一
永禄十一年、織田家の居城・清州城の一室。
障子越しに差し込む朝日が、几帳の向こうで作業に没頭する少女の横顔を優しく照らしていた。十六歳になったばかりの織田千鶴姫は、誰にも見られないよう細心の注意を払いながら、小さな筆を走らせている。
「うーん、この構図では信長兄上の勇ましさが足りないわ...」
千鶴は不満げに唸りながら、手元の画紙を見つめた。そこには、荒々しい筆致で描かれた織田信長の勇姿があった。桶狭間の戦いを題材に、千鶴なりの解釈で描いた「同人絵」である。
「でも、このままでは今度の即売会に間に合わない...」
千鶴は小さなため息をつきながら、さらに筆を走らせる。彼女には、誰にも言えない秘密の趣味があった。戦の様子や武将たちの活躍を、自分なりの解釈で描き記す「同人作品」の制作である。
その時、廊下に足音が聞こえた。千鶴は素早く画紙を反古箱の中に隠し、代わりに和歌の詠草を取り出す。
「千鶴様、光秀殿がお見えになりました。」
「まあ、光秀様が?」千鶴は、やや大げさに驚いた声を上げる。「お通ししてください。」
明智光秀が静かに部屋に入ってきた。整った顔立ちの青年武将は、千鶴に丁寧に一礼する。
「千鶴様、お手すきでございましょうか。」
「ええ、丁度和歌の稽古を終えたところです。」千鶴は微笑みながら答える。実は光秀との間には、ある秘密の約束があった。
光秀は周囲を確認すると、声を潜めて言った。「例の品、調達して参りました。」
千鶴の目が輝く。光秀が懐から取り出したのは、京の町で密かに流通している「同人誌」だった。戦国の世とはいえ、都では既にこのような文化が芽生えていたのである。
「まあ!これは噂の『信長公熱血絵巻』!」千鶴は小さな悲鳴を上げそうになるのを必死で抑える。「光秀様、本当にありがとうございます。」
実は光秀もまた、千鶴と同じ趣味の持ち主だった。表向きは厳格な武将でありながら、密かに戦記物の「同人作品」を愛好していたのである。
「千鶴様も、作品の出来具合はいかがでしょうか。」光秀が小声で尋ねる。
「え、ええと...」千鶴は反古箱の中の自作を思い出して赤面する。「まだまだ研究の途上にございます。」
「そうですか。」光秀は理解を示すように頷く。「実は、来月京で開かれる『戦国絵巻即売会』のことでご相談が...」
その時、急な足音が廊下に響いた。
「千鶴様!」侍女の声が慌ただしく響く。「信長様がお呼びです!」
千鶴と光秀は慌てて姿勢を正す。同人誌は素早く几帳の陰に隠された。
「はい、参ります!」千鶴は返事をしながら、光秀に小声で言う。「即売会の件は、後ほど...」
光秀は会釈で応える。二人は表情を引き締め、それぞれの「表の顔」に戻っていった。
廊下を歩きながら、千鶴は胸の内で思いを巡らせる。戦国の世に生まれた姫君として、当然果たすべき務めがある。しかし同時に、誰にも理解されないかもしれない自分の熱意がある。この二つの間で揺れ動く心を、どう落ち着けるべきなのか。
そして、兄・信長に呼ばれた理由が、彼女の秘密の趣味と関係しているのではないかという不安が、千鶴の心をよぎった。しかし、それは単なる取り越し苦労だったのか、それとも...。
信長の間に向かう千鶴の足取りは、いつになく重かった。