聖樹の涙 ― 闇に囚われた光
聖樹の根の洞。
その奥に鎮座する透明な結晶――“聖樹の涙”。
かつて森と王国をつなぐ命の核と呼ばれたそれは、今や黒い瘴気に包まれて脈動していた。
アリアが手を翳して囁く。
「この瘴気……ただの影晶ではありません。
構成魔素が北方のものです。
おそらく、山岳国家群よりもさらに北――“氷の荒野”の魔族たち。」
クラリスが警戒を強める。
「魔族が……こんなところまで入り込んで?」
ノエルが静かに応じた。
「群れではなく、個体で動いているのだ。
北方山脈の主――古竜アズラリオンが健在な限り、大軍は越えられん。
だが、少数の魔族なら、瘴気の裂け目を伝って潜り込める。」
セリオが息を詰めて辺りを見回す。
「じゃあ……この森がその裂け目のひとつなんですね……。」
ノエルが頷く。
「その通りだ。
封印を破り、瘴気の道を作れば、魔界と地上が再び繋がる。」
アリアの声が震える。
「誰かが……この“聖樹”を媒介にして、門をこじ開けようとしてる……。」
その瞬間、結晶の内部が脈動し、空間に亀裂が走った。
黒い霧が溢れ、人影のようなものが立ち上がる。
「――来たか、光の継承者。」
その声は、凍るように冷たい。
「人はまた、愚かにも封を弄んだ。」
クラリスが剣を構える。
「あなたは……何者!?」
「名はない。我らは“北の虚界”の残り火――古の神々の影。」
霧の男が嗤った。
「お前たちが封じた“悪魔王”の血脈、その根は北方にある。
その流れを我らが継ぐ。」
ノエルの瞳が光を帯びる。
「ならば――断たねばならん。」
蒼光が閃く。剣が霧を裂くが、影は形を変えて再生する。
アリアが叫ぶ。
「だめです! 直接斬っても霧状の魔素に戻るだけ!
封印核の中に“魂の残響”が残ってます、そこを守らないと!」
「魂……?」
クラリスが驚く間に、セリオが額を押さえ、震える声を漏らした。
「見える……中に……光る人影が……!」
ノエルが顔を上げる。
「それは……!」
結晶が光を放つ。
霧の中から、淡い金の光が浮かび上がり、女性の姿を結ぶ。
白銀の鎧に、優しい微笑。
声は懐かしく、どこか儚い。
『――レオン様。』
ノエルが息を呑む。
「……セリア……?」
クラリスもアリアも驚いて動きを止めた。
だがその姿は肉体ではなく、淡い光の残響――
まるで祈りの記憶が、奇跡のように形をとったかのようだった。
『私は……ここに魂を残しました。
かつて貴方が封印を施した時、この“聖樹”が私を受け入れてくれたのです。
けれど、今……外から闇が流れ込み、封印を食い破ろうとしています。』
ノエルの表情が曇る。
「……北方の魔族の仕業か。」
『ええ。
彼らは“門”を探しています。
地上と魔界をつなぐ、導線――それがこの森。
私たちはそれを守ってきましたが、力が尽きようとしています。』
黒霧が再び膨張し、声が轟く。
「人の残滓が吠えるか。哀れだ。
封印も祈りも、時が喰らう。」
ノエルが前へ出た。
「ならば、もう一度封ずるだけだ。」
蒼光が炸裂し、空間を貫く。
影と光が激突し、洞窟全体が震える。
アリアが詠唱を始めた。
「――《封環術式・ルーメンアーク》!」
彼女の魔法陣が展開し、黒霧の流れを束ねる。
セリオが目を見開き、声を上げた。
「旦那様、今です! “涙”の中心が開いてる!」
ノエルが剣を掲げ、光を放つ。
「セリア、もう一度、力を貸してくれ!」
『……いつでも、レオン様と共に。』
光が走り、闇を裂いた。
霧は悲鳴を上げながら崩壊し、結晶の中に吸い込まれていく。
やがて静寂が訪れる。
聖樹の涙は、再び淡い光を放ち始めた。
ノエルが剣を収め、静かに呟く。
「……ありがとう、セリア。」
結晶の中の光が微かに揺れ、消える前に囁いた。
『――光はまだ……ここにあります。』
森の奥から風が吹き抜けた。
腐敗の匂いは薄れ、わずかに緑の息吹が戻る。
アリアが息をつく。
「北の魔族が動き出している……王国の防壁を越えて、個別に侵入しているようです。」
ノエルが頷く。
「古竜アズラリオンが沈黙している今、奴らは“影の門”を開こうとしている。
これより我らは北へ向かう――聖樹を越え、その真実を確かめる。」




