『盤上の再配置 ― 黎明の刃、北西を統べる』
王都・地下深く――紅の回廊。
血のような光が石壁を染め、天井を埋め尽くす無数の蝙蝠が息づいていた。
その中心で、ルカは玉座のような椅子に腰掛けていた。
黒の衣に包まれた細い指先が、魔導書の上を静かになぞる。
通信魔法の水鏡に、宰相オルヴィンの像が揺らめいた。
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「……西方の動き、完全に沈静化しました。」
オルヴィンの声は低く、安堵を含んでいた。
ルカは瞳を細めて微笑む。
「ええ。西はもう問題ありません。
噂の“風”は、目的を果たしました。
小国家の人間の間に、疑いと誇りが交錯する……。それで十分です。」
「侵攻の恐れは?」
「ありません。」
ルカは軽く首を振った。
「荒野の国々は互いに牽制し、誰も国境を越えようとはしない。
――西は沈黙のまま、動かぬ“緩衝地帯”になるでしょう。」
彼女の声は穏やかだが、その言葉の裏にあるのは明確な支配。
ルカはただ“風”を吹かせただけで、一帯の戦火を封じていた。
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だが、表情がすぐに冷えた。
「……問題は北。」
水鏡越しに、オルヴィンの眉がわずかに動く。
「北方山脈――氷門の周辺は、いまだ瘴気の波が安定しておりません。
獣人族が森の境を越えつつあるとの報告もあります。」
「ええ。」ルカは椅子から立ち上がり、指を鳴らした。
闇の中から、蝙蝠の群れが飛び出す。
その影が壁に映し出し、やがてひとつの光景を浮かび上がらせた。
――吹雪舞う北西の地、ヴァルクレスト辺境。
雪原の中に新たな陣営が築かれ、鎧に身を包んだ女性が指揮を執っていた。
「第四位――〈黎明の刃〉ミレーヌ。
彼女が、予定より早く到着しました。」
ルカの唇がゆるやかに弧を描く。
「元ダリオス軍の残兵――黒槍騎団の一部を含む兵も、
全て彼女の指揮下に入ったわ。」
オルヴィンの目が見開かれる。
「つまり、ダリオスが築いた防衛線を、ミレーヌが受け継いだ……!」
「ええ。正式な王命を出す前に、もう“事実”が先に動いているのです。」
ルカの瞳が妖しく輝いた。
「彼女は自ら望んで前線に立った。
“剣を振るうのは、守るためだけに”――
その信念は、王国の光にふさわしい。」
蝙蝠の群れが再び壁を包み、映像が霧のように消える。
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オルヴィンが静かに口を開く。
「……だが、北の獣人族はあなたの眷属の目が届かぬ領域。
彼らは血と誇りで動く。噂も理も届かない。」
「その通り。」
ルカはゆっくりと頷いた。
「だからこそ、“剣”を置いたのです。
理では届かぬ者たちに、言葉ではなく刃で“境界”を示す。
それが、黎明の刃――ミレーヌの役割。」
「北を任せるには、彼女ほどの将は他にいませんな。」
「ええ。彼女は“夜明けの剣”。
闇に呑まれかけた地を照らす光。
――そしてその光は、私の影を強くしてくれる。」
ルカの声は微笑みの中に、どこか艶やかで不気味な響きを帯びていた。
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紅の回廊が静まる。
オルヴィンが最後に問う。
「……あなたは本当に、“均衡”を望んでいるのですか? それとも――混沌を?」
ルカは振り返らずに答えた。
「混沌のない世界に、均衡など生まれません。」
その言葉とともに、蝙蝠たちが一斉に飛び立つ。
紅の光が渦を巻き、ルカの姿を包み込んだ。
「西は眠り、北は覚醒し、東は祈りの森。
残るは――氷の門。」
彼女の声が闇に消える。
その夜、ルカの眷属たちは吹雪の中で新たな命令を受け、
ミレーヌ率いる北西防衛陣の上空を、静かに旋回していた。




