婚約破棄された侯爵令嬢は、政略で築いた未来を笑って捨てる
スフェリア・アルディナは、王都随一の由緒ある侯爵家の令嬢である。
それは誇りであると同時に、鎖でもあった。
身なりはいつも完璧でなければならず、所作ひとつにまで品位が求められる。
幼い頃から教育係に叩き込まれたのは、感情を抑えて国のために生きる覚悟。
だからこそ、彼女は王太子との婚約を受け入れた。
たとえそれが、愛のかけらもない政略であっても。
「スフェリア……すまない。俺は別の人を愛してしまった」
王宮の謁見の間。金装飾の柱が立ち並ぶその場で、第一王子ユリウス・アクレシウスはまるで罪人のような顔をして告げた。
その隣に控える少女――アンジェリカ・イヴェットは、控えめに涙を浮かべながら視線を伏せる。
それを見て、スフェリアは小さく笑った。
「そうですか。それは結構なことですわね」
張り詰めた空気のなか、彼女は姿勢一つ崩さぬまま淡々と答える。
王族や重臣、貴族たちが固唾を呑んで成り行きを見守っていた。
「わたくしのことは、“義務”としか思われていなかったのですね」
「……そんなつもりじゃ……いや、最初はそうだったかもしれない。でも、君はあまりにも冷静で、完璧で……俺なんかの隣にいるのは苦しかった」
「それは、未熟な自分を棚に上げた言い訳でございますの?」
ユリウスは言葉に詰まった。
「……もう一つ、お伺いしてもよろしいかしら。アンジェリカ嬢とは、いつからのご関係ですの?」
「そ、それは……」
「一年前の冬の舞踏会。裏庭の回廊でのお二人の姿、しっかりと目に焼き付いておりますわ。わたくしが同席していたにもかかわらず」
アンジェリカの顔が、見る見るうちに蒼白になる。
「スフェリア様……それは、誤解です。あの時は――」
「誤解? まあ、そう申されるならば証拠をお見せしましょう」
スフェリアはゆっくりと懐から一通の書簡を取り出した。王家の印章が押された文書だ。
彼女はそれを執事に渡し、王族の長である国王のもとへ運ばせる。
「これは、侯爵家として王家との婚約解消を正式に受理した記録と、それに伴う全ての財政的、軍事的支援の停止通知です」
「な……っ」
王宮がざわめく。
「アルディナ侯爵家は本日をもって、王家との政略的縁組を解消し、以後は政治的中立の立場を貫きます。貴族連合との連携を強め、地方分権への移行を推進する立場を取ります」
スフェリアは一礼もせずに踵を返した。
彼女はもう、何も言わない。背後で誰が何を叫ぼうと、彼女の歩みを止める者はいなかった。
愛のない未来を、義務のために捧げる時代はもう、終わったのだ。
王宮を後にしたその足で、スフェリアは自家用の黒い馬車へと乗り込んだ。
扉が閉まり、揺れ始めると同時に、彼女は背もたれに身を預け、静かに目を閉じる。
「……フリード」
その名を呼ぶと、すぐに向かい側の座席にいた青年が答えた。
「おつかれさまでした、お嬢様。予定どおり、すべて進行しました」
「ええ。王太子の愚かさには、少々予定以上の“滑稽”が混ざっていたけれど」
青年――フリード・ヴァルツはアルディナ家付きの側仕えであり、かつてスフェリアの護衛役として剣を振るっていた男である。
現在は文官として侯爵家の対外交渉を一任されており、今回の“婚約破棄劇”のすべての仕掛け人でもあった。
「これで、王家は少なくとも三年は混乱が続くでしょうな。貴族連合の影響力は飛躍的に高まります。お嬢様の読み通りです」
「当然よ。愚か者と結婚するくらいなら、国の構造そのものを変えたほうがいいもの」
「……では次の会合の件、準備を進めてよろしいですね?」
「ええ。貴族連合との合議は、予定より一ヶ月早めるわ。ノルド辺境伯とも連絡を。彼らとの連携が成れば、東の交易路の完全独立が可能になるはず」
「かしこまりました」
フリードは馬車の小窓を開け、走る景色の向こうに目を細めた。
「王子が失ったのは、婚約者一人だけでは済まない。今後、王都の主導権は貴族の手に落ちるでしょう。中でも最も賢く、冷静な判断ができる者に」
「過大評価ね。わたくしはただ、必要な場所に必要な決断を下しただけ」
スフェリアはそう言って、少しだけ微笑んだ。
「でも、あなたのそういうところ、嫌いじゃないわ」
「おや、光栄ですな」
いつかの彼女は、自分を殺し、国のために生きることが正しいと信じていた。
けれど今の彼女は、自分の手で国の形を変えることに、迷いもためらいもない。
それは、ある種の“再生”であった。
――そして、それはまだ序章にすぎない。
侯爵令嬢スフェリア・アルディナの戦いは、これから本当の意味で始まる。
愛も、誠実も、自由も、誰かに与えられるものではない。
自分の意志で選び、勝ち取るものだ。
たとえ、それが“真実の愛”と呼ばれるものであったとしても。
彼女は今度こそ、自分の足で、自分の未来を歩んでいく。
アルディナ侯爵家の迎賓館は、王都の中心から西に離れた静かな丘の上に建てられている。石造りの荘厳な建築は、どこか古城を思わせる重厚さを持ち、その門の前には今、各国の使節団を乗せた馬車が続々と列をなしていた。
スフェリア・アルディナは、淡い青のドレスに身を包み、館の正面階段で来訪者を出迎える。
「遠路はるばるのご来館、誠にありがとうございます。貴族連合会合の主催として、心より歓迎申し上げます」
その一言は、まるで外交官のように滑らかで、威厳に満ちていた。
応じたのは、銀縁の眼鏡をかけた壮年の男。東部ナイレオ公国の筆頭宰相であり、老練な策略家として知られているグレイフ・ロンドだった。
「いやはや、まさかこのような場を、あのアルディナ家が単独で設けようとは……驚きましたぞ、スフェリア嬢」
「他に適任がいないのですから、仕方ありませんでしょう?」
「ははっ、それは謙遜というには鋭すぎますな」
微笑を交わしながら、スフェリアは内心でこの会談の意義を再確認する。
王家との縁を断ったアルディナ家が、最初に仕掛けた一手。それが――各国の名家を一堂に集め、王都に代わる外交の中心を設けることだった。
重厚な会議室では、各国から集まった貴族代表たちが既に着席し、ざわめきが広がっている。
「王家がこうも無策とは……」
「王子の軽率な婚約破棄が、ここまで波紋を呼ぶとはね」
「むしろ“王太子の退位”を視野に入れるべきでは?」
そんな声が交錯する中、スフェリアは堂々と演壇に立つ。
「皆様、ご来臨に深く感謝申し上げます」
会場が静まり返る。
「わたくし、スフェリア・アルディナは、本日をもって王家に依存しない新たな外交連合の構築を提案いたします。従来、王宮を通じて交わされていた諸侯との協定を、今後は我々、貴族自身の手で進めるべきと考えます」
「……つまり、王権の形骸化を促すと?」
誰かが問うた声に、彼女は即答する。
「いえ、“代替”です。中央の腐敗を放置するより、実務能力を持つ者が国を支える方が建設的かと」
その言葉に、誰も反論できなかった。
彼女の語る内容は、ただの理想ではない。王宮の無策に業を煮やしていた地方貴族たちにとって、実に魅力的な提案だったのだ。
その日の会合の末尾。参加者の三分の二が、スフェリアの提唱する「諸侯連合憲章」に署名した。
それはつまり、王都を中心とした統治体制が実質的に崩れ始めた瞬間でもあった。
その日の夜、スフェリアは書斎でフリードに静かに告げた。
「ねえ、わたくしは――間違っていないわよね?」
フリードはしばし黙ったのち、ゆっくりと頷いた。
「お嬢様が今日動かなければ、この国は遅かれ早かれ崩れていたでしょう。あなたは、正義ではなく“合理”を選ばれた。それこそが、この国に最も欠けていたものです」
「……合理、ね。あの方にも、それがあればよかったのに」
彼女の脳裏に、かつての王太子――ユリウスの面影が浮かぶことは、もうなかった。
記憶の中の彼は、すでに過去の亡霊に過ぎない。
その翌週――
王都では、正式にユリウスの王太子退位の検討が始まっていた。
それを見届けながら、スフェリアは次なる舞台への布石を進めていく。
彼女の“次なる一手”は、まだ誰にも読めていなかった。
貴族会議からの帰還を終えた翌日、スフェリアは館の庭園で散歩をしていた。
春の陽差しが若葉を照らし、噴水の水音が控えめに耳に届く。だが、その穏やかな景色に反し、彼女の思考は冷静に先を見据えていた。
「……そろそろ、王宮側の動きが出るはずよ」
そう呟いたスフェリアの元へ、フリードが足早に歩み寄る。
「予想通り、動きがありました。国王陛下の側近から密使が来ています。“非公式”に話がしたいとのこと」
「当然ね。彼らとしては、王太子の軽率な判断によって統治基盤が揺らぎ始めていることに、ようやく気づいたのでしょう」
「受け入れますか?」
「いいえ。あくまで“中立”を貫く姿勢は崩さない。けれど……一度だけ、言葉を交わしてあげましょう」
彼女の目は、どこまでも冷たく、そして美しかった。
「その代わり、こちらも条件を提示するの。私たちの条件を、王家が飲まなければどうなるか――彼ら自身に思い知らせてあげないと」
「それが、戦わずして勝つための戦略というわけですな」
「そう。もう駒は動いている。止まらないわ」
日が傾き始め、庭園が金色の光に染まる中、彼女は背筋を伸ばしたまま立っていた。
かつて“完璧すぎて息が詰まる”と言われた令嬢は、今や、王宮さえも牽制する政治の中枢へと足を踏み入れようとしている。
だが、彼女にとってそれは復讐ではない。
ただ、最も合理的で、誇り高い選択肢だっただけ。
彼女は心の奥で、王子の軽率な言葉にもう一度だけ、静かに微笑んだ。
「真実の愛、ね。滑稽だわ。真実を知らぬ者ほど、愛を語りたがるものよ」
アルディナ侯爵家が主導する外交連合は、想像以上の速さで各国貴族に浸透しつつあった。
王都は混乱し、王族たちは名目だけの決定権にしがみつくばかり。
一方でスフェリアは、冷静に次なる布石を打っていた。
そんなある日。
北方諸侯との会談を控えた昼下がり、迎賓館の門前に一台の見慣れぬ馬車が停まった。
黒地に銀の縁取り、扉には見覚えのある紋章――王家直属の使節の証だ。
執事が駆け寄り、スフェリアに耳打ちする。
「客人が……お一人、予告なく参られました。王族の紋を掲げておりますが……」
「……名を聞きましたか?」
「はい。“ユリウス殿下”と」
一瞬だけ、時間が止まったようだった。
スフェリアは表情を変えず、立ち上がると静かに言った。
「応接室へ。私もすぐ向かいます」
応接室に入ると、背筋を伸ばしたまま立つ一人の青年がいた。
かつて、政略の名のもとに並び立った相手――王太子ユリウスである。
以前と比べ、どこかやつれたその顔は、苦悩の色に満ちていた。
「……スフェリア。久しぶりだな」
「“侯爵令嬢”とお呼びください、殿下。今や王家とは無縁の身ですので」
その冷たい一言に、ユリウスの肩が微かに揺れた。
「……あの時、お前を傷つけたことは理解している。いや、傷つけたどころではなかった。全てを壊した」
「壊れたのは、王家の信用と、あなたの未来ですわ。わたくしの信念は、むしろあの時から強くなったと感じております」
ユリウスは言葉を飲み込み、懐から一通の書簡を差し出した。
「……これは、国王陛下からの密書だ。お前に、個人的な話し合いを申し出たいと」
スフェリアは一瞥し、無言でそれを受け取る。
「お受けするとは言っておりませんわ。ただし、内容には目を通して差し上げましょう」
「……ありがとう。それだけでいい」
ユリウスは立ち上がり、扉へと向かう。
だが手を掛けたところで、ふと振り返った。
「スフェリア……あの時、本当は言いたかったんだ。“君は怖いほどに、正しかった”って」
スフェリアは黙って彼を見ていた。
もう、何も言葉はいらなかった。
背を向け、彼が去っていくその音を、ただ静かに見送る。
部屋に一人残ったスフェリアは、机に置かれた密書を開く。
そこには、王家の権威失墜と貴族連合への懸念、そして――
「“新たな政体を、共に構築しないか”ですって?」
皮肉にも、自らが壊した政略の中心から、再び“共に国を立て直そう”という申し出が届くとは。
書簡を閉じた彼女の唇に、微かに笑みが浮かぶ。
「遅すぎるのよ、すべてが」
その時、扉がノックされた。
「スフェリア様。次の来賓がお見えです。東方からの特使、ルディエル殿下です」
「……ようやく、まともな交渉相手が来たようね」
ルディエル・セレスティーナ――東方ルステラ帝国の王弟殿下。
かねてより彼女に縁談を持ちかけてきた人物であり、強大な外交手腕で知られる知将。
彼がこのタイミングで動いたのは、偶然ではない。
彼女の価値が、政略の舞台で再び“国を変える力”として認識された証だった。
「フリード、応接室を整えて。これが、本命よ」
「かしこまりました。……ようやく、本気で未来を選ぶおつもりですか?」
「ええ。愛などいらない、とは思っていたけれど――この人になら、少しだけ期待してもいいかもしれないわね」
スフェリアの瞳には、初めて“政略の先にあるもの”への光が宿っていた。
ルディエル殿下は、まさに“異質”というべき風格を備えていた。
白銀の長髪を一つに束ね、深緑の軍装に身を包んだ姿は、武人というよりも詩人のような気品を漂わせていた。
だが、その目に宿る光だけは、決して詩的ではない。冷徹で、計算された火花のような光――それが、彼の本質を語っていた。
「侯爵令嬢スフェリア。ようやく、直接話せる機会を得たことを光栄に思う」
「殿下こそ、遠方よりお越しいただきありがとうございます。わたくしと会うために直々にとは……」
「もちろんだ。君の手腕を見ていた。王子との婚約破棄の顛末、貴族連合の結成、その一つ一つが見事だった。君は恐ろしいほどに“動かせる人間”だ」
スフェリアは微かに唇を引き結ぶ。
「光栄でございます。ただ……その“動かす”力を、どこまで信じてくださるのかは、これからの対話次第ですわね」
「当然だ」
ルディエルはゆっくりと椅子に腰を下ろし、指を組む。
「本題に入ろう。私は、ルステラ帝国の代表として来た。しかし、今回は“私個人”として、君に一つの提案を持ってきている」
「個人として……ですか?」
「君に、政略結婚を申し込みたい。だがそれは、ただの縁談ではない」
彼の視線が真っ直ぐスフェリアを射抜く。
「私と共に、王制でも貴族制でもない、新たな国の形を築いてみないか? 二人で共同統治をする“協奏国家”を、ここに創ろう」
「……!」
スフェリアは初めて、わずかに瞳を見開いた。
政略の申し出は、何度も受けてきた。けれど“並び立つ者”としての提案は、これが初めてだった。
「……ずいぶん大胆ですのね」
「私は、君に惚れた。能力に。そして、その覚悟に。愛は、後から育つものだと私は信じている」
スフェリアは、静かに立ち上がると窓の外を見た。
今、王都の空にかかるのは曇天。だがその雲の向こうには、確かに太陽がある。
「そのご提案……面白いですわ」
彼女の微笑は、確かに“未来”を選び始めた者のものだった。
その日、スフェリアは久方ぶりに喧騒の王都に足を踏み入れた。
薄灰色のマントに身を包み、表向きは視察という名目で動いていたが、目的は一つ――“決別”の確認だった。
アルディナ家は既に王家からの離脱を明言し、貴族連合を率いる存在となっていた。
だが、王宮はなおもその現実を受け入れようとせず、表向きには“誤解による一時的な疎遠”とまで報じているという。
彼女はそれが滑稽で仕方なかった。
「……まるで子供の駄々ね。壊れてしまった玩具が、まだ動くと信じているようなものだわ」
同行するフリードが、軽く口元を押さえる。
「このまま黙っていれば、王家が“和解演出”を強引に始める可能性もあります。今日、手を打っておくべきでしょう」
「ええ。そのつもりよ。今日の会談で、わたくしは“宣戦布告”をする」
「……交渉の余地は?」
「あるわ。ただし、“王家の解体”という条件付きでね」
王宮内の迎賓室。
白と金を基調とした室内には、王家の長老である宰相フェルネス卿と、王弟レナルト殿下が待っていた。
「スフェリア嬢、よくお越しいただけました」
「ええ。こちらの“誠意”とやらを、直接確認したくて」
宰相が苦笑しながら書類を差し出す。
「貴族連合の存在を王家が認可するという文面です。表立って対立しないための“妥協案”とお考えください」
スフェリアはそれを一瞥すると、即座に突き返した。
「お優しい提案ですこと。でも、それでは何も変わらない。王子が王太子である限り、王政の正当性は形だけでも残り続ける。わたくしが望むのは“清算”ですわ」
「……では、交渉は決裂と?」
「交渉ではなく、告知よ。次の貴族会議で、“新政体の樹立”を宣言します。中央権限は議会制に移行。王家の存在は、象徴としての位置に格下げされる」
宰相の顔色が変わる。
「お嬢様、それはあまりにも急進的です。王国の均衡を――」
「王国の均衡を壊したのは、他でもない王太子ですわ。今さら秩序を説くとは、ずいぶんと御都合のよろしいことで」
レナルト殿下が、ようやく口を開いた。
「もし王家がこの提案を拒否した場合……?」
「新国家として、独立を宣言します。ルステラ帝国と連携し、王家の影響を一切排した体制を確立する。それだけです」
その場に、重く沈黙が落ちた。
会談を終えた後、スフェリアは王宮の階段を下りながら呟いた。
「これで、後戻りはできないわね」
「はい。しかし、これこそが“未来を選ぶ”ということです」
フリードの言葉に、彼女は小さく笑った。
「選ばれた王妃ではなく、“選ぶ側の王”になるのよ、わたくしは」
その瞳には、もはや迷いはなかった。
王宮を後にしたスフェリアは、その足で王都の西門に向かっていた。
そこには、彼女が密かに招いた使節団が待機している。
東方ルステラ帝国より派遣された外交官団――彼らとの合流は、王家との“決別”を世界に示す明確な一手だった。
豪奢な馬車の中で待っていたのは、ルディエル殿下の片腕とされる宰相補佐・アラン・セファール。
「お迎えにあがりました、侯爵令嬢。王家との交渉は、予想通りの展開だったようですね」
「ええ。お互いの立場が明確になったのは、収穫でしたわ」
彼女は馬車に乗り込み、アランと向かい合う。
「本国の反応は?」
「陛下は満足されております。スフェリア様の行動は、我が国にとっても大いなる前進となります。近隣諸国への影響力が広がるのは、帝国にとっても好機です」
「ええ、それは互いにとって利益になる。だからこそ、対等な関係を望みますわ。わたくしは“従属”など興味がありません」
「当然です。ルディエル殿下もそれを前提に動かれています。次の段階として、“共同憲章”の起草に入りたいとの意向です」
「了解しました。草案をお持ちならば、今日中に目を通します」
そのやり取りを聞いていたフリードが、ふと目を細める。
「……本当に、別の国が生まれるかもしれませんね。この王国の地に、まったく新しい形の国家が」
「そうね。貴族でも王でもない、新たな統治の形。そしてその中心に立つのは、血ではなく才を持つ者」
馬車がゆっくりと動き出し、王都の石畳を離れていく。
スフェリアは、最後に王城の尖塔を一瞥し、そっと呟いた。
「――さようなら、わたしの過去」
それは、政略のために生きた一人の少女が、国家を導く者へと生まれ変わる瞬間だった。
政略結婚を選ぶ事は無く、新たな道を歩き出す。
その夜、スフェリアは自身の執務室にて、ひとり静かにペンを走らせていた。
机の上には、ルステラ帝国から届いた草案と、貴族連合の初期規約案。
そして新たに作成しようとしている“新国家憲章”の白紙があった。
これは単なる政治文書ではない。
彼女自身の人生の結晶であり、この国の未来そのものだった。
「……誰かに従うのではなく、誰かを導く力を持てるようになりたい。幼い頃から、ずっとそう思っていた」
だが、少女が夢見た“力”は、常に王家の影に押さえ込まれてきた。
あの時、彼女を“完璧すぎる”と断じた王太子は、自身の小ささを認めることもなく、すべてを手放した。
だが、彼女は諦めなかった。
だからこそ今――自らの手で、“誰かの未来”を守る者としてこの国に名を刻むのだ。
スフェリアは深く息を吸い、白紙に最初の文字を記す。
――〈民の意思が国の礎となる〉
その言葉から始まる憲章は、やがて王政の時代に終焉を告げ、新たな時代の扉を開く鍵となるだろう。
国の中枢で政変が進む一方、誰にも知られぬ場所で、ひとりの元王子が寒風に身を晒していた。
ユリウス――かつての王太子は、王宮を追われてから王家の離宮にすら留まることを許されず、北部辺境の僧院に“静養”の名で押し込まれていた。
そこに華やかな舞踏会も、絹の寝台もない。
あるのは、質素な食事と、雪の中を吹き抜ける風の音だけ。
「……はは。俺が望んだ“自由”は、こんなにも寒いものだったか」
独り言に返事はない。彼を世話する侍従すら今はおらず、凍てついた石床が寂しく足音を返す。
思えば、レティシアを手放したあの日から、すべてが変わった。
いや――彼女を手放した瞬間、世界は彼に背を向けたのだった。
愛を選んだはずだった。けれど、選んだ愛はすぐに崩れた。
アンジェリカの家は周囲の圧力に耐えきれず、婚姻は白紙に戻された。
その後、彼女は家ごと地方へ隠棲。二度と公に姿を現すことはなかった。
「俺は……何を守りたかったんだろうな」
問いかけても、雪は黙って降り積もるだけだ。
そんな彼のもとに、一人の老人が訪れる。
王宮の老宰相、フェルネス卿である。
「ユリウス殿下。いや、もはや“殿下”ではありますまいな。静養のご様子、いかがかと」
「追い打ちに来たのか?」
「いいえ。“確認”に参りました。王家の最終決定に、あなた様のご署名をいただくためです」
フェルネスは静かに一枚の羊皮紙を差し出す。
そこには――“王家の継承権放棄”の正式な文言が記されていた。
「お前たちは……本当に、ここまでやるつもりか」
「やったのは我々ではありません。始めたのは、あなた様です」
その一言は、剣より鋭く突き刺さる。
「貴族連合は議会制への移行を正式に宣言しました。ルステラ帝国はそれを支持し、王都南部の関税圏を共有すると表明しております」
「つまり……もう、終わりだと?」
「“王家”の時代は、終わりです」
ユリウスは、無言のまま筆を取り、羊皮紙に署名する。
震える手を押さえるようにして、最後の文字まで書き終えた。
「……これで、俺は本当に“ただの男”か」
「いいえ、かつての王子にしては、随分と長く引き延ばされましたよ。むしろ、ようやく始まるのです。“己の力で生きる人生”が」
「……ふ。皮肉をありがとうよ、爺さん」
老宰相は何も言わず、深く頭を下げるとそのまま去っていった。
その夜、ユリウスは雪の中に立ち、空を見上げた。
何も持たぬ、何者でもない自分が、世界の片隅に立っている。
だが――
「まだ……終わってなんか、ないさ」
歯を食いしばり、彼は一歩、雪の原へと足を踏み出す。
そこに、かつての栄光はない。
だが、真に“自分”として歩き出す道だけは、確かに続いていた。
僧院での日々は、かつての生活とは比べようもなかった。
毎朝決まった時刻に起き、薪を割り、湯を沸かす。
畑を耕し、家畜の世話をし、冷たい水で顔を洗う。
誰も彼に「殿下」とは呼ばず、ただ「ユリウス」と呼んでくる者ばかりだ。
最初はその呼び捨てに腹立たしさすら覚えた。
だが、ある老修道士にこう言われたことを、彼は今でも忘れられない。
「名前だけが、あんたに残された贈り物だよ。過去の肩書きは、何の役にも立ちゃしない」
そう言われた時、彼は何も返せなかった。
王子であることが全てだった彼にとって、地位も称号も剥がされた今、残ったのは「ユリウス」という一人の男の名だけ。
しかし――それは、ゼロからの出発でもあった。
冬が過ぎ、春が近づく頃。
ユリウスは、僧院の片隅に小さな教室を開いていた。
読み書きの知識を子供たちに教え、算術を教える。
かつて王宮で学んだ技術が、思いがけず人々の助けになっていた。
「ユリウス先生、これできた!」
「お、いいじゃないか。三桁の引き算も完璧だな」
雪解けの匂いを感じながら、ユリウスはかすかに微笑む。
かつては“完璧すぎる”と断じた相手がいた。
だが今、自分は“未熟で不完全なまま”誰かの役に立っている。
「……皮肉なもんだな」
そう呟いた彼の心には、ひとつの決意が芽生え始めていた。
自分はもう王ではない。
だが、だからこそ、やり直せるのだと――。
教室が終わった後も、ユリウスは書物の整理や修道院の会計記録の手伝いをしていた。
かつて財務官を軽視していた自分が、いまは帳簿の読み方に苦戦しているのだから皮肉なものだ。
それでも、彼は学んでいた。誰に命じられたのでもなく、ただ“必要だから”――それが、今の自分にとって最も自然な動機だった。
ふと、窓の外を見る。
雪解けの大地の先に、今年最初の緑が芽吹いているのが見えた。
「春が来るか……」
彼は、胸の奥にぽつりと浮かんだ言葉を、そっと口にする。
「いつか……彼女に会う日が来るのだろうか」
それは、かつて自分が失ったもの――敬意、誠実、信頼。
すべてを壊してしまったあの日の、自分自身への問いだった。
けれど、今の彼には答えがなかった。
ただ一つだけ確かなのは、明日もまた、目覚めて、働き、誰かのために役に立つ――そんな生き方を、続けていけるということ。
それは王としては得られなかった“生”だった。
貴族連合による新政体の設立から三年――
かつて王国だった土地には、新たな統治機構が根を下ろし、着実に力を伸ばしていた。
中央議会には各地の代表が集い、法と経済は分権化された地方と連携して動き出している。
その中枢には、政務院総長として名を連ねるスフェリア・アルディナの姿があった。
彼女は今や、“かつての侯爵令嬢”ではない。
民に選ばれ、民に仕える者。
時代が変わり、人々が望む形で、彼女は“王”として立っていた。
春の始まりを告げる祝賀会――
政庁前の広場には、各国からの使節が集まり、賑わいを見せていた。
その中心に立つスフェリアは、政務院を代表して祝辞を述べたあと、ふと視線を巡らせる。
「……あの男、やっぱり来ていないのね」
誰に語るでもないその呟きに、傍らのフリードが静かに応じる。
「招待状は確かに届いているはずです。けれど、あの方がここに戻るには、時間が必要なのでしょう」
「……あれから、一度も顔を見せないのだから。憎らしいほどに、律儀ね」
その口調には、もはや怒りも哀しみもなく、ただどこか、懐かしむような色が滲んでいた。
その頃――
南部の農村にほど近い村にて、一人の青年が畑を耕していた。
ユリウス。かつて王太子と呼ばれた男。
今は教員をしながら、小さな農園で働いている。
村人からは親しみと尊敬を込めて「先生」と呼ばれ、子供たちに読み書きと数の教えを施していた。
「ねぇ先生、ほんとに昔は王子様だったの?」
「さあな。ただの夢だったのかもしれないな」
笑ってはぐらかす彼の横顔に、王子の影はもうなかった。
だが、誰かの未来を支えるという意味では、今の彼の方が“王子”よりよほど誠実だったのかもしれない。
その日、村に一台の馬車が訪れた。
華美な装飾を排した、落ち着いた紺の帷幕。
扉が開き、ゆっくりと姿を現したのは――スフェリアだった。
「……あら、随分と日焼けしているのね。農夫の真似でもしてるつもり?」
「お前こそ……“王の風格”でも出てきたか?」
ふたりの視線が交差する。
静かな空気の中に、三年分の時が流れた。
「今さら、戻ってこいなんて言わないわ」
「そうか」
「けれど、隣に並んでほしいとは思ってる。かつてのようにじゃない。“これから”の在り方で」
ユリウスは少し目を細め、空を見上げた。
そこには、春霞の向こうに柔らかな光が差していた。
「……じゃあ、一から教えてくれ。“未来の王”ってやつのやり方を」
スフェリアは微笑む。
「いいわ。けれど、覚悟してね。わたくし、完璧すぎて、息が詰まる女ですもの」
ふたりは、小さな笑い声を交わしながら並んで歩き出す。
もう王宮も、玉座もない。
けれど、この国には“ともに歩む者”たちの未来があった。
村の集会所で、スフェリアはユリウスの教え子たちに囲まれていた。
「これが王様になる人!? すっごーい!」
「え、王子様と結婚するの? えっちがうの?」
無邪気な子供たちの質問に、スフェリアは困ったように微笑む。
「王様ではありませんわ。わたくしはただの、議会をまとめるお役目の一つですのよ」
「じゃあ、先生は王子様じゃないの?」
「彼はね……一度、自分のことを捨てて、本当の“人間”になった人なのよ」
スフェリアの言葉に、ユリウスは肩をすくめた。
「なんだよ、それは。褒めてるのかけなしてるのか」
「さあ、どうかしら?」
彼女の返しに子供たちが笑う。
その声が、かつての宮廷にはなかった温かさを、この空間にもたらしていた。
夜には小さな祝宴が開かれ、村の人々がスフェリアの訪問を歓迎した。
囲炉裏の火を囲みながら、農民や老女が語るのは、天候のこと、収穫のこと、そして誰がどんな花を咲かせたかという日常の話ばかりだった。
その何気ない語らいの中で、スフェリアは胸の奥に、ひとつの確信を抱いた。
――この国の“未来”は、ここにあるのだと。
権力や称号ではなく、生活の中にこそ、国を支える“声”がある。
その一つ一つを拾い上げることが、これからの“支配者”の形なのだと。
「スフェリア」
夜空の下、ふたりきりになった瞬間、ユリウスが呼びかける。
「お前が、ここまで来るとは思わなかった。俺が捨てたもの全部、お前が背負って……それでも、立ってる」
「捨てたんじゃないわ。あなたが手放した分だけ、わたくしが拾っただけのこと」
ふたりの間に風が吹き抜ける。
春の夜の匂いは、どこか柔らかく、懐かしい。
「それでも、やっぱり聞かせてくれ」
ユリウスの声は真剣だった。
「お前は、どうしてあの日、俺を追い詰めずに済ませたんだ? 俺なら、自分だったら、きっと……」
「わたくしが欲しかったのは、王位じゃない。“自分の生き方”だったのよ。そして、それはあなたにしか与えられないものだった」
「……俺は、何も与えられなかった」
「違うわ。あなたが壊してくれたから、わたくしは立てたの」
それは、決して皮肉でも逆恨みでもなかった。
本心からの、穏やかな感謝だった。
ふたりは静かに頷き合う。
この再会が、許しや償いのためではないことを、どちらも理解していた。
ただ、“これから”をともに歩むための始まりに過ぎないのだと。
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