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目隠しの向こう側

作者: 森野 乃子

「なんと恐ろしい悪霊にとり憑かれたものか……! 何をしたらこうなるのだ!」


 いや、そんなことを言われても困る。

 私だってめちゃくちゃ困っているのだ。

 雨宮セリ、二十三歳。どこにだっている普通の事務職をしている女で、働き始めてから三年ほど経ち、その当たり障りなく業務をこなす功績が認められて給料が少し上がった。

 三年間黒く長い髪の毛をひっつめている髪型を変えたことはなく、うっかり湯で洗って表面が剥げてしまった丸眼鏡の姿もあり、会社の人は親しみを込めて“いかにも事務員って感じの子”と呼んでくれている。

 もっとも、まず最初に「あの子の名前なんだっけ」とつくが。


「本当に何もしていないんです」

「心霊スポットに遊びに行ったりしたとか」

「いや、本当に何も」

「やったものは皆そう言うのだ。ここまでのモノにとり憑かれるなど、何かをしていなければあり得ない!」


 それが、どうだ。

 ここ最近、やたらと霊障が起こるようになってしまった。

 家に帰れば全ての引き出しが開いて中身が飛び出しているし、窓越し、ガラス扉越しの人影は当たり前。

 真夜中の金縛りも増えてきて、ラップ現象から始まり物が飛び交ったり、果てはイタズラ電話に壁一面の血のような色の手形と来たもんだ。


「だって本当に心当たりがないんですよ。心当たりがないのに変なことばかり起こって困ったな~ってここに来たんですから。あったら正直に言うでしょう」

「ならなぜそうも落ち着いている!普通は取り乱すものだぞ!」


 ……まあ、それはたぶん、私が幽霊だとかそういったものを一切信じていないからだろう。

 一番最初に家中のものがひっくり返っていたときは、泥棒が入ったのだと思って警察に電話をしたくらいだ。

 その時は私のもの以外の指紋が一切検出されず、また何者かが侵入した痕跡もなく、あわやイタズラをした女になるところだった。

 それからは「まあ、これがいわゆる幽霊ってやつだろう」と適当に定めて放置していたものの、家が汚れるとなると話が変わってくる。

 幽霊にはわからないかもしれないが、ここは賃貸で、出ていくときに酷い汚れや破損があればそれは私の責任なのだ。


「信じていないモノにビビったりしないんですけどね、仮にこれが霊障だとして、家を汚されると困るんですよ。だからもう祓うしかないでしょう」

「くそっ……見えない者はそう軽々しく言うのだ……! これがどれほど恐ろしい見た目をしているか見えたら、その発言も変わってくることだろう」


 しっかりと生えた白髪交じりの髪が、今にもストレスで全て抜け落ちそうなほど悲壮な顔をしている。

 ところで、この人は友達に紹介された悪魔祓い師だった。悪霊専門じゃなくていいのかと聞いてみたが、悪魔の片手間に悪霊もやっているとのことだった。

 怪しげな斑色の和服に大量の自然石の腕輪。室内は昼間なのに暗幕で外の光を遮断し、蝋燭の明かりだけで照らしている。と言っても、その蝋燭は何故か通常らしからぬ炎の勢いで燃えているので、あと数分でカーテンを開ける羽目になると思うが。

 自称霊能力者のステレオタイプといった老人が、呻きながら正座を崩して大きな溜息をついた。


「あのそれで、一体どんなモノが憑いているんですか?」

「悪霊だ! この世の全ての悪意を一週間ほど煮詰め、天日干ししたのをドブ水に漬け込んだ樽を千個……それを全てひとつの樽に入れ、さらに有象無象の悪霊を溶かし込んで百年は煮込んだような恐ろしい濃度の悪意……お前、なぜ生きていられるのだ……」

「信じていないからですかね?」

「そんな気合の問題でどうにかなるとすれば、お前のそれは神仏の類の念と同じだ!」


 なるほど……ならば相当に強いらしい。

 “幽霊など信じていない”という力が。


「ちょっと話が進まないのでお聞きしたいのですが、結局あなたはこれを祓えるのでしょうか? 祓えないなら別の人のところに行くんですけど」


 そう言った瞬間、悪魔祓い師がいかにもプライドを傷つけられたような顔をした。


「できんことはない」


 正直怪しかったが、まあ、そう言うのならお願いしよう。

 なんせこういったものの料金は高いのだ。私はすでに依頼内容を聞いてもらった段階で相談料として一万円を支払っている。

 あとは現場で見せてもらってから悪霊祓いの代金をと言われ、その難易度に応じて金額が上がるというような話を聞いてはいたが……まあ、この反応であれば“天井知らず”と言われていた金額も値切れるかもしれない。なにせこの男、相当にプライドが高いらしいことは先程の発言から知れた。


「いかほどで?」

「うーむ……これであれば三百万はないと困る」

「ははあ。さては自信が無いのですね」

「なんだと」


 思ったよりも高い金額にパニックになり、思わず悪態が口をついて出てしまった。

 しかし一度出た言葉はもう飲み込めない。


「いや、だってそうでしょう。私が見えないのを良いことに、そんな大げさな態度をとって金を巻き上げるつもりなんだろうな~」

「なんだと!!」

「いやあ、一万円が無駄になっちゃったかな? 別の人のところに行くので、本日はこれで。えーっと高宮さんの電話番号なんだったかな」


 その名を出した瞬間、悪魔祓い師の顔色が変わった。


「それは! 最大の侮辱だ!!」


 怒鳴り声を聞いて肩をすくめる。

 いや、さすがに同業者の名前まで出すのは失礼すぎたかと謝るために振り向いたときのことだ。


「ワシの代理が高宮だと!? あの生臭坊主! なんたる侮辱!!」


 いや、違う。相当仲が悪いらしい。


「……あの、ちょっ……お二人の関係性は知らないんですけど」

「こっちに来い! こんなもの! 三万で祓ってやる!!」

「えっ……!? ちょ、ちょっと……! 三百万が三万なんておかしいでしょう! 効かなそうだからいいです!!」

「なんだと!? いいから来い!!」


 魔法陣の中央に強引に座らされ、鉢巻のような布を投げつけられた。


「あぶっ……! こ、これは……? え、臭っ」

「それで目を隠しておれ。絶対に、何があっても、ワシが良いと言うまでそれを外すな」

「え、でもこんな――」

「いや待て。ワシが良いと言っても外すな。良くなればワシが外す。それまでは絶対に目を開けるなよ!!」


 ガクガクと肩を揺さぶられる。

 あまりにも凄まじい剣幕に思わず驚きながら、私は投げつけられた布で目隠しをした。


「――いくぞ」


 低い声で唱え始めた瞬間、急に北極にでも来たのかと言うほどの寒気が襲う。

 感じたことがないほどの寒さ――否、自分の魂が冷えていると思えるほどのそれに「ああ、なるほど。もしかしたら本当に霊はいるのかもしれない」と思ったほどだ。

 しかしそれならば疑問が残る。なぜ私なんかに悪霊がついたのだろうかと。


「……くそっ……やはり力が……」

「だ、大丈夫なんですか……! やっぱりやめた方が……」

「ならん! 一度始めてしまえば最後まで終わらせんと、ワシの命まで危ない……!」


 何故そんな危ない賭けに出たのだ、このジジイは。

 それもたかだか三万円で。


「……シ……エノ……ネ……シ……エノ……ネ……」


 風邪をひいているくせにカラオケで六時間歌ったような室内に声が響く。


「えっ、なんですって?」

「悪霊に関わろうとするな!」

「えっ!? 今のおじさんの声じゃないんですか?」

「そんなわけあるか!」


 満を持して言う時が来た。

 この声、脳に直接語りかけてきている――と。

 しかし、そうなれば俄然気になってくるのは何と言っているのかということだ。


「いかん、力が強すぎる……!」


 気になる台詞が聞こえてきたが、私は悪霊とやらが何と言っているのかを探ることにした。

 そして、室内中のそれっぽい装飾品がガタガタと激しい音を立て始めたとき、ようやく私はその“声”を聞くことに成功したのだった。


 ―― 悔しい、悔しい、実に悔しい……必ずや、必ずや、必ずや、殺してやる……末代まで呪いの上に呪いを重ね、魂が永遠に火で炙られるよう厳重に呪ってやる……浅田ラムネ ――


「いや、浅田ラムネは私の隣の席の女なんだよなあ~!」


 その声とともに、私は跡形もなくこの世から姿を消した。



 + + + + +



「おや。鬼どもが騒がしいと思うて来てみれば、珍しいモノが落ちているじゃあないか」


 その声に肩を跳ねさせるのと同時に、私の意識は覚醒していく。

 目を開けているはずなのに真っ暗なことに驚いたが、そう言えば目隠しをしていたなと思って目隠しに手をかけた。


「ああ、待て待て。それは外さないほうが良い」


 私の手に触った誰かの手は、恐ろしく冷えていた。


「冷たっ」

「おお……すまんなあ。冷えているだろう、私の手は」

「いえ……まあ、少し……」


 砂地の硬い地面に寝転がっているのだろう。

 ザラザラとした感覚に困惑しながら、私は地面に手をつきながらゆっくりと身を起こす。


「あのお……」


 何から聞けば良いのか。

 どう説明すれば頭がおかしい女だと思われずに済むのか。


「言わんでよろしい。お前は生きながらにして地獄に落ちたのよ。うっかりな。これこのように把握しておるから安心せい」

「ああ~、なるほど」


 なるほど、なるほど。

 頭がおかしいのは私ではなく相手の方だったようだ。


「目隠し、取っていいですか?」

「だから駄目だと言っているだろうが。外した瞬間に目玉が弾け飛ぶぞ」

「そうなんですね」


 なんだか恐ろしいことを言われた気がするが、まあ、霊がいるくらいだから地獄だってあるのだろう。

 そして私がそこに生きながら落ちることだってあるのだろう。


「いや、あってたまるか~い!」

「威勢がいいな」

「私、浅田ラムネと間違えて地獄に送られたんですけど!」

「誰がそのようなことを言うた。迎え鬼であれば、そのモノの間違いだろうな。なにせ死者の魂は必ず三途の川を渡ると決まっている。それもなしにここにいるのはおかしいのだ」


 そもそも生きた者がいる時点でおかしいが、と声の主は言うと、私の膝の裏をすくって私を抱き上げる。


「いや、ちょっ……何を……!」

「暴れるな。落ちるぞ。靴も履いていないお前が地獄(ここ)を歩けば、一歩踏み出した瞬間に足の裏が血だらけになろう」


 クスクスと笑うその声にゾッとしながら、足の裏の手が人間のそれよりも一回りほど大きいことに気づいて更にゾッとする。

 きっと身長二メートルを超えている人だってこんなに大きな手はしていないだろう。


「そうでしたか……ありがとうございます。でも本当に間違えてここに来ちゃって……たぶん、浅田が課長と不倫しているのを恨んだ人が、まあ、奥様だと思うんですけど。その恨みで呪われたんだと思うんですよ」

「そうかそうか」

「いや、そうかそうかじゃなくて!」

「ははは、生者とはうるさいな。こんなにも表情がコロコロ変わるのか。私相手にここまで噛みついてキャンキャンと叫ぶのも面白いものだ」


 心底楽しそうな声に若干怯む。


「もしかして偉い人ですか?」

「ん~? いーや」


 楽しげな声。

 これは絶対に偉いやつだ。


「まあ、生者がいつまでもここにいるのは良くないからな。戻してやるとしよう。ただし、その目隠しを取るなよ。一度地獄を見れば二度と戻れなくなるぞ」

「え、目玉が破裂するんじゃなかったんですか?」

「んん? あ~、まあそうだな。そろそろ静かにしなさい。ここには人間を食うのが好きな鬼もいる」


 パサリと私の顔に声の主の髪が降り落ちて絡みつく。

 耳元で聞こえる低い声に背筋が凍るような感覚を味わいながら、私は小さく頷くのだった。



 + + + + +



「ええ~!? 生者ぁ!? 駄目ですよお! 帰せませんよすぐなんてぇ! ゲロゲロ!」


 カエルの鳴き声がする。

 この遥か下の方から聞こえるのは、まさしくカエルの鳴き声だ。

 まあ、地獄なのだから人間以外の声がしてもおかしくはなさそうだが。


「なぜ駄目なのだ」

「だって正規の門から入ってきていないんだから、地上に出たら深海魚が急速に地上へ引き上げられた時みたいに、目やら内臓やらが飛び出しちゃいますよ~? ゲロゲロ!」

「なるほどなあ。それは困ったもんだ」


 正規の門から入ってくれば、地獄から現世に帰ることができたのか?など聞きたいことは山ほどあるが、取り敢えずは何も言わずに静観する。


「まあ~、三日三晩でしょうな。室を与えて~、その空間に少しずつ地上の空気を混ぜていけば、無事に帰ることができるでしょう。ゲロゲロ」

「そうか。では椿の間を開けくれ」

「承知!」


 ペタペタと何かの足音が遠ざかっていく。


「と、言うわけだ。なんとも面倒なことよの。だが私は拾ったものは最後まで面倒を見る男なのだ。良かったな、人間」

「あ、ありがとうございます……お世話になります。あ、そうだ。私、名乗っていませんでしたね。失礼しました。私、雨み――」

「待て」


 名乗ろうとした瞬間、パンと大きな手で口を封じられる。


「地獄で名を名乗るやつがあるか」

「……そうなんですか? これからお世話になるのに?」

「ははは! お前、絶対に地獄に落ちなさそうな人間よな」


 何が面白いのかひとしきり笑うと、男は「笑い疲れた」と言って大きなため息をついた。


「私はお前のことをポチと呼ぼう。お前は私のことも、ここにいるモノのことも好きに呼ぶと良い」

「ポチは嫌なんですけど」

「いや、地上にいる犬といったか。あれに似ている。ポチでよい」

「じゃあ、あなたのことはオジサンって呼びますね」

「……おい」


 犬と同列に扱うなんてどうかしている。

 そんな気持ちを込めて呼びかけに顔をそらして答えて見せれば、男は大きなため息をついて私の顔を覗き込んだ――ような気配が感じられた。


「無知は罪よな。だが……知られでもすれば、この人間も私を恐れるのだろうか」

「どうですかね。私、幽霊の存在を承認したのがさっきなので、幽霊よりもよくわからない存在のあなたのことを怖いと思うかどうか……」

「ははっ! まあいい。あいわかった。ではお前の名は――セリ。地上にあるのだろう? 芹の花というのが。お前の頭の中はごちゃごちゃと感情が入り混じってうるさいからな。芹の小さな花が寄り集まった姿は、まさにお前の頭の中に浮かぶ感情の様子にそっくりだ」


 なんか馬鹿にされているような気がしてならないが。


「まあ……じゃあ、あなたは、おじ様――」

「念の為に言うが、私は罪を犯した鬼の処刑係という仕事を請け負っておる」


 なるほど、流石にわかる。これは明確な脅しだ。


「……では、あなたの名前は――」


 セリ……か。

 私の本名だ。目の前の男がそれを知っているはずもないが、どうしてか男はその名前を選んだ。

 多分私は嬉しかったんだろう。口角が上がっているなと気づいた瞬間、こんな珍妙な状況がおかしくて、私の口角は更に上がった。

 声の主からかすかに香ったお香の匂い。それにつられて声が出る。


「――白檀」


 記憶を手繰ったその香りの名を呼べば、わずかに息を呑む音が聞こえた。


「……まあ、いいだろう。セリ、何かあれば鬼を頼れ」

「は? 帰るまではあなたが私を見てくれるんですよね? まさか人任せにしませんよね?」

「すまんな、私は忙しいのだ。まあ、一日に必ず一度は帰ってきてやるから安心しろ」

「はあ?」


 可能な限り低い声でそう言えば、男は楽しそうに笑うのだった。



 + + + + +



「ここが椿の間――今日から暫くはお前の部屋だ。地上に帰るまでの三日三晩はここで過ごせ。そして、ここから絶対に出てはいけないぞ。私は仕事柄、恨みを買いやすいのでな。セリがここにいると分かれば、お前は一瞬で化け物の胃の中におさまるだろう」


 何やら恐ろしいことを言われたが、引きこもるのは得意である。

 それに約束事は基本的には守るタイプなので安心してほしい。


「そうだ、目隠しは新しいのをやろう。ほら、目を閉じなさい。今から布を取るからな。絶対に目を開けるなよ。いいな。私が布を巻き直して、良しというまで絶対にだぞ」

「はいはい」

「はい、は一回までにしろ」

「承知」

「……お前……まあ、よいか」


 畳の上に降ろされてアヒル座りのまま、声の方へと顔を上げる。

 たぶん、この辺に視線をやれば男と――いや、白檀と目があっているはずだ。


「…………」


 気配もなく、音もなく。


「……白檀、いますか?」

「……は? ああ、まあ……」

「や、ちょ……急に静かになるのやめてくれませんか。私、今、目が見えないんだってば」

「おお、なんとも恐れ知らずな……なぜすぐ私に噛みつくのだ。まったく、こんなチンチクリンに手を焼いていると知れば、あのお方などは面白がって毎日来るだろうな」


 ため息をついた白檀は私の頭の後ろに手をやると、小さく「片手で潰せるほどに小さいな」とつぶやく。

 本気を感じて身動ぎしながら避けようとすれば、慌てたように私の背を抱え込んで「逃げるな。地獄が見えてしまうぞ」と言い、もう片方の手で布のなくなった私の目を覆った。


「冷たっ」

「冷たいか。悪いな。しばし待て」


 反射的に、私はそのひんやりと冷たい手に自分の手を重ねた。その瞬間その手は逃げようとしてビクリと動くが、すぐに動くのをやめる。


「……なんだ」

「ホッカイロ」


 鼻で笑ったようなシュッという空気が抜ける音を聞いて、私の口角はわずかに上がった。

 きっと手が温かくなったことなどないのだろう。冷え性の私にはそれが随分としんどいことであると理解できる。私も手は冷たい方だが、その私よりも手が冷たいのだから多少は手が温かいとはどういうことかを知ることができたはずだ。

 そうすれば白檀だって、手を温めようと思うはず。二度と私を冷たい手で触ろうなどと思わないだろう。


「……いいか、セリ。この布は私の力が込められた特別な布だ。私以外ははずすことができんが、残念なことにこの力は地獄にいるモノにしか及ばない」

「それで問題はないのではないですか? ここは地獄なんですから」

「あるのだ。セリ、お前はこの布をはずせる」

「それこそ問題ないでしょう。私は基本的に約束を守るタイプですよ」

「セリ、よく聞きなさい」


 馬鹿な子に言い聞かせるように、猫なで声で白檀が喋る。


「お菓子をやると言われてもついていくなと人の親が言うが、同じことを私も言おう。誰かがお前に交渉を持ちかけて布をはずせと言っても、決して布をはずすなよ」

「ははっ……もしかして馬鹿にしていますか?」


 言い忘れていたが、私は結構、喧嘩っ早い自覚がある。

 脳内の喧嘩っ早い担当の私が、この白檀のありがたい忠告を「喧嘩を売られたぞ」と受け取った。


「ご安心を。例えあなたの命と引き換えだったとしても、私は絶対に!ぜっ……たいに!! 誰かの命令でこの布を外すようなことはしません」


 しかしそれを察せられてはいけない。

 顔が引きつるのを堪えながらかろうじてそう言えば、遥か上の方からス~っと息を吸い込む音がした。


「……まあ、いいだろう」


 望んだ回答をしたはずなのに、相手は訝しげである。


「セリ、今は丑の刻だ。ここに布団を敷かせたからな。よく寝て、明日の朝から三日三晩だ。わかったな? ああ、そうだ。ここは地獄だが安心しろ。ここには特別な結界が張ってあるから誰も来ない。他に聞きたいことや言いたいことはあるか?」


 小さい子じゃないんですからという悪態を飲み込み、私はお願いしたいことを思い出して神妙そうな顔を作った。


「寝る前に、ひとつ――いや、ふたつお願いが」

「なんだ?」

「トイレに連れて行ってほしいです。あと、ご飯を食べそこねているので、できれば小腹が満たせるものをください。ついでに寝る前は歯磨きをしたいし、服も着替えたいタイプです」

「…………」


 その後、今まで生きた人間に出会ったことのない白檀が、生きた人間の生態を記した本を片手にトイレの中まで連れて行き、幼児にするようにトイレをさせようとしたり、わざわざ口に握り飯を入れようとしてきたりするのを全てを諦めさせるのに、私がどれほど苦労したか――……

 恐らく、誰もわからないだろう。



 + + + + +



「ええ~!? あの処刑官様が!? それは愛情を持って世話をされているじゃないですかあ~! ゲロゲロ!」


 地獄生活、一日目。

 何故か羨ましそうに言われ、湿った何かで足を叩かれる。恐らくはカエルの手だ。

 目覚めた瞬間にこの手で顔を触られていたのは記憶に新しい。彼は人の体温を知らなかったようで、温かい私に触れたときに熱があるのだと勘違いしてオロオロしていたため、これが私の健康的な体温だと納得させるのに随分と苦労した。


「おや、やはり生きた人間というのは体温が高いですねぇ。アタシには熱いくらいだ」

「そう? カエルさんから離れたほうが良いですか?」

「いやいや、そこまで気遣わなくたって大丈夫ですよ~。なにせ近くにいないと護衛役ができないですしね。ゲロゲロ」


 ところで彼は自らをカエルの精だと言っているが、私は頭頂部と思われる部分に毛が生えているのを知ってから、カエルではないんだろうなと薄っすら思い始めている。


「カエルさんって強いんですか?」

「牛車に轢かれたら一発であの世行きですね。ゲロゲロ」


 なるほど、随分と弱い護衛役である。


「でも呪術の腕前は地獄一なので、問題なく護衛できるんですよ~ゲロゲロ!」

「……へえ」


 果たして本当なのか怪しいが。

 実はこのカエル、私の胸元くらいに頭頂部がある小さめのカエルながら、一生懸命自分よりもでかい私の身の回りを世話してくれている。

 親切にしてもらっておいてあれだが、私の中ではイキった小学生の従兄弟と同じレベルの扱いだ。なにせ可愛い。すぐ天狗になるし、すぐイキるのだもの。


「あっ! 信じておられないでしょう!」

「いやいやいや……ふふっ」

「セリ様! 信じておられないでしょう!」

「そんなことないですって。へっへっへ」


 そう戯れていたときのことだった。


「へ~。これが生きた人間かあ。あったけ~」

「うわあー!?」


 首に手が回され、心臓が口から飛び出るほど驚いた。


「なんと! 荒川の君、どうやってここに!」


 どうもイレギュラーな客らしい。布がなければ、驚きでまん丸になった私の目を晒すところだった。


「ねえねえ、抱っこしていい?」


 驚きすぎて声が出ず、ただ首を横に振る。


「ええ~? 駄目? どうしても? じゃあ……甘噛は? ああ、大丈夫。食いちぎりゃしねぇよ。ちょっと味見……いや、歯ごたえを確認するだけ。な?」


 何度も首を横に振って、顔をひきつらせながら後ずさった。

 しかし目が見えていない私が逃げられるはずもなく、私は手をつかまれてガブリと食いつかれた。


「えっ!? うわ、甘ぇ!! しかも、すげぇ良い香り……」

「いった!! やめて! 噛まないで!!」

「ななな、なんてことをなさるんですか! 手を離してください!!」


 ドタバタと暴れるような音がして、次にペチンと何かが地面に叩きつけられる音がする。まさかカエルがやられてしまったのかと青くなれば、男はガブガブと何度も私の手を噛みながら楽しそうに笑った。


「そんなに強く噛んじゃいねーよお。でもさ……返事次第では痛くするぜ?」

「へ、返事……!?」

「俺について来てくれない? 自分の意志で」

「い、痛っ……だだ、誰が行くもんか! びゃ、白檀が、誰かに、ついていくのは、駄目って言ったから行かない! あとお前嫌い!」

「白檀? お前、処刑官の旦那のこと白檀って呼んでんの!?」


 わずかに大きくなった声に戦々恐々としながらも頷けば、目の前にいるらしい男は大きな笑い声を上げた。


「あははははは!! やべぇ~! それを許してんのがやべぇ~!! うわっ、処刑官の旦那のことを慕っている女達に教えてやろ! あはは!」

「そんなことをしてみろ。明日処刑されるのはお前だ」


 底冷えのする恐ろしい声。

 そのたった一言で、部屋の空気が凍った。


「……あ、ああ~~~旦那ぁ……オカエリナサイ……早いっすね」

「一体どこから噂が漏れたのか知らんが、よもやこれを盗みに来たわけじゃあるまいな?」

「いや、旦那のものを盗もうとするやつなんかいないっしょ!」

『そうか、ならば――今すぐ帰れ』


 脳に響く気味の悪い声。

 ガラガラとしたそれはどこから聞こえてくるのか。いや、流れ的には間違いなく白檀だろうが。

 ただ、その声のあまりの恐ろしさに腰が抜け、私は畳の上にへたり込む。


「おお、これはいかん」


 聞き覚えのある軽い声がして、私の額に何かが突きつけられた。

 短い呪文のようなものとともに、先程までの恐怖心がスッと消えていく。


「人間にはキツすぎたな。すまない、セリ」

「いやいや、どこが! 人間だけじゃなくて地獄のモノだって裸足で逃げ出しますよ! 見てください、あの鬼の逃げっぷりを!!」


 ――ああ、カエルの声だ。よかった、無事だったのか……


「でもお前、助かっただろう?」

「それは……まあ……アタシ一匹じゃちょっと手こずったでしょうから。あのクソ悪党」


 私の腕を噛んだモノは鬼で、今はいないらしい。わあわあと言うカエルの話を聞きながら、震えながら長く息を吐いた。


「大方、昨日屋敷に入るところを誰かが見たのだろうな。私は色んなモノに恨みを買っているから、この情報はさぞ高く売れただろう」

「早く帰してあげられればいいんですけど、そうもいかないですからね……可哀想な生きた人間様。ああ……泣いてなさる」

「は?」


 驚いたような白檀の声と、私の思考が一致する。

 泣いている? 私が、だろうか。そう思って頬に伸ばした手は、思ったよりも濡れていた。


「怖かったのか?」

「……たぶん、ちょっと」


 絞り出した声は情けなく、頭の上から降ってきた「ああ、なんということだセリ」という白檀の声に、私の感情はとうとう決壊したらしい。


「うっ……うっ……」

「セリ?」

「うわーーーーーーーーん!!」

「うるさっ」


 誰も来ないって言ったのに、入ってくるじゃないか。

 しかも手まで噛まれて、見えないけど血が出たかもしれない。いいや、出ている。だって物凄く痛かった。

 それに鬼なんかの唾液がついてしまって、一体どんなウイルスを持っていることか! このあと私の手は漆を触ったときのように腫れてしまうに違いない。

 ――と、混乱から泣きわめいて、目の前にいるであろう白檀に拳で殴りかかった。


「おお……恐らく必死で殴ったのだろうが、全然痛くない……人間のなんと弱いこと」

「だから言ったでしょう、生きた人間は死んでいる人間よりも遥かに弱いと! 大体、日頃貴方様だって“死んでいる人間は豆腐のように柔らかい”とおっしゃっているじゃあないですか!」

「これ、カエル。セリの前で言うな」


 なんだか物騒なことを言っているが、兎にも角にも来てもらえて本当に助かった。

 あの鬼は本当にちょっとだけかじってみただけなのかもしれないが、私は絶対に腕一本を失うことになるんだと思った。


「さあ、手を洗おう。鬼の唾液がついたのを放置すれば手が腐る」

「腐る……?」


 喉元まで出かかった「ありがとう」の言葉は消え去り、腫れるどころの騒ぎではないそれに青くなりながら、私は白檀に抱えられて風呂場へと移動するのだった。



 + + + + +



「おはよう、セリ」


 地獄生活、二日目。

 太陽のかわりに朝が来れば光るという電球の明かりを感じ、朝が来たのかと布団の中で背伸びをして深呼吸をした瞬間、誰かにそう言われた私は驚きのあまり飛び上がった。


「落ち着け、私だ」

「だ、だ、だ……!!」

「白檀だ。やめろ、驚きすぎるな。心臓が止まったらどうする。いや……まあ、そのときは私の愛玩人間にするか」


 物騒な台詞を聞いて逆に冷静になる。

 胸元を撫でて自身を落ち着かせながら、大きく深呼吸した。


「……何の用ですかあ?」

「なんだ、昨日まんまと鬼に腕を噛ませたことを根に持っているのか? 許しておくれ、セリ。お前が地上に帰るまでは仕事をしないと決めたからな?」

「……えっ? いや、それはちょっと……私のことは良いので、仕事はちゃんとしたほうがいいですよ」

「なんといじらしい……」


 何か感動したような声で私の頭を撫でるが、正直困っている。

 ただでさえ迷惑をかけているのに、これ以上は迷惑を掛ける訳にはいかない。


「ほら、このようにして私が直々に守ってやるからな。ん? それでいいだろう?」

「でも白檀より偉い人が来たらどうするんですか?」

「それはお前、もちろん私は――」

「そこまで」

「ひっ……!?」


 第三者の声に思わず悲鳴を上げれば、白檀の「やめろ、驚かすな」という静かな怒鳴り声が聞こえた。


「落ち着けセリ。私はお前の心臓がいつか止まってしまうのではないかと心配で、昨日は寝ずの番をしてしまったほどだ。もちろん、お前が悪夢にうなされて心臓が止まるのではないかと心配したが、お前はイビキをかいて――」

「そこまでだと言っているだろうが。話が進まねぇ」


 苛ついたような声色の後、白檀のため息が聞こえる。


「お前が急に声を出すのがいけないのだ。黙らざるをえない状況にしてやろうか?」

「あと、気味の悪い声を出すな。なんだその猫なで声は。ペットを飼い始めた閻魔大王と同じ声だぞ」

「不愉快だ、一緒にするな」

「お前、不敬だな」


 声の主は「おうおう、疑似太陽灯に温寒石に貴族の使う布団とは。人間飼育に随分と金をかけてやがる」と言いながら鼻で笑う。

 なにやら私の()()にはとんでもない金がかかっているようだと知り、あまりの申し訳無さに「えっ」と声を上げて白檀のいる方を向いた。


「気にするなセリ。飼い主が愛情を込めて飼育をするのは当たり前だ。――ああ、見ろ。この愛らしい生きた人間を。ははっ、またいらんことを考えているような顔をしている」

「わからんな。人間なんざ毎日嫌になるほど見ているだろうが」

「あれらと一緒にするな。魂は濁り、無表情で血色が悪く、うつむいて歩き一言も喋らないあれと比べるとは……何と愚かな教養のない男よ。生きている人間は良いぞ。毎秒表情が変わるし、温かいし、柔らかいし……何より良い匂いがする」


 そう言って私の首筋に鼻を埋め、スンスンとニオイをかぐ。


「いやっ、ちょ……やめて!」


 思いっきり腕を振り上げれば何かに手があたったが、男達は一瞬黙ったかと思うと馬鹿笑いをしはじめた。


「何だ、今の! 弱っ」

「ふふ……可愛いだろう。これで殴っているつもりなのだ」

「今のはちょっと可愛かった」

「そうだろう、そうだろう」


 何だこの扱いは。

 馬鹿にされている。

 私は本当に嫌な思いをしたのに、この男達にはそれが伝わっていない。


「ん? どうした、セ――おい、セリ!」


 私は付けてもらった目隠しを取って地面に叩きつけ、目をつぶったまま走り出す。


「こら! 待て、セリ!」

「うるさいバーカ! 嫌い!」

「えっ……あ、こら! 戻りなさい!!」


 目が見えなくても、壁の位置を感じることはできた。普段なら絶対にできなかったが、地獄の壁はなぜか生きているように気配を感じられるのだ。初めはそれを怖いと思っていたものの、何度もトイレに行くときに歩いてみれば、誰かの世話にならずとも歩ける道標として役に立った。

 その経験から覚えた屋敷の地図。

 頭に浮かべた通りに走り、外の風が通り抜ける長い廊下まで来たときのことだ。


「セリ!!」

「グエッ」


 胴体に絡みつく太い手。

 それに胴体を引きちぎられるほど握りしめられ、私の意識は一瞬にして落ちた。



 + + + + +



「ねえ~? これ本当に生きているのかしら?」

「生きているだろうよ。だから触ると温かいじゃないか」

「まあ……そうねぇ……ふーん。これが生きた人間なのねぇ。なんか甘い匂いがする……」


 ぼんやりと意識が回復していく中で聞こえてきたのは、女の人と男の人の声だった。目を開けようとして「あ、目を開けたら駄目なんだった」と思い直しギュッと力を込める。


「……ねえ、これを連れてくるときにあんたがさあ……その……お腹をギュッとしたらグエッて言ったでしょう?」

「そうか?」

「そうよ。それでこれ……死んだんじゃない? ほら、人間って柔らかいから。昨日から全然動かないし、可能性あるわよ」


 静まり返る室内。確かに苦しくはあったが死ぬほどではない。しかしそれを言ってやる義理もないので、私はただ黙って目を閉じていた。

 ここまでくれば流石に私だってわかる。私のバカみたいな怒りのせいで誘拐されたのだと。

 今が何時かわからないが、少なくとも誘拐される前までに二日は経っていた。私は地獄で三日間を過ごせばよかったのに、最後の最後で人間らしく怒りに支配されて衝動のまま間抜けなことをしてしまったというわけだ。


「……息はしているようだぞ。温かいし」

「死ぬ前だって息はするし、肉は温かいわよ」

「なら、どうするんだよ。もうすぐ死ぬんだとして、そうしたら交渉材料には使えなくなるじゃないか」


 困ったわね、と呟く女の人の声。しかしそれはすぐに楽しげな声色に変わった。


「じゃあさ、私達で食べない? 生きた人間って食べたことないでしょう?」


 は?

 今なんと……


「そんなことをしたらお前……さすがに殺されるぞ」


 そうだそうだ、そんな物騒な考えは捨ててしまえ。

 誰かわからない男の人を応援しつつ、私は何度も頷きたいのを堪えて静かに深呼吸をした。


「大丈夫よ。死んだらどのみち交渉材料にはならないんだから、体があろうがなかろうが同じよ。大体、あの自分以外のことにはまるで興味を示さない処刑官が、本気で人間なんかを可愛がると思う? 今頃とっくに飽きているわよ」


 ――まあ、確かにそうだ。

 私はつい勘違いをしていたが、白檀と私が過ごしたのはたったの二日。しかも仕事で忙しいようでほとんど会っていないのに……私のことなんか、もうとっくに忘れてしまっているに違いない。

 ……それに、最後は喧嘩をしてしまったし。

 あーあ、私の命もここまでか。まあ、本当に地獄から生きて帰れるのかと心のどこかで疑ってはいたけども。


「うーん……なら――」


 でも、じゃあさ。

 もう、このあと食われて死ぬんだったら……私が何をしてもいいよな?


「食うか、この人間」


 開けるなと言われた目を開ければ、宴会会場と見間違えるほど広い和室。赤、黒、金の派手な色が目に飛び込んでくる。

 薄暗い部屋の明かりは行灯だけだろうか。チラチラと揺れる畳の上の二つの影は、頭に角と思われるものが伸びていた。なるほど、絵に描いたような鬼だ。


「でしょ? そうしましょう! 私、生きた人間を食べられる日がくるなんて思ってもいなかったわ~」


 襖には極楽浄土の絵が描かれ、地獄の襖に極楽浄土の絵を描くセンスに顔を歪ませながら、ちょっと離れた場所に置いてある行灯を見つめた。

 ひとつ深呼吸をして一気に駆け出し、明るく輝く行灯を抱えあげる。


「あら……まだ元気じゃない、この人間」


 震える手で行灯を前に突き出せば、声からは想像もつかないようなおぞましい見た目の鬼が二人立っているのが見えた。

 今まで見たこともないほど恐ろしい姿。こんな恐ろしいものが存在したのかと思うほどで、恐怖から思わず膝が笑う。


「その行灯……どうするの? 震えちゃって可愛いのねぇ」


 ずきりと目に鋭い痛みが走り、視界がぐわりと揺れた。次の瞬間には脈打つように視界が揺れる。


「は? なんだ、こいつの目……」

「なんか今までに見た人間の目と違う……? え、どうして目から血が出ているの? 人間って怖いと目から血が出るの?」

「――人間にだって」

「喋った。なんか変な声」


 行頭の下から取り出した油を頭から被る。パッと頭が暖かくなり、やがて強烈な痛みが走る。


「は? 人間って火がついても生きていられるんだっけ?」

「人間にだってプライドはある!! 鬼に食べられるくらいなら! 白檀に食われる方が遥かにマシ!!」

「え、どういう……は? ちょちょ、ちょっと!?」


 また走り出し、行灯をつかんで油をかぶる。パッと肩に火がついた。

 また走って次の行灯の油をかぶり、今度は腹に火がついた。さらに次の行灯を取るべく走り出した瞬間、私の目がバチンと音を立てて感じたことのないような痛みが走る。


「あああああああ!!」


 立っていられずに転がれば、畳に火が移り広がっていった。


「痛い……! 痛いぃぃぃぃ!!」

「なにするのよ!! 家が……! 私の家!」


 そうか、目が弾けるとはこのことだったのかと思い出す。あの布って本当に効果があったんだという間の抜けた感想を、痛みが容赦なく上塗りしていった。


「やだ……もうやだ痛い……」


 目が痛い。炎で焼かれていく皮膚が痛い。地獄の亡者はこれを何年も繰り返さないといけないのか。それほどの罪を犯したのだろうけど、あまりにも辛い。


「この人間……! 私の家に火をつけやがった!! こいつ! こいつ!!」

「よせ、近づくな! こいつなんかおかしいぞ! それに生きている人間ならばどうせすぐ死ぬ。それよりも――」

「うるさい、離して! 人間ごときが私の家を――え?」


 永遠に地獄が続くのかと思われたその時、室内なのに突風が吹いた。


「セリ」


 それは懐かしいような白檀の香り。

 白檀の声だ。間違えるはずもない。

 返事をしたかったが、目も皮膚も……全てが痛くて声が出ない。それとも声帯が焼けてしまったのだろうか。


「さすがに私も焦げた肉は食えんのだが」


 なんとかこの痛いのを消してほしい。

 そう言ったのに、その声は音にならなかった。

 しかしそれは正しく白檀に伝わったようで、小さく「心得た」と呟いた白檀が氷のように冷たい手で私に触った。


「はは、私の冷たい手も役に立ったようだ」

「……う……うう……」


 ありがとう、と言ったつもりだった。多分伝わっただろう。


「セリ、お前……まあ、その小さい頭では理解できなかったかもしれんが、私は結構お前のことを可愛がっていたつもりだったのだが」


 そうなんだ、と思った次の瞬間には眠気が襲ってきた。

 痛みが消えた今、私が感じられるのは白檀の香りと眠気だけ。


「さて、困ったことになった。可愛がっていた愛玩人間だったが……なぜこうなってしまったのだろうな」


 じっとりと重い空気が部屋を包む。ただ私はそんなことよりも、眠くて眠くてたまらず浅い呼吸になっていく。


「おい、そこの」

「ひっ……お許し――」


 どたん、と重いものが畳に落ちた音がした。


「ああ、すまんな。声をかけるつもりが間違えて首を落としてしまったようだ。うーむ。では――おい、お前」

「もも、も、申し訳ございませんでした。どうか……! 平に……平に、ご容赦ください!! 決して悪意はなく、ただ私は――」


 また重いものが落ちる音。


「おや、また勝手に手が動いてしまった。まあ、鬼の間でも盗人は犯罪であるからな。殺しても問題はあるまい」


 ふわりと生臭い空気が一瞬私を襲ったが、すぐにそれは浮遊感とともに白檀の香りで上塗りされた。


「おい、カエル」

「は、はい!」

「屋敷ごと燃やしておけ。食いたければ食ってよい」

「合点承知!」


 ゆらゆら揺れる体と意識。一人分の足音と、二人分の絹を引き裂くような悲鳴。それが何かわからなかったが、ややして鬼は首を落としても生きていられるのかと納得した。


「セリ」


 返事をしたつもりが、ただ掠れた空気が口から出ただけになってしまう。それは音にもならなかったが、白檀は気にしていないようだった。


「お前、私にバーカと言うだけではなく、嫌いなどと……傷ついたぞ」


 そうなんだ……ごめんね。


「あやつら随分と遠くに飛んだようでな。さすがの私も駆けつけるのが遅れてしまった。すまない」


 大丈夫、来てくれてありがとう。


「知っているか、セリ」


 なに?


「自害は重罪だ。親より先に死ぬのも重罪だ」


 ……それは……さきに、いってほしかったかな。


「全くお前は……まあ、でもそうか。お前は臆せず私のことを殴るしな。怖い物知らずなのを忘れていた私に非がある」


 みえないものが、こわい、わけ……ないでしょう。


「相変わらず生意気なことだ。仕方がないな。今回は特別である。お前は本来ならば重罪なので地獄行きだが……今回は私に非があるという事にしてやろう。ああ、気にするな。閻魔大王の弱みのひとつやふたつ、知らぬ訳ではないしな。説得してやる」


 ……どういう、いみ……?


「お前をただの地獄行きの亡者ではなく、処刑官の中でも最も偉いこの私が、お前を愛玩亡者として迎えてやるという意味だ」


……なんか……や……だな……


「こら、喜ばんか。まあでも、お前のそういうところを気に入っているのだが」


 あ……りが……


「さて――となると、この肉体はもういらんなあ。ああ、焦げたのは表面だけか。実に良い香りがする……おい、セリ。体から抜けたら、しばらくそこで浮かんで休んでいろ。大丈夫だ――これほど小さければ、すぐに食い終わる」


 その言葉と同時に、私の首からバキリと鈍い音がした。

「目が覚めたら、またその生意気な声で呼んでおくれ――白檀と」

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― 新着の感想 ―
お帰りなさい!! 新作ありがとうございます!! どうなるんだろうと思ったらまさかの展開の連続で夢中で読んでしまいました! 愛玩○○!!とても良い響きです!! (一応伏せ字にします)
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