二
信長の間に通された千鶴は、凛とした空気に背筋を伸ばした。朱塗りの鎧兜を身につけた織田信長は、いつにも増して威厳に満ちた様子で妹を見据えていた。
「千鶴」その声には、普段の荒々しさが微塵も感じられない。「お前の評判を聞いているぞ。」
千鶴の心臓が跳ね上がった。まさか、秘密の趣味が...。しかし、信長の次の言葉は意外なものだった。
「前田利家があの娘を是非にと言っておる。婿として、悪くない選択かと思うのだが」
「え?」千鶴は思わず素っ気ない返事をしてしまい、慌てて取り繕う。「あの、利家様との縁談でございますか?」
信長はゆっくりと頷いた。「加賀の前田家との同盟は、これからの美濃攻めに欠かせん。利家は若いが、将来を嘱望される武将だ。」
千鶴は複雑な思いに襲われた。前田利家といえば、加賀で台頭してきた新進気鋭の武将である。確かに、政略結婚として申し分のない相手だった。
「ただし」信長が意味ありげな口調で続ける。「お前の気持ちも聞いておきたい。」
「兄上...」
千鶴が言葉に詰まっていると、どこからか物音が聞こえた。信長の側近を務める森蘭丸が、狼狽えた様子で飛び込んできた。
「信長様!大変でございます!」
「何事だ?」
「京より届いた『織田信長英勇記』の最新刊が、何者かによって持ち去られたとの報告が!」
千鶴の背筋が凍る。『織田信長英勇記』—それは、信長の活躍を描いた人気の同人誌シリーズではないか。まさか、兄上もそんな...。
信長の表情が一瞬、くしゃりと歪んだ。「なに!今月の新刊が出たというのに!...いや、」彼は慌てて咳払いをする。「そのような末節な事で私の執務を邪魔するでない。」
千鶴は目を見開いた。兄の反応は明らかに「読者」のそれである。そして蘭丸の申し訳なさそうな表情も、ただの側近としてのものとは思えない。
「千鶴」信長は妹に向き直った。「縁談の件は、しばらく考えるがよい。それより、蘭丸、例の品の行方を...いや、政務の処理を急げ。」
「は、はっ!」蘭丸は慌てて退室する。
信長は厳めしい表情に戻ったが、千鶴には分かっていた。兄もまた、この戦乱の世に密かに芽生えた「同人文化」の愛好者なのだと。しかし、この事実を口にするわけにはいかない。それは信長自身が必死で取り繕っているように、武将としての面目に関わる事なのだから。
「では、兄上」千鶴は深々と一礼する。「縁談の件、熟考させていただきます。」
信長は黙って頷いた。千鶴が退室する時、彼の視線は既に机上の書類—おそらく同人誌の売上報告であろうそれ—に移っていた。
廊下を歩きながら、千鶴は複雑な思いに包まれていた。前田利家との縁談、そして思いがけず発覚した兄の秘密の趣味。しかし、それ以上に彼女の心を占めていたのは、京で開かれる即売会のことだった。このまま、自分の想いを秘めたままで、政略結婚に身を投じるべきなのか。
そんな千鶴の思索は、思いがけない来訪者によって中断されることになる。