ざかる。

戦い方を変えるって、そういうことか。毛利の身体の震えが一瞬止まる。佳乃単体じゃなく、優里ちゃんの身体に佳乃が憑依すれば、紗耶香と同じレベルで戦えるってこと。でも優里ちゃんは大丈夫なの?

優里ちゃんが紗耶香の十二単の裾をつかんだ。上昇しようとする紗耶香めがけて、再度炎の矢が飛ぶ。のけぞって避けた紗耶香の表情が冷たい憤怒に燃えた瞬間、優里ちゃんが悲鳴を上げて十二単の裾を離した。その手の甲を氷の切っ先が貫いているのが見える。

紗耶香と優里ちゃんが戦っている下で、私は毛利の身体を全力で押さえこんでいた。毛利が悲鳴ともうなり声ともつかない声をあげて、私の腕にしがみつく。二の腕に毛利の指が食い込んで痛い。

「毛利、どうした?」

「紗耶香が」毛利が歯を食いしばって耳元で唸った。「呼ぶんだ。私を、呼んでる。五番目のターゲット。三番目と四番目も、守らないと。」

何を言ってる?

理解できないけれど、紗耶香に呼ばれている毛利の力が恐ろしく強くて、私はとにかく必死に毛利を抱きしめた。視界の外で、グラウンドの上に立ち尽くしていたピッチャーの身体がふわりと宙に浮くのが見えた。手にしたボールがこぼれ落ちて、グランドの上で弾むのが見える。力を失ったユニフォーム姿が、輝く紗耶香の十字架に向かって吸い寄せられて、突然空中で消えた。優里ちゃんは?

校庭の上に優里ちゃんが四つん這いになっているのが見える。その口から血が垂れている。腹を押さえているのは、紗耶香の氷の矢にやられたのか。

「佳乃ちゃん、私はいいから」優里ちゃんの苦しげな叫び声が聞こえる。テニスコートの方から、もう一人の生徒が十字架に向かって浮き上がっていくのが見えた。

「三番目と四番目が」毛利が涙を流しながら私にしがみつく。「私はまだ行けない、準備ができていない。呼ばれている、強すぎる。もう無理。我慢できない。」

離してたまるか。両腕に力を込めた。他の生徒が腑抜けのようになっている中で、毛利を止められるのは私だけだ。天界に近い見える力を持った私だけは、紗耶香のコントロールが効いてない。毛利をここで離してたまるか。

首筋に氷点下の息が吹きかけられて、私は文字通り凍り付いた。紗耶香がすぐ背後にいる。私と毛利を十二単が包み込む。紗耶香の冷たい、でも優しい微笑みを浮かべた横顔が、私の頬のすぐ側までゆっくり近づくのが視界の端に見えた。

「もういいのよ」私の耳元で、紗耶香の声がささやく。全身に鳥肌が立った。「もう十分。毛利を私にちょうだい。」

「紗耶香、やめて。お願い」頬に熱いものが流れて、私は自分が泣いていることに気が付く。私はこのまま紗耶香の氷のギロチンに真っ二つに切り裂かれるのかもしれない。それでもいい。毛利を失うくらいなら、ここで紗耶香に殺された方がましだ。

「貴女を殺したくないの」紗耶香がぞっとするような微笑みを浮かべるのが見えた。「貴女は友達だったから。私に毛利をちょうだい。燕の子安貝。五番目の宝物を。」

「どけ紗耶香!」優里ちゃんの叫び声がして、紗耶香の横顔が消えた、と思ったら、私と毛利は宙に浮いていた。優里ちゃんが私の背中をつかみ、私が毛利をつかんで空に浮いている。毛利の全体重が両腕にかかって腕がちぎれそうになった一瞬、大きな水しぶきが周囲に上がり、全身を水が包んで息ができなくなった。体中を覆う泡のごぼごぼという音の中、必死に空気を求めて浮かび上がろうとすると、「潜れ!」と佳乃の声が聞こえて、水の中に引き込まれる。

学校のプールに飛び込んだんだ、と理解した時、揺れる水面ごしに、空中で歯噛みする紗耶香の姿がちらりと見えた気がした。水面が氷で覆われていく。紗耶香自身が放っている超低温の冷気のせいで、水面がシャーベットのように凍り付いていく。氷の壁に守られて、紗耶香も私たちに手が出せないけど、このまま私たちは氷の下で窒息して死ぬことになるんだな。

「大丈夫」佳乃の声が心に届いた。「空気を三人の肺に届けることくらいはできるよ。紗耶香ももう立ち去るだろう。さすがに派手にやり過ぎた。」

遠くでパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。水越しに聞こえる遠い音を聞きながら、私の意識も遠くなっていった。




儀式のルール



眠っている毛利の顔が病室のベッドのシーツと同じくらい血の気がなくて、胸が苦しくなった。シーツの下に手を入れて、点滴がつながってない左手を握ると、毛利の全身がびくっと震える。表情が苦しそうに歪んで、小刻みに首を横に振った。

「まだ紗耶香に呼ばれてるな」横に立った佳乃が呟いた。

「…いつから分かってたの?」私は言った。「毛利がターゲットになってるって。」

「私が毛利から聞いたのは一昨日だ」佳乃が言う。「毛利がいつから分かってたかは知らない。」

多分、あの時からだな。石橋さんの誘拐現場に二人で行った時。儀式の期限を予想しながら、毛利の目に燃えていたのは、ただの興奮じゃなかった。多分、恐怖も含まれてたのに。

どうして私は気づかなかったんだ。見える力があるのに、どうして。


「紗耶香のルールは竹取物語」佳乃が、分厚い日本古典文学全集のページをめくりながら言う。「ルールに従って、紗耶香は、樹里以外に、5人の生徒を集めるゲームを開始した。竹取物語の中で、かぐや姫が、求婚者たちに所望する5つの宝物になぞらえて。」

かぐや姫に恋焦がれた五人の貴公子に、かぐや姫は、自分が望むものを持ってきてくれた人物を夫として受け入れる、と言う。仏の御石の鉢。蓬莱の玉の枝。火鼠の皮衣。龍の頸の玉。燕の子安貝。どれもこの世には存在しない、想像上の宝物ばかりだ。

「…5つの宝物になぞらえるなら、わざわざ人間にすることもないじゃない。それっぽいものにすればいいじゃない。そのへんにある石の鉢とか、木の枝とかさ。」

「そんなに簡単なゲームは神が許してくれないんじゃないか?知らないけど」佳乃が病室の窓辺に行って、空を見上げる。紗耶香の姿は見えない。あれだけ派手にやったから、しばらく身を潜めているのか。

「…何にも関係のない生徒を巻き込むなんて」私の耳元で冷たく微笑んだ紗耶香の声を思い出す。天使にとって人間はゲームの駒に過ぎないんだな。

「ゲームの駒だからね」佳乃が言う。私の心を読んだのか。「ルールに沿っていればいいんだよ。宝物と共通する名前だけが大事だったんだ。」

名前。

仏の御石の鉢は、石橋さん。

蓬莱の玉の枝は、玉木さん。

昨日校庭から姿を消したのは、ソフトボール部のピッチャーの衣川瑞希さんと、テニス部の辰巳音緒さん。

「それぞれ、火鼠の皮衣、龍の頸の玉だね」佳乃が言う。「一昨日、毛利から聞いた。生徒名簿を検索して、関係しそうな名前を片っ端からチェックしたそうだ。石っていう漢字を持ってる生徒さんは結構いたから、石橋さんが選ばれたのは偶然だったんだろうって。ただ、玉木さんはかなりドンピシャだったんだな。衣川さんも、辰巳さんも。」

「それでグラウンドで見張っていた」毛利の冷たかった指が、私の体温で少し暖かくなる。もっと握っていてあげよう。「ソフトボール部とテニス部の練習の様子を同時に見守れる場所で。」

「物語の順序に沿って、一人一人襲撃するだろうって予想してたんだけどね」佳乃が窓に寄りかかりながら言った。「ソフトボール部の部活終わったら、衣川さんの帰りを見届けて、私はそのまま彼女の家を見張るっていう手はずだったんだ。まさかあんなに派手に、一気に勝負をかけてくるとは思ってなかった。」

「ただ名前だけで」むらむらと怒りがわいてくる。「もし衣川さんも辰巳さんもいなかったら、どうする気だったのさ。」

「逆に言えば、ぴったり当てはまる生徒がそろっていたから、秋桜学園をターゲットにしたのかもしれない」佳乃が言う。「毛利が言っていた。サイコパスによる連続殺人事件の動機に似ているかもって。他人が見たらどうでもいいような細部にこだわる癖に、自分が納得さえすれば、かなり無理にこじつけた理由でもOKを出してしまう。」

「毛利でなくてもよかったはずだ」言ってから自己嫌悪が襲う。じゃぁ他の生徒だったなら、私はこんなに動揺しないのか。

「毛利もちらっと言ってたよ」佳乃はなんだか優しい笑顔を浮かべる。「つばめちゃんとか、子安さんとかいたらよかったのにって。貝原さんとか、鳥居さんとかでも、燕の子安貝にこじつけられるよねぇって。翼って名前をつけた親を恨むしかないなぁって。」

「…本当にいないの?」

「誰が?」

「毛利以外に、名前でこじつけられる生徒が」毛利の寝顔のおでこに手を当てた。知恵の詰まった私の親友の頭。

「…いたらどうだっていうの?」

「毛利は私のせいで紗耶香に選ばれたんじゃないの?名前だけが理由じゃない。私のそばにいて、紗耶香のゲームを邪魔しようとしているから。だから私に黙ってたんじゃないの?もし自分が選ばれた時に私がどう思うか分かってて。」

私が毛利を巻き込まなければ。毛利がこんな目にあうことはなかったのに。

「…もしそうだったとしても、毛利は有沢を恨んだりしないよ」佳乃の笑顔が暖かい。こいつ、悪魔の癖に。「毛利は興奮してたよ。もし自分がさらわれたとしても、ただのゲームの駒になんかならない。絶対紗耶香のしっぽをつかんでやるんだって。」

「あの時、紗耶香が毛利を狙った時、私は紗耶香のコントロールを受けなかった。他の子たちがみんな動けなくなってたけど、私は毛利を離さなかった。」

「有沢にあるのは見える力だけじゃないからね」佳乃が言う。「天界に近い分、天界からのコントロールも効きにくい。」

「私は毛利を離さない。紗耶香の思うようにはさせない。」

毛利の手をしっかり握った。汗ばむくらいに強く。

神様が、私に見える力をくれた理由。

もし私が毛利を守ることができるなら、それが理由かもしれない。




毛利のメッセージ



有沢。

このメッセージを書くのがすごく辛いの。頭の中にずっとわんわん紗耶香の声が鳴り響いていて。集中できない。でもこれを有沢に送らないとダメだって分かってるんだ。有沢はネガティブ思考で自分に自信がなくて、何かあればすぐに自分を責めるしすぐ後悔するしすぐ泣き言言うし、私がいなくなったら何も考えられなくなって立ちすくんでしまうと思うから。


私はこれから紗耶香の所に行きます。

紗耶香の呼ぶ声に従って、彼女の導く場所に行きます。


でも勘違いしないで。私は紗耶香の思い通りにはならない。絶対に。

この頭の中に鳴り響く声に負けてしまうのではないの。

佳乃は分かっている。私が最後の切り札だってこと。

私が辿り着く場所が、紗耶香が私を連れて行く先が、儀式の場所だ。

そこに樹里もいる。さらわれた4人もいる。

全員を救うために、私の後を追いかけて。

佳乃と相談して、追跡方法を決めました。

そのための準備もできてる。成功するかどうか分からないけど。


紗耶香が頭の中でずっと言ってる。月を見てごらんって。今夜の月は綺麗だよって。もうすぐ満月になる陰暦8月14日の待ち宵の月。声がうるさくて締め出せない。


有沢。

あの時紗耶香から私を守ってくれてありがとう。

あんたはぐーたらで面倒くさがりですぐ色んなこと諦めるし本当は頭いい癖にサボるから成績伸びないし美人なのにメイク下手で優しいのに人見知りで見ててイライラすること多いけどでも私はそんなあんたがホントに世界で一番大事でずっとずっと一緒にいたいって思ってるんだからね。

私にそんなに思われてる自分に自信持って。

絶対私を見つけて、みんなと紗耶香を取り戻して。

行ってきます。




追跡



結局ここなのかよ。

佳乃と優里ちゃんと私の3人で、秋桜学園の校門の前に立っている。夜の学校ってなんでこう不気味に見えるのかな。昼のよく知ってる姿と全然違う姿に見えるのが不安を駆り立てるんだろうか。

でも今はそれだけじゃないって分かる。学校全体を冷たい気配が覆っているのが分かる。校門の正面に建つ本館の上方に青白いオーラが輝いているのが見える。

「ドンピシャだね」佳乃が手の中のものをボリボリ食べながら言った。

「佳乃ちゃん、道で拾ったもの食べちゃダメでしょ」優里ちゃんが言う。

「もったいないじゃん。美味しいのに」佳乃が膨れっ面をする。

「お行儀が悪いです」

「はいはい」佳乃が舌を出す。「じゃ行くか。ここからじゃ人目につくから、あっちの塀を越えよう。」


優里ちゃんが軽々と塀を飛び越える。私に同じことをやれと?

「大丈夫、私が補助するから。人間の潜在能力を信じなさい。」

悪魔の言葉を信じて大丈夫なのかな。ええい、こんなことで躊躇ってる場合か。数歩下がって、目をつむって、自分がオリンピック選手になったつもりで、思い切って駆け出す。


「…なんで着地は補助してくれないんだよ」髪の毛に付いた木の葉と枯れ枝むしり取りながら佳乃に言ったけど、耳貸さずに優里ちゃんと二人でどんどん先に進んでいく。慌てて追いかけながら見上げた夜空に白々と輝く丸い月が見えた。先に立って颯爽と歩いていく2人の足元から月影が伸びている。意味なくカッコいいな。2人だけヒーローぶってる感じで気に入らんぞ。

「皆既月食が始まる」優里ちゃんが言った。「先輩、急いでください。」

3つも下の優里ちゃんまでが私を下っ端扱いしている気がする。大変気分が悪い。


佳乃が鼻をヒクヒクさせた。「本館の上の方だ。」

「屋上かな?」私が言うと、佳乃は頷いた。「多分ね。麦チョコの匂いだけじゃない、ソフトボールのグラブの皮の匂い、抹茶の匂いもする。」

「ソフトボール部の衣川さんと茶道部の石橋さん」優里ちゃんが呟く。「多分他の2人もいるね。樹里もいるかな。」

佳乃がもう一度鼻をヒクつかせる。「間違いないね。優里と同じシャンプーの匂いがする。」

「…で、毛利は麦チョコか」私が言うと、佳乃がニヤッと笑った。「優里と私が好物だって言ったからだよ。匂いを追いかける時のモチベーションが高まるから。」

「麦チョコって意外と匂いもキツイですから」優里ちゃんが言う。「佳乃ちゃんさっきからチョコレート臭いし。」

「毛利が目印にいっぱい落として行ったからさ」佳乃がまた口をもぐもぐ動かしながら言う。まだ隠し持ってたのか。「異空間の通路で匂い追いかけるのはちょっと苦労したけどね。」

「毛利先輩、必死だったんだと思いますよ」優里ちゃんが言う。「紗耶香さんに心まで支配されてても、麦チョコ撒くことだけは忘れずに続けてくれたんだから。」

「天界の扉が開く」佳乃が本館の入り口の扉に触れると、ガチャっと音がして扉が開いた。「さあ行こう。この上だ。樹里を取り返そう。」

「麦チョコ臭い毛利もね」私は言った。




天界の扉



月の光が本館の屋上を冴えざえと照らしている。まだ残暑が厳しいのに、真冬のように凍てついた空気。

「紗耶香の気配がないな」佳乃が呟く。「どこに行った?」

優里ちゃんが声にならない叫び声を上げて駆け出した。その先に、誰かが倒れているのが見える。一人じゃない。倒れている生徒に近寄ろうとした優里ちゃんが、何かにぶつかったように弾き返されて尻もちをついた。

「結界が張ってある」駆け寄って優里ちゃんを抱き起こしながら佳乃が言う。「紗耶香を見つけないと中に入れない。」

中には入れないが、結界の中の生徒達の様子は見えた。6人いる。真ん中に倒れているのは樹里ちゃんだな。そして5人が、樹里ちゃんを囲むように倒れている。5人の倒れている位置に赤い線が描かれているのが見える。

「星の形?」優里ちゃんが言う。

「五芒星だよ。陰陽道の呪術の印だ」以前毛利が教えてくれたな。私の見える力を知ってから、一時期オカルトとか呪術の知識に異様に詳しくなってた毛利。倒れている生徒の中に毛利を探した。奥に倒れてるキュロットスカートの女の子が、手に何か握りしめてる。麦チョコの袋だな。その足元から、2本の赤い線が他の生徒に向かって伸びている。

「…あの赤いのは」優里ちゃんの声が震えた。「血?」

真ん中に倒れている樹里ちゃんの部屋着が血に染まっている。優里ちゃんが結界に突進しようとするのを佳乃が止めた。「大丈夫、死んじゃいない。五芒星を描くための血を抜いただけだ。傷はもう塞がってる。神の種を降ろす聖女を殺したりしない。」

「樹里」優里ちゃんが涙声になる。

「紗耶香は」冷たく輝く十二単を探して天を仰ぐと、ほぼ真上で輝いている月の端が丸く欠けているのが見えた。「月蝕が始まった。」

微かに音がした。音じゃない、音楽。オルガンの音だ。死んだように動かなかった樹里ちゃんの身体がぴくり、と震えるのが見えた。欠け始めた月の手前に、青白い光がゆらめきながら固まり始めて、何かの形を取り始める。音が次第に大きくなる。赤い五芒星の中心でふらふらと樹里ちゃんが立ち上がる。両手を宙の光の塊に向けて伸ばすと、口を開いた。

その口から、歌が流れ出した。鳥肌が立った。月の光がそのまま声になったような、なんて透き通った声。

樹里ちゃんを囲む5人がゆるゆると立ち上がる。毛利も立ち上がった。手に握りしめた麦チョコの袋を取り落として、月に向かって手を差し伸べる。5人の生徒が揃って空に手を差し伸べ、それぞれの声で歌い始める。澄み切った声の糸が絡み合って宙空の光の塊に向かって伸びると、光の塊はさらにはっきりした像を結び始めた。

「紗耶香」思わず呟いた。「紗耶香がオルガンを弾いてる。」

宙に浮かんだオルガンの鍵盤を、十二単を纏った紗耶香が微笑みながら弾いている。その指先から流れる清らかな旋律に、6人の生徒達の歌声が重なり、脳を痺れさせるような美しいハーモニーが響く。神の降臨を寿ぐ天使の合唱。

「佳乃ちゃん!」優里ちゃんが佳乃の腕を掴むが、佳乃は紗耶香を見上げて歯噛みする。「あれは幻影だ。実体は別のところにいる。」

宙空の紗耶香の姿は水面に映る影のように揺らめき、オルガンの音と天使の合唱はますます大きく響く。月の影の部分が広がり、今はもう半分近く欠けている。紗耶香が奏でるオルガンの影が濃くなる。紗耶香の実体。そうか。

「佳乃、礼拝堂だ。紗耶香は礼拝堂の中でオルガンを弾いてる。その姿を投影してるんだ。」

佳乃が優里ちゃんを抱きしめて、黒い影が優里ちゃんを包み、そのまま弾丸のように礼拝堂に向かって飛翔した。ステンドグラスが砕け散る音がして、宙空の紗耶香の姿が消えて、オルガンの音が途絶える。でも音楽はやまない。樹里ちゃんの美しいソプラノの響きが天上からの音楽と絡み合う。

天上からの音楽?

紗耶香の幻影が浮かんでいたあたりに、光の円盤が浮かんでいた。銀河のように渦巻きながら、次第に広がっていく。音楽はその渦の中心から聞こえてくる。

あれが天界の扉か。

礼拝堂の方向から真っ白な光が一直線に飛んできて、その後を炎の弾丸が追う。軽く身を交わすと、紗耶香が氷の刃を袖口から飛ばした。真っ赤な丸い盾にぶつかって、盾が黒い塊になって落下する、その盾の後ろに優里ちゃんがいた。

「何度も同じ攻撃にやられないよ!」落下した黒い塊が再び浮き上がって、また熱を帯びて真っ赤に燃える。燃えたぎる炎になった盾が飛散して、四方八方から紗耶香に飛びかかっていく。

ガラスか。ステンドグラスを熱で溶かして、武器や盾として使っているのか。氷の矢で防ぎきれずに紗耶香の十二単に穴が開く。紗耶香の目が怒りに燃える。天界の音楽が少し遠ざかり、歌う6人の身体がふらふら揺れる。優里ちゃんが裂帛の気合いを飛ばして、礼拝堂のステンドガラスが全部粉々に砕け散るのが見えた。キラキラと輝きながら、熱を帯びて真っ赤に燃えて紗耶香に向かって降り注いでいく。燃える炎の弾丸が紗耶香を貫いて、紗耶香の顔が苦痛に歪む。

「優里ちゃん、ダメ!」思わず叫んでいた。燃えるガラスの塊が紗耶香を包み込み、紗耶香の周りで真っ黒に固まる。紗耶香が落ちていく。天界の音楽は消え、6人の歌も途切れ、みんなが糸が切れた操り人形のようにくず折れるのが見えた。

「亜美」屋上の上に転がった紗耶香の声が聞こえる。駆け寄ると、固まったガラスに身体中覆われて紗耶香がもがいていた。十二単も消えて、短パンにトレーナー姿。さらわれた時の服装か。

「紗耶香!」近づくとまだ熱いガラスの熱を感じた。紗耶香が顔を歪める。「亜美、熱いよ。助けて。身体が燃える。」

「佳乃!」このままだと生身の紗耶香が死んでしまう。反射的にポケットの中の天神様の護符を取り出すけど、こんなもので何ができるっていうんだ。佳乃に助けてもらわないと。

「有沢、罠だ!」優里ちゃんが佳乃の声で叫んだ瞬間、冷たい風がふっと吹きつけた気がした。

「ごめんね、亜美」紗耶香が微笑む。「やっぱり殺すわ。」

紗耶香の右手が氷の刃になって、私の右胸を貫いていた。



理由


結局こうなるんだなぁ。

遠ざかる意識の中で呟く。結局私が全部ダメにしちゃった。

毛利はネガティブ思考だっていうけどさ。結局私っていつもこうなんだよ。

何をやっても上手くいかない。せっかく佳乃と優里ちゃんが圧倒的に優位に戦ってたのに。

私を盾にされて一瞬躊躇した優里ちゃんの上から、大量の水が落ちてきて、それが一瞬で凍りつくのが見える。ガラスを液体の武器にした佳乃の戦術を逆手に取ったのか。プールの水を全部優里ちゃんの上にぶちまけたな。氷の塊の中に閉じ込められた優里ちゃんが見える。ピクリとも動かない。

天空で輝く天界の扉の輝きが強くなる。青白い光が氷の上にキラキラ反射する。

紗耶香が私を横たえて五芒星の中央に向かって歩み出す。歩きながら紗耶香の体の周りに幾重もの輝く布が出現する。再び輝く十二単姿になって、五芒星の中央に立つ樹里ちゃんの前に跪く。樹里ちゃんの目に光がないけれど、天界の扉の輝きに呼応するように、黄金のオーラが輝きを増す。天界の光と樹里ちゃんの輝きが、優里ちゃんを封じ込めた氷の上に弾け、踊るのが見える。

天界の扉から輝く球体の一部が姿を現すのが見える。

綺麗だなぁ。光の饗宴だ。

毛利、私は死ぬ前に綺麗なものを見ながら死ねるみたいだよ。

血が喉から上がってきて息が詰まる。

手にした護符を握りしめた。

神様。

結局なんで私は見える力を持って生まれてきたんですかねぇ。

ここで、何一つ思うようにならずに、ただこの綺麗な景色を見ながら死ぬことが、理由だったんですかねぇ。

せっかく死ぬんだから、死ぬ前に、一つだけ願いを叶えてくれないかなぁ。

毛利を守ってくれませんか。私の大事な相棒なんです。

樹里ちゃんを、優里ちゃんを守ってくれませんか。眉目秀麗、頭脳明晰の素敵な姉妹。

佳乃の優里ちゃんへの想いも、叶えてやってくれませんか。

悪魔かもしれないけど、人の不幸を餌にしてる奴だけど、優里ちゃんのことを何より大事にしてる、意外といい奴なんですよ。

紗耶香を天界に連れていくのは勘弁してもらえないですかね。

ずっと不幸な運命抱えてて、それでも笑顔だった優しい子なんです。

私の命と引き換えに、願い叶えてくれませんかね。

一つって言いながら、お願いしすぎかなぁ。

視界がどんどん暗くなる。

ドーン、と凄まじい轟音がして、そのまま世界は暗黒に包まれた。



別れ


有沢、起きろって声がする。毛利の声だな。天国の天使の声って毛利の声なのか。でも私を殺したのは天使なんだよな。天使に殺されたんだから、私は地獄に落ちるんだろうか。

「有沢、起きろ!起きてちゃんとお礼を言え!」

ああ、やっぱり地獄だな。これは佳乃の声だもんな。悪魔がいる地獄に堕ちたか。そんなに悪いことしたつもりないんだけどなぁ。結構人のために走り回ってばっかりいたつもりなんだけど。

「有沢!」耳元で思いっきり怒鳴られて、流石に目を開けたら、目の前にでっかい龍がいた。正確に言うと、龍のでっかい頭部。こっちをギロっとにらんでいる。首から先の身体の部分は天の方に伸びていて、尻尾の先は夜の闇に消えている。恐ろしげな姿なんだけど、怖いっていうより、なんだか懐かしい感じがした。なんでだろう。

「何が見えてるの?」毛利が興味津々っていう口調で話しかけてくる。ああ、いつもの毛利だ。

佳乃が私の肩を叩いた。「天神様だよ。有沢の祈りを聞いてくれたんだ。」

「…天神様…龍神様?」私が呟くと、佳乃が言った。「雷を落として、私と優里を氷から救い出してくれた。紗耶香は完全に油断してたから。」

天神様。私の護符。私の氏神様。

「紗耶香は?」

「窓枠の鉄を溶かして輪にして縛り上げた。」

「私の傷は、佳乃が治してくれたの?」

「そうだよ。壊れたものを直すのは難しくない。」

「…ありがとう」と言うと、佳乃はちょっと頬を赤らめた。こいつ本当に悪魔なのかな。

「天神様、ありがとうございます」と龍に向かって頭を下げると、龍は熱い息をふうっと吐いて、首をめぐらせた。立ち上がって、龍の首が向かう場所についていく。

「…近づいて大丈夫?」毛利が後ろからついてきた。

「大丈夫だよ。神の種は扉を通り抜ける直前で消えた。天界の扉ももう閉じた。今の紗耶香には力は残っていない。」佳乃が言った。

龍と並んで、横たわる紗耶香を見下ろした。鉄の輪に縛られて転がっている紗耶香の、怒りに燃える目が龍をにらみつけている。「土地神ごときが!」口から泡を噴く勢いで叫ぶ。「千年に一度の機会を邪魔しやがって!」

龍が吠えた。紗耶香は口をつぐんだ。

「そっちが無礼ってことでしょう」私は言った。「土地神様のおひざ元で、断りもなく好き放題やったんだから。」

龍が口を大きく開いて、長い舌を紗耶香の方にぬるっと伸ばす。その舌が、紗耶香の身体を、べろん、となめると、翼の生えた天使が舌にからめとられて紗耶香の身体から分離した。そのまま龍が天使を口の中に取り込んで、ごふっと音を立てて飲み込んだ。

紗耶香を抱き起した。握りしめた手が温かい。なんだか胸が熱くなった。

「ねぇ、何が見えたの?」毛利が興奮気味に聞いてくる。


佳乃が天神様に深々と頭を下げると、天神様は一気に夜空へ駆けあがっていった。月は円を取り戻して空に明るく輝いている。

「礼拝堂のステンドグラスのことを頭に思い浮かべてくれる?」佳乃が言うので、毛利と私で目を閉じて、礼拝堂のステンドグラスのことを考えた。

「さんきゅ」佳乃が言う。「元に戻しておいた。」

「…やっぱり悪魔なんだな、あんたは」毛利が感心したように言う。

「優里ちゃんは?」と聞くと、「樹里とか、他の生徒と一緒に先に降りたよ」と佳乃が言った。「警察に連絡したから、そろそろパトカーとかも着くだろう。」

「…優里ちゃんにさよなら言わない気だね?」

「…さよならなんか言ってどうする」ふくれっ面でにらまれた。「私のことはみんな忘れてしまうのに。優里だけじゃない。毛利も有沢も、みんなそうだ。」

「…優里ちゃんの魂を魔界に持っていかなくて大丈夫なの?怒られないの?」

「神の種の降臨を阻止できたんだ。英雄扱いだよ。」

「…ではその英雄にご褒美をあげよう」毛利が手にした麦チョコの袋を差し出した。「まだ結構残ってる。」

「…さんきゅ」佳乃が微笑む。

「引き止められないのは分かってるけど」私は笑おうとした。「寂しいよ。」

佳乃の顔がちょっと歪む。こいつ、本当に人間臭い悪魔だなぁ。

「魔物退治してほしくなったら呼ぶから、たまに遊びに来てよ」毛利が言う。

佳乃は答えず、麦チョコの袋を持った手をあげた。

そしてそのまま見えなくなった。



終章~悪魔~


「紗耶香にお料理コラムとか書いてもらうのも手だなぁ」毛利が言う。

「楽しそうだけど、家政部の領分じゃない?」紗耶香が言う。

「家政部とコラボでやればいいじゃん。紗耶香が家政部の新作レシピをインタビューに行くとか。」

「それも楽しそう。」

新聞部の部室で弁当つつきながらだべってる。主要記事は高2の幹部学年の領分だから、高1の私たちが任されているのは最終頁のコラム記事などの軽い読み物ばっかりなんだけど、結構学内でも人気企画が多いんだよな。毛利の企画力のおかげ。高1のうちから副編集長に任命されているだけのことはある。

「有沢さんにも何か企画していただきたいんですが?」毛利副編集長が嫌みったらしく言う。

「今は勘弁して。文化祭のミスター秋桜学園の準備で忙しいのよ。」

思い付きの企画だったんだけど、意外と編集長の麻生さんの琴線に触れたらしくて、文化祭のステージ企画に新聞部として名乗りを上げたら、そのまま正規企画になってしまった。男装限定、コスプレOK。新聞に出演者募集広告書かないと。

「有沢出ればいいのに」毛利がふくれっ面をする。「だったら全面協力してあげるのにさ。」

「勘弁してください。」

「応援うちわとか作ってあげるよ」紗耶香がけらけら笑いながら言う。「他薦もOKなんだよね?」

「やめてってば。」

夏休み明けの神隠し事件以来、紗耶香は本当に明るくなったと思う。背中に張り付いていたぐにょぐにょうねうねはすっかり消えてしまって、保健室にも滅多に行かなくなった。

「うちのクラスにもイケメンいたよね?」毛利が言う。「誰だっけ?」

「毛利のクラスに?」紗耶香が言う。「そんな目立つ子いたっけ?」

「…どうだったかなぁ。」

「毛利の願望なんじゃないの?」紗耶香が笑い飛ばしている。「現実見ようよ。現実。」


「樹里は乗り気です」優里ちゃんが言う。「自薦は恥ずかしいっていうんで、私がエントリーしておきます。」

「ありがとう」思わずにやけながら言った。よかった。

「でも、中等部の、それも中一の子が参加って、いいんですかね?」

「いいのよ。逆に特定の学年にかたよるのはよくないから、低学年からも参加してもらいたかったんだ。樹里ちゃんすごい美少年になるだろうし。」

「樹里は綺麗だから」優里ちゃんも微笑む。「でも、大丈夫かな。」

「何が?」

「ミスコンとかに出て、目立ったりしたら、また誰かに誘拐されたりしないでしょうか。」

神隠し事件は犯人不明の猟奇事件として未解決のままだからなぁ。

「大丈夫だと思うよ」ここであきらめるわけには。「もう懲りただろうし。」

「懲りた?」

「いやなんでもない。」

「…時々不安になるんです」優里ちゃんが校庭で遊んでいる生徒たちを見つめて言う。「ずっと誰かに守られてた気がするのに、その人が急にいなくなったみたいで。何か大事なことを忘れてるみたいで、すごく胸が苦しくなる。」

「大丈夫だよ」この子にこんな顔してほしくない。「私も、毛利も、みんな二人のこと見守っているから。」

「有沢先輩は樹里が推しですしね」優里ちゃんが微笑む。

「優里ちゃんも推しだよ。私にとっては姉妹アイドル。」

優里ちゃんがにっこり笑う。そうそう。いつもその笑顔でいてほしいんだよね。有沢は野澤姉妹と仲が良すぎるって、最近毛利がおかんむりだけど。


校舎のほうに駆けだして、優里ちゃんが振り返って手を振る。私も手を振った。可愛いなぁ。

「可愛いよなぁ」ベンチの後ろから声がする。

「…たまに人間になって会ってあげればいいのに」私が言うと、黒猫が後ろからひょい、と飛び上がってきて、私の膝の上に座った。「そんなわけに行くかよ。」

「折角こっちに戻ってきたのに。しばらくこっちにいるんでしょう?」

「優里や樹里や、みんなの人生に関わるわけにはいかないんだよ。悪魔に取りつかれて幸福になれるやつなんかいないんだから。」

「私にはしっかり取りついてるくせに。」

「有沢はもともと天界に近いから」黒猫の佳乃はまだ優里ちゃんの背中を目で追っている。「私のことも全然忘れてくれないし。」

「私に天界のコントロールは効きません。」

「…偉そうだな。見える力のこと鬱陶しがってた癖に。」

優里ちゃんが校舎の中に入って、姿が見えなくなると、佳乃は私の膝の上で丸くなった。

「そろそろ昼休み終わるから、どいてくれない?」

「ここがいい。」

「どかんかい、この悪魔。」

「もうちょっとこのままでいさせてよ。」

まったく、寂しがり屋なんだから。

「優里ちゃんだって、佳乃のことは忘れてないじゃん」黒猫の背中を撫ぜながら言う。「毛利だって、ぼんやり覚えてる。他の誰が忘れたって、私は絶対忘れないよ。寂しがり屋で、人懐っこくて、無茶苦茶強くて、そして優しい悪魔のこと。」

校庭から校舎に向かって駆けていく生徒の一人が、派手にすっころんだ。友達が数人駆け寄っている。その後ろの茂みの中から、バスケットボールより一回り大きいくらいの黒い塊が走りだしてくるのが見えた。でっかいゴキブリのように見えるそいつが、転んだ生徒の背中に取りつくと、その子が胸を押さえてうずくまるのが見えた。

「佳乃。獲物だよ」私が言うと、ひざの上の佳乃が伸びをして、すとん、と地面に降り立つ。「じゃ、食事してきます。」

「デザートに麦チョコ用意しておいてあげる。」

「さんきゅ」黒猫は言って、黒いゴキブリに向かって走っていった。

「有沢、五時限目始まるぞ!」校舎の前で毛利が手を振っている。うずくまっていた生徒が立ち上がって、校舎に向かって駆けだすのを見届けて、私も立ち上がった。

「急げ、有沢!」毛利の声にむかって走り出す。秋桜学園全体が、淡いピンク色のオーラに包まれているのが見えた。



(了)

さくら学院とその卒業生「のような」子達を主人公にした小説を書き続けていますが、今回はかなりファンタジー色の強いお話になりました。例によって設定は強引だし、何かの漫画に出てきたようなシチュエーションも加わってますが、まぁ自分の好きなものへのオマージュ、ということで許して下さい。

あと、今回は@onefiveの初見キラー、SOYOさんに悪役を務めてもらいました。さくら学院の学院祭でサイコキラーを演じた姿が印象に残っていたので・・・これも伏してお詫び申し上げます。

これからも、さくら学院の卒業生さん達をキャスティングしたお話を妄想していければ、と思います。父兄の皆さん、メイトの皆さん、Fifthの皆さんには「それは違うだろう」と思われるキャラクター設定もでてくるかも、ですが、あくまで私個人の妄想で、実在のさくら学院卒業生とは全く関係のないフィクションですので、その点は是非ご理解ください。

もし最後までお読みいただけたなら嬉しいです。

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