静かなる幕開け
馬車はゆっくりと大通りを抜け、王都の中心広場へと差しかかっていた。
陽光に照らされる石畳の上で、群衆は歓声を上げ、花びらを投げ、祝祭の喧噪に酔いしれている。
その熱気の中――。
群衆に紛れ、ひときわ冷たい眼差しがイリスの姿を追っていた。
他の者たちが憧憬と喜びを目に宿す中、その影は一歩も動かず、ただ静かに口の端を歪める。
誰も気づかぬほど小さく、唇が動いた。
「……影に還れ……」
その囁きは喧騒にかき消され、誰の耳にも届かない。
ただ、男の手の中で握られた黒い護符が、かすかに脈打つように光っていた。
馬車の窓辺にいるイリスは、群衆の熱気を前に微笑を崩さなかった。
だが、その蒼い瞳が一瞬だけ曇る。
(……今、誰かの視線を……?)
気のせいかと思い、彼女はすぐに笑顔を整える。
けれど、その違和感は確かに残っていた。
やがて馬車は広場を抜け、王都の石橋を渡っていく。
人々の歓声が背後に遠ざかると同時に、先ほどの冷たい視線もまた群衆の闇に溶けて消えていた。
しかしそれは――。
やがて王都を揺るがす誘拐劇の、静かなる幕開けであった。
王都の賑わいが収まった頃、アークライト邸の庭園には柔らかな夕陽が差し込んでいた。
整えられたバラのアーチを抜けると、噴水のそばでイリスが本を手にしている。
装いは昼間の華やかなドレスから、落ち着いた淡色の衣へと変わっていた。
彼女はページをめくりながら、侍女に声をかける。
「市場の新しい布の評判はどうかしら?」
「はい、令嬢。南方からの輸入品が人気で、商人たちが大いに取引を……」
イリスは静かに頷く。
(王都の華やかさは、交易や商業に支えられている。けれど、それは同時に脆さでもある……。)
本を閉じ、噴水に映る自分の姿を見つめる。
「私はただの“英雄の血筋”で終わってはいけない。
この国を導く一人として、役に立てる存在にならなくては。」
その瞳には、群衆に微笑んでいた時とは違う、理知的で冷静な光が宿っていた。
だが――。
庭園の外壁の陰では、昼間の群衆に紛れていたあの冷たい影が再び潜んでいた。
黒い護符を握りしめ、彼らは囁く。
「……時は満ちた。影の救済を、あの娘に――」
イリスが気づかぬまま、運命の糸はゆっくりと彼女を捕らえ始めていた。




