誘拐の夜、鳴り響く鐘
夕暮れの王都アルシオン。 アークライト邸の庭園での茶会を終え、友人たちを見送ったイリスは、邸宅内の別棟から本邸へ戻るため、専用の馬車に乗り込んだ。 石畳を滑る車輪の音とともに、屋敷の敷地を横切り、城下へ続く門へと進んでいく。
馬車の外では、護衛の騎士数名が並走していた。 窓から見える王都の街並みは暮れなずむ空に染められ、静けさの中に黄金色の光を放っていた。
イリスは膝に本を抱きながら、茶会で交わした話題を思い返す。 (……英雄たちの物語は、もうおとぎ話に過ぎない。 けれど、私たちはその後を生きている。責務を果たさねばならない――)
その瞬間――。 邸宅の門前、影が路地から飛び出した。黒い外套をまとった数人の男たち。
「止まれ!」 御者が叫ぶより早く、閃光が走った。 護衛騎士の一人が胸を押さえ、石畳に崩れ落ちる。刃には黒い結晶が埋め込まれていた。
「っ! 伏せろ、令嬢!」 叫びと同時に、馬車の扉が乱暴に開かれる。 黒布で顔を覆った男たちが雪崩れ込み、冷たい手がイリスの肩を押さえつけた。
「静かにしろ……“英雄の血”よ。」
耳元で低い声が囁く。 黒い護符が目の前に翳され、ぞわりと悪寒が走る。 護衛の叫び、剣戟の音、馬の嘶き――すべてが渦の中に呑み込まれていった。
視界が闇に閉ざされる直前、イリスの耳に狂信者の祈りが届く。
「……影に還れ。光は偽りなり……」
こうして、華やかな王都の花は影に奪われた。 そしてこの誘拐劇は、王都全体を揺るがす大事件へと発展していく――。
夜半、急を告げる鐘が鳴り響く。 アークライト家の私兵たちが慌ただしく動き、邸内の空気は張り詰めていた。
「……イリスが、攫われたと……?」 報告を受けたセオドリックは、重い沈黙の後に低く言葉を絞り出した。 その銀髪の当主の瞳には、父としての動揺が一瞬だけ宿った。 だが、すぐに厳格な領主の顔に戻る。
「直ちに評議会を招集せよ。 ――これは一つの家の問題ではない。王都全体の危機だ。」
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