黒の牢獄 ― 忠義の残響
……闇の中で、水滴が落ちる音が響いていた。
規則正しいその音が、永遠にも感じられる沈黙を刻んでいる。
ゲルハルト・ヴァーンは、冷たい石床の上で目を覚ました。
腕は鎖に繋がれ、身体の至る所に包帯が巻かれている。
痛みよりも先に、皮膚の下を這うような“瘴気の疼き”を感じた。
「……ここは……どこだ。」
喉の奥が焼けつく。声は掠れ、口の中に血の味が広がる。
周囲には灯もなく、闇の向こうにぼんやりと浮かぶ魔法陣の紋様だけが、
冷たい青の光を放っていた。
その時、遠くから足音が近づく。
「目を覚ましたか。
辺境の獣も、少しは人の姿を保てるようだな。」
声の主は、仮面ではなく、白衣をまとった長身の男だった。
背には黒い翼のような瘴気を背負い、その瞳は薄氷のように光る。
「……貴様……教団の……」
「“影導師アゼル”。名は覚えなくていい。
お前はもうすぐ、“主”のための器になるのだからな。」
ゲルハルトは鎖を引きちぎろうとするが、
魔法陣の光が反応し、全身に激痛が走る。
「ぐ……っ!」
アゼルは愉快そうに笑った。
「やはり、辺境伯の副官だけはあるな。
耐久力も、意志も……人としては上等だ。」
「……ダリオス殿下は……どこだ……!」
「お前の主か? ふふ……生きているさ。
もっとも、長くはもたぬがな。」
アゼルが指を鳴らすと、側にいた信徒が巻物を広げた。
魔力で投影された地図が浮かび上がる――王国北西の地形図。
「貴様ら……何を企んでいる……」
アゼルは冷ややかに言った。
「この三日後。
お前の殿下は、我らの“本拠”を攻めるつもりだそうだ。」
「……何?」
「もちろん、そこに本拠などない。」
アゼルは口角を歪める。
「我らが流した偽情報だ。
奴はその餌に食いつき、残った兵をかき集めて進軍を決定した。
この腐りかけた国を“影”で再建するなどと戯言を吐きながらな。」
ゲルハルトの瞳が大きく見開かれる。
「……貴様ら……! それでは――!」
「そうだ。
奴は“空の砦”を攻める途中で、影晶に覆われた地獄の谷に踏み入る。
そこに、我らの“神罠陣”がある。
殿下の瘴気を媒介にして、“影の主”を呼び戻すのだ。」
アゼルの声が冷たい笑いに変わる。
「皮肉なものだな。
あの男は、己の野望で“神”を生み出す器になる。」
ゲルハルトは鎖を握りしめ、歯を食いしばる。
(殿下……それでは……貴方は……!)
頭の中に、まだ記憶が鮮明に残っている。
三千の兵を率い、最期まで立ち続けたあの夜。
燃え落ちる陣幕の中で、自分の名を呼んだ主の声。
「――ゲルハルト、我と共に進め。」
忠義は死んでいなかった。
たとえ主が狂気に堕ちようと、護るべきは“誇り”そのもの。
「……殿下は……人だ……!
貴様らの糧になどさせるものかッ!」
鎖が軋み、魔法陣が閃光を放つ。
アゼルはその光を見て、くすりと笑った。
「いい。
その怒りを憎悪に変えろ。
いずれお前自身が、“影”の忠臣になる。」
そのまま背を向け、静かに言い残した。
「……せいぜい夢を見ていろ。
この世に“主君”など存在しない。
あるのは、“力”だけだ。」
扉が閉まり、再び闇と静寂が戻る。
ゲルハルトは床に伏せ、息を荒げながら囁いた。
「……殿下……どうか……
貴方だけは……この罠に……」
鉄の鎖が血で染まり、滴が石床に落ちた。
その音は、まるで時を告げる鐘のように響いた。
――残されたのは、たった一人の忠臣の願い。
だがその願いは、やがて運命を変える“さざ波”となっていく。




