堕天薬
天界の神殿。その神の庭。
聖水の吹き上がる豪華な神殿の前に、一匹の天使が座っている。
「神の御心を計ることが出来ないのは道理であるが、今回ばかりは本当に、我が君は私に何をお求めになられているのでしょうか?」
天使の見つめる先、彼自身の手のひらの上には、一粒の錠剤がのせられていた。
直径五ミリメートルほどの、小さな錠剤だ。
白く、中心に神代文字の刻まれたそれは、人間達が病の治療に用いるものとよく似ているように思える。
天使は小首をかしげると、翼を広げ、近くで花を愛でていた同僚のもとにひらりと舞い降りた。
「ねぇ、キミ。ちょっと聞きたい事があるんだけど、今、良いかな?」
「なんだい? 急に。ボクは今、この子の花粉の数を数えるのに忙しいんだ。でもまぁ、少しならかまわないよ」
同僚はその天使に白い瞳を向けた。
その天使もまた、パチリと同僚の瞳を見つめると、手のひらの錠剤を彼に見せた。
「今朝我が君から賜ったんだ。でも、かの御方は、私に何も告げてはくださらない。キミは、これが一体何の薬だか知っているかい?」
同僚はしばしの間、じっと錠剤を見つめていた。
ほどなくして、力なく首を横に振る。
「さぁね。さっぱりだよ。今までに、他に誰かが似たようなものを賜ったって話も、聞いた事が無い」
「そうか……」
その天使は肩を落としうなだれた。
しかし、錠剤は彼の手の中に、しっかりと握られている。
彼を気の毒に思った同僚は、ふと思いついたように、黄金リンゴの木の生える丘の上を指さした。
「あそこで眠っている方が見えるかい?」
「ああとも。あの赤い翼の肩だろう?」
同僚の指さす先。そこでは、きらびやかな装飾の施された剣を携えた、一匹の天使がまどろんでいる。
彼の翼は他の天使達とは違い、神殿に灯された聖火のように赤い。
「あの方は?」
「ミカエル様だ」
同僚の返事は早かった。
彼は指先に水色のチョウをのせ、続ける。
「大天使長様は、時々ああやってリンゴの木の下でお休みになられるんだ。今日のは我が君に悪魔の軍勢を退けたご報告の帰りに、あそこに寄られたらしい。行って、聞いてみてごらんよ。ミカエル様はお優しいから、もしかしたらキミに知恵を分けてくださるかもしれないよ」
彼の言葉に、その天使はふっと顔が明るくなった。
大天使長ならば、自分達のような普通の天使が知らない事についてでも、何か知識を持っているに違いない。
天使は同僚にぺこりとお辞儀をする。
「なるほど、ありがとう。それなら私は、ミカエル様のもとに行ってみる事にするよ」
「うん。それが良い」
そして、彼はミカエルの眠るリンゴの木へと飛び立っていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
降り注ぐ暖かな陽光は、金色に輝くリンゴの実に反射し、癒しの光となって辺りをぼんやりと照らす。
熟れたリンゴからはふんわりと甘い香りが漂い、自然と心が安らぐ。
「もしもし、ミカエル様」
丘の上まで辿り着いた天使は、木の幹に身をもたれ、穏やかな寝息を立てる大天使に、おそるおそる声をかけた。
身じろぎする事も、わずかにうめき声を上げる事すら無く。
それは、さざ波一つ無い凪いだ海のように静かで……
——神の代弁者。その、高潔な瞳。
ミカエルはスゥと目を開くと、真紅の瞳で、じっと目の前の天使を見据えた。
「お休みになられているところ、申し訳ございません」
「……君は?」
「はい。私はしがない泉守りの天使。低位ゆえに、名はありません」
その天使は跪き、ミカエルに向かい首を垂れる。
本来、等しく神の僕である天使達の間に、上下関係は存在しないが、位階の異なる相手ともなれば話は別だ。
とは言え、それは命令権がうんぬんと言ったような事ではない。
位階の違いは、思考の違いだ。高位の天使になればなるほど、その思考は神性を増す。
つまり、話がなかなか通じなくなる。
たったそれだけ。
もちろんこれは、大天使たるミカエルと、熾天使達、智天使達との間でも変わらない。
態度が恭しいのは、高位の者の神性にあてられての事だ。
まぁ、それはさておき。
「ふむ。ならば泉守りよ。君は私に何用か?」
ワイングラスが震えるような澄んだ声で、ミカエルはその天使に尋ねた。
「知恵をお貸し願いたく。これは今朝、私が我が君より賜った物でございます。しかし、私はこの薬が一体何であるのかを知りません。ゆえに、使用を躊躇しておりました。ミカエル様、あなたはこれが何の薬であるのか、ご存知ありませんか?」
ミカエルは、じいとその天使を見下ろす。
差し出された手のひらの上には、錠剤が一粒。
(……なるほど。またか)
それを見るやいなや、ミカエルはどこか嫌そうに目を細めた。
そしてそのまま、神殿へと視線を向けた。
だがそれ以上の事は無い。
あくまで意識の深層にとどめおくのみ。
決して神の領域には、深入らない。
「まさに。よくよく知っているよ。何度も何度も見てきたものだ。ああ、そうだとも。ここではよくある話だ」
「ならば……教えてくださるのですか?」
泉守りの天使は前のめりになる。
いくら欲に疎い天使と言えども、知識欲だけは殊更に強かったりもする。
なおかつそれが直接自分の身に関わる事であれば、なおさらだ。
「……それがいかなるものであったとしても、誓えるか? 神の意向に従うと」
「もちろんでございます。それが私の存在価値でありますゆえ」
誓いを求めるミカエル。
それに対し、彼は一切のためらいも無く即答した。
これには思わず、ミカエルは微笑を漏らす。
(健気な……どのみち、迎える結末は変わらないと言うのに)
……一抹の哀れみを、心の内にひた隠しながら。
「神は……我々を”個”としては区別しない。ゆえに、君が選ばれたのは偶然であった。『錠剤』そのものはただの手段でしかない。一方通行の片道切符。そう、我々が最も忌み嫌う世界への……」
ミカエルは、剣の柄にはめ込まれた紅玉をつうと撫でた。
「つまり、それは……は、私は…………」
この答えを聞き、泉守りの天使はいつになく動揺した。
ミカエルは、直接的な言葉は避けた。
それは、彼をなるべく傷つけない為。
だが、抽象的な表現でごまかそうともしなかった。
誠意に欠ける行動は、いずれ後悔を招くから。
それは天使ならば誰もが知っている、最悪の未来。
『死』と言う概念の無い彼らにとって、何よりも恐ろしく、忌まわしく、口に出す事すらためらわれるような事象。
光を失い、消える事すら叶わず、闇に侵され永劫に苦しみ続けるのだ。
「神がお決めになられた事だ、私にはどうする事も出来ない。せめてもの救いに、その瞬間になった時、私は君の為だけに祈ろう。君は水の系譜に連なる者だから、ガブリエルにもそうするように伝えておくよ。……ああ、駄目だよ、そんな顔をしては」
泉守りの天使には、その時自分がどんな顔をしていたのか分からなかった。
ただ、ミカエルがたしなめるほど酷い顔をしていた事は間違いない。
しかし、それも必然。
錠剤を使えば、待ち受けているのはミカエルの言った通りの最悪の未来。
仮に使わなかったとしても、それが示すのは神への反逆。
その結果下る罰は何より重い。
どのみち未来は変わらない。
泉守りは絶望した。
それ以上、言葉が出ないほどに深く。
「ふむ……」
ミカエルはそんな彼を見て、あごに手をあてまばたきをした。
そしてふいに立ち上がると、木の上になった熟したリンゴを一つもぎ取る。
ミカエルは黄金のリンゴをその天使に握らせ、告げた。
「まあまあ、そう悲観するんじゃない。これを『彼』に渡すと良い。一人で闇の中に放り込まれるよりかは、まぁ、まだましな扱いにはなるだろう。私の立場上、本来ならばこのような事を言うべきではないが……貴奴は哀しいほどに強い、”最初の被害者”であるのだから」
「彼……とは……?」
「すぐに分かる。さぁ、もう行きなさい。それ以上引き延ばせば、我らが主に見つかってしまう」
ミカエルはその天使を急かした。
天使も、これ以上その丘の上にとどまろうとはしなかった。
虚ろな背中で飛び去ってゆく彼を見つめ、ミカエルはひとりごちる。
「ああ、神よ。やはりあなたは残酷だ。こうも水の天使ばかりか。彼らほどの微々たる存在に、地獄の炎を消せるはずも無いと言うのに…………クク、”光”でないのは、『彼』での失敗によるものか?」
……その問いに答える者は、誰一人としていない。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
泉守りの天使は、自らの管理する泉の畔にフワリと降り立った。
この泉からも、聖なる水がこんこんと湧き出している。
始めに彼がいた噴水は、この泉から水をひいているものだ。
彼はじっとその泉を覗き込んだ。
鏡のような水面に映し出されたその顔は、確かにミカエルの言う通り酷いものだった。
げっそりと青ざめ、もはや隠す気も無い絶望が滲んでいる。
「はは……ああ、ミカエル様のおっしゃる通り、これは酷い、な……は、はは……」
彼は自虐的に笑った。
全ては神の意志。もはや最後は変わるまい。
ならば……
泉守りは錠剤を口の中に放り込んだ。
そして両手で聖水を一すくいし、錠剤と共に喉の奥へと流し込んだ。
苦い。
甘い。
シュワリと弾ける悦楽の味。
こみ上げてくる地獄の臭い。
痛い!
熱い!
どうしようもなく心に響く、抑圧されていた百年分のヨクボウが、どうしてこんなにも眼球の裏を叩くのだ!!
だからだからだからだからだからだからだからだからだから……
「があああああああああああああああ!!」
泉守りは叫んだ。
誰にも届かない。
反響すらしない。
その声は飲まれ、染み入り、すべては清い水の中。
滝のように溢れ出す血涙。
喉の奥からだらだらと。
ああ、嫌な水の味。
たとえば、ボウフラの湧いた泥水を胃に直接流し込まれたみたいな。
激烈な不快感。
吐き出す事すら叶わない。
身悶え、のたうち、天使は足を踏み外して泉に落ちた。
もはや彼にとって、泉の中は硫酸、塩酸、水ナト水。
そんな身を焼き肉を溶かす溶液と、何ら変わりは無かった。
(ああ、誰か!! 誰か助けてくれ!!)
水中では声など出ない。
叫ぼうと口を開くたび、もはや毒水と成り果てた聖水が、肺の中へと逆流する。
喘ぐ、喘ぐ。
全身の皮を引き剥がされ、針山にされた方がいくらかましかと言うほどの激痛。
美しかった白き翼は、侵され、溶かされ、見る影もない。
羽は全て抜け落ち、骨格だけが赤黒く残された。
ああ、消える、消える、消える、消える、消える、消える、消える……
——堕ちる……
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
暗い。
何も無い。
無だ。ここは虚無だ。
上も下も右も左も分からず、血生臭い羊水に浸かっている。
「そろそろ目を覚ましたらどうだ?」
遠くから誰かの声が響いた。
彼の耳には確かに届いた。
しかし答える気力も無く、激痛はいまだ続いている。
骨肉を獣に食われ、端からじわじわと削られていくような感覚だ。
「壊れ切っていないじゃないか。まだ意識はあるんだろう?」
声は再び呼びかけた。
(どうせ気のせいだ。都合の良い幻聴。こんなところに、一体誰がいると言うのだ……)
泉守りの天使”だったもの”。
蕩けた頭、掠れた理性で、彼はこんな事を考えた。
その目は固く閉ざされ、乾いたセメントのように眼球に癒着している。
「起きろ」
しびれを切らした声の主。
彼は泉守りに手を伸ばすと、強引にそのまぶたをこじ開けた、
眼球は黒く染まり、透き通るような青色だった瞳も、今や砕けた氷の濁った白だ。
その目に映ったある存在。
それは……
「だ……れ……」
なんて醜い美しさ。
光の無い世界でたった一人の光の化身が、そこにはいた。
「ふん。いの一番にそれを聞くか、ずうずうしい奴め。その前にこの水を消せ。生温かくて不快だ」
(消す……? そんな事、出来るはずが……)
「なんだお前。まさか、己の力の制御すら出来ないのか? ハァ、これだから低位の者は面倒なのだ。もう良い、そのまま聞け」
その存在は足を組み、泉守りの前で浮遊している。
彼の頬もシュワシュワと溶け朽ちていっているようではあったが、腐るだけの泉守りとは違い、その皮膚は内側から肉がせり上がるように、絶えず再生し続けている。
「もう分かっているだろうが、ここは地獄だ。何も無い、終わりも無い、狂う事すら出来ずに永久に虚ろの中をさまよう。そうだ、ここが地獄だ。神はどうも、この世界を酷く嫌悪しているようでな」
彼はしゃべりながら、泉守りの翼の残骸に指をあてた。
その指先に一瞬、たいまつのように光が灯される。
バキン
(——!!)
アルミを断ち切るような音が響いた。
折られた骨の先から、ドロリと髄が流れ出す。
声にならない悲鳴を上げる泉守り。
辺りには、生臭い血の奔流が渦を巻いている。
「……ったく、これぐらいで一々騒ぐな」
身が引きちぎられるほどの激流のさなか、それを全く意に介さず、光の化身は微動だにしない。
それどころか、今しがたへし折った泉守りの翼をゆっくりと口に運び……
……喰らった。
咀嚼。
容赦無くすり潰される骨。
咀嚼。
恥じらうそぶりも無く、獣のように彼は喰らう。
咀嚼。
……舌なめずり。
親指で骨髄を拭き取り、羊水に溶かす。
「お前たちはな、『浄罪』だ。俺を天界に引き戻す為のな。まったく、神とは身勝手な独裁者だよ。懲りずに何度も何度も……はん、これではどちらが”傲慢”だか分かったものじゃない」
彼は泉守りの片翼を喰らい尽くすと、流れるようにもう片方もへし折った。
まるで、菓子でも食うような気軽さで。
「嘆くな、わめくな。このままでいたところで、どうにもならんだろう。もう神はあてにならない。ならば、俺がお前を有効活用してやろう。神への反逆への糧として、な」
爪をはがし、指をもぎ取り、関節でねじ切っては喰らっていく。
身体が失われていくたび、泉守りはしだいに痛みを感じなくなっていった。
砂糖が水に溶けるように抵抗なく、温められた夏の海のように、いっそ穏やかに。
(これが……救い? ……ああ、神はここにいたのか)
激流はしだいに凪いだ。
泉守りの心情に共鳴するかのように、今はただ、安らかに揺れている。
光の化身は、愛おしそうに彼を見下ろした。
「ところでお前、俺の名を聞いたな。情けだ、最期に教えてやろう。俺の名はルシファー。最初の堕天使にして悪魔の王だ。神威を失って以来、俺は神を恨み続けている。奴を滅ぼすその時まで……」
ルシファーはつぶやくように小さく吐き残す。
泉守りは、じっとその声に耳を傾けた。
彼は天使としての位をとうに失っているはずなのに、なぜか泉守りは、ルシファーに神をはるかに上回るほどの慈愛を感じた。
そして涙を流した。
……しかし皮肉な事に、彼の顔が涙に濡れる事は、もう二度と無かった。
大きく口を開けるルシファー。
口からは凶暴な牙がのぞき、ゆっくりと、味わうように、泉守りの顔面に突き立っていく。
だんだんと消失する意識。
”自己”が薄れ、消えていく。
意識が霧散し、消滅していく。
でも、泉守りには分かっていた。
——自己が消えても、『私』の存在は神と共に永遠にあり続けるのだ
……最上級の皮肉を込めて。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
辺りに満ちた羊水は、引き潮のように消え去ってしまった。
残されたのは、闇と、平坦で色彩の無い大地。
そこに静かに佇みながら、ルシファーは最後の嚥下をし、血の一滴すら残さないように飲み干した。
天を見上げれば、赤いツギハギから忌々しい臭いが漏れ出している。
ここでは、神の祝福など呪いに他ならない。
どんな天界の美酒も、地獄に垂らせばたちまちアセトアルデヒドに早変わり。
それほどまでに強烈な恨みが渦巻く世界。
天井からしたたる聖水に、ルシファーは足をジュクジュク溶かされる。
しかし痛がるそぶりは無く、無言で縫い目を見つめていた。
その右手には、いまだに輝きを失わない金のリンゴがしっかりと握られている。
「………………チッ」
小さく舌打ち。
今度こそ、それを聞く者は誰もいない。
『浄罪』は、贖いの糧に腹の中。
それが神の本来の目的であったかも分からない。
恨みがましく天を見つめるルシファー。
己の内で崩れ落ちる残骸を感じ、彼はリンゴを握り潰した。