腐蝕の館 ― 沈黙する伯爵邸
辺境伯ダリオス・ヴァルクレストの屋敷。
かつて威厳と秩序に満ちたその邸は、今や病の館と化していた。
重く閉ざされた扉の隙間からは、甘い腐臭が漂う。
カーテンは閉ざされ、陽光は差さない。
壁の装飾は剥げ落ち、柱の根元には黒い染み――瘴気が石に食い込んでいた。
ベッドの上、ダリオスは包帯に覆われた身体を横たえていた。
左腕は完全に失われ、右目も光を失いつつある。
かつて鋭く燃えていた瞳には、いまは鈍い紫黒の光が宿っていた。
扉が静かに開き、一人の兵士が跪く。
灰色の鎧は煤にまみれ、疲労の色が隠せない。
「……辺境伯閣下。
報告を申し上げます。」
ダリオスはゆっくりと首を動かす。
「言え。」
兵士は喉を鳴らし、震える声で続けた。
「三千の兵……生還者は、わずか百十二名。
うち七割が瘴気の侵食により療養不能。
残る者も、まともに剣を握れる者は十にも満ちませぬ。」
沈黙。
部屋の空気が、じわりと冷える。
ダリオスの指先が、包帯の下でわずかに動いた。
「……そうか。」
「辺境の村々は……次々と放棄されております。
大地が黒く腐り、作物も枯れ果て……。
人々は“呪われた地”と呼び、南部へ逃げ出しております。」
「逃げた者は追うな。」
ダリオスの声は掠れていたが、命令の響きは失われていなかった。
「腐った土に根を張る木は枯れる。
だが、腐敗を制する者は“新たな命”を得る。」
兵士は顔を伏せる。
「……ですが、閣下……。
このままでは、辺境伯領は――」
「黙れ。」
低く、鋭い声。
沈黙が走る。
ダリオスはベッド脇の机に置かれた、黒く輝く結晶を見つめた。
“影晶”――神殿で奪われた、禁忌の欠片。
その中で、うごめくように脈打つ光があった。
「……この地は死なぬ。まだ息をしている。
瘴気を恐れる者は去れ。
残る者こそ、私の“新たな軍”の礎となる。」
兵士は震えながら問いかけた。
「ま、まだ戦を……続けるおつもりですか?」
「戦ではない。“選別”だ。」
ダリオスはゆっくりと身体を起こし、包帯の下の瞳を露にした。
そこにはもはや人の色はなかった。
「国も、教団も――どちらも腐っている。
私は“腐敗の王”となり、この国を喰らう。」
兵士の顔から血の気が引く。
それでも、忠誠の言葉を探そうと口を開きかけた。
だがその瞬間、窓の外から風が吹き抜け、蝋燭の火が消えた。
闇の中――机の上の影晶が、淡く脈打った。
ダリオスは笑う。
「見ているか、“影の主”。
私はまだ、貴様に屈していない。」
床の影がわずかに動く。
それは、瘴気が意思を持って蠢いたかのようだった。
兵士は膝をつき、頭を垂れる。
「……御身の御心のままに。」
ダリオスは、静かに右手を上げた。
「辺境に残る砦を再建せよ。
負傷兵の中から、耐えた者を選べ。
彼らこそ、“影を受け入れし兵”となる。」
「……はっ。」
兵士が退室し、扉が閉じる。
再び、静寂。
ただ、闇と瘴気だけがこの屋敷を支配していた。
ダリオスは天を仰ぎ、かすれた声で呟く。
「ゲルハルト……貴様、まだどこかで息をしているか。
ならば見届けろ。
我が“堕落の果て”を。」
外では、遠雷が鳴った。
その音が、まるで闇の胎動のように大地を震わせた。
――こうして、辺境の地はゆっくりと“死の王国”へと変貌を始める。
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